見つかった。見つかった。
ばくばくと跳ねる心臓は、今更自分に生を実感させているようで不快だ。
「ついてきて」とだけ、アイリスは言った。すぐさまあの場所で
頭が一色に染まって何も考えられなくて、黙って彼女に従うことしかできなかった。
短く浅い呼吸を繰り返す僕と、その隣に座る桜。彼女は先ほどの拒絶なんて無かったかのように、ただ心配そうな目で僕を見つめている。
何の変哲もない黒いバンの中。僕はどこかへ輸送されていた。柔らかい座席の感触はやはり自分に相応しくないように感じて、無意識に貧乏ゆすりをしてしまう。
「綾芽ちゃん。私、あなたのこと好きだよ。…だから戦いたくないの。信じていいんだよね?」
彼女の言葉から、桜とアイリスは旧知の仲であることが
さらに呼吸が浅くなる。居心地の悪さを感じている。
桜の言葉に、アイリスは振り向いた。
「——ッ」
その筆舌しがたい混沌を孕んだ目に、心を奪われた。疑い。恐怖。それに並んで、彼女の目に浮かぶ感情。
憐憫だ。
僕が持っていないものに対する、僕が失ったものに対する哀れみだ。
自分が
アイリスとは初対面。勿論、彼女のことはほとんど何も知らない。
そんな彼女に、縋るような気持ちを抱いてしまう僕はどこかおかしいのだろう。
30分ほど走っていただろうか。やや乱暴に停止した車は、シートベルトをつけ忘れていた僕の体を雑に揺らす。
「椿ちゃんっ!」
たったそれだけのことで、桜は大怪我でも負ったかのような悲痛な声で僕を心配した。不思議と、桜の思いやりを素直に嬉しいと思えない。
「…孕娼の魔女。ここからは、桜とは別行動。あなた一人で私について来て」
僕を支える桜の手。その指に、強く力が入ったのが分かった。
「! ———なんで!?私がいないと椿ちゃんは……!!」
「桜」
平坦な声は桜とはひどく対照的で。声を荒げた少女は、たちまち叱られた子供のように押し黙る。しかしその顔には敵意が残っている。きっと桜からは向けられたことの無いその感情に、アイリスは悲しそうに眉尻を下げていた。
「…今、対策課本部と私の意見は分かれてる。信じてほしい。孕娼の魔女……いや、椿、でいいんだよね。椿のことを、私はこれ以上傷つけたら駄目だと思ってる」
傷。
硬直した。彼女は何かを知っている。アイリスは僕の目を覗き込んでいる。険しい目の中に、もちろん怯えの感情は混じっている。しかし瞳に写る優しさは、彼女が怪人ではなく人間を見ていることを示していた。
何か変わるかもしれない。と、希望を抱いてしまった。
◇
「ここは私の管轄だから大丈夫」なんて言って案内されたのは、刑務所の面会室を連想するような、真っ白で机と椅子以外は何もない部屋だった。
ずっと名残惜しそうにする桜と別れて、今までは外から眺めるしかなかった対策課の中、変身を解いたアイリスに連れられて着いた場所。
部屋の真ん中を仕切る、アクリル製の分厚い壁。アイリス———いや、綾芽は、その当然の用心を無視して、僕を自分のすぐ隣に座らせた。
「……僕は、仕切りの反対側じゃないと、駄目なんじゃないですか」
沈黙と、彼女との距離に耐えられなくて、思わず口に出た拒絶の言葉。彼女が顔を歪める理由が分からなかった。
「…多分、桜があなたを助けた日のことなんだけど」
遠慮がちに話し出した台詞からは、後悔が滲んでいるように思える。
「私たち、あなたが居た部屋に行ったの」
「!」
すぐにフラッシュバックする冷たい床の感触と、何人もの嗜虐的な笑顔、笑顔、笑顔。脳がちりちりする。めまいがする。視界がちかちかする。
きっと桜と同い年くらいであろう綾芽に自分の醜態をとても見せられなくて、必死で衝動を内に仕舞い込む。幸い、彼女も何かにいっぱいいっぱいで、僕に対し話を続けながらも、僕を見ている余裕はないようだった。
こちらの拍動が大人しくなってきた丁度その時、綾芽の声も言葉の途中で詰まった。首筋に貼り付くような気持ちの悪い沈黙だった。
「………見て、もらった方が、早いかもしれない」
僕の前に差し出したのは、一つのUSBメモリだった。おかしい所はどこにもない。普通のメモリだ。説明を求めようと、軽く彼女の袖を引く。みっともなくも、まだ綾芽に対して声を発するのが怖かったから。
そんな僕の幼稚な動作を受けてから、数秒も経っていない。突然、綾芽の頬に一筋だけ、涙の線が描かれる。
「…!?」
どうすることも出来ずにおろおろとしていると、綾芽は「ごめんなさい」と一言だけ言って、目をぐしぐしと荒く擦る。何かに怒っているようにも見えた。
「…一枚のメモリを『
「ッ!!」
「…それだけで、心当たりある、よね」
見るからに動揺した僕を見て、また綾芽が表情を歪める。今度はその表情の意味がよく分かった。
愚かにも、まだ抗っていた時の記憶。大柄な体躯の怪人が、その鎖で僕を後ろ手に縛りつけて、鉄臭い鎖の隙間に肌が挟まって痛くて、声を出す僕を
全力で口を押さえた。口腔いっぱいを酸っぱい液体が埋めていく。それでも勢いは止まなくて、唇の端から漏れないように口を強く引き結んで、なんとか飲み込む。
「ごっ…ごめん!思い出させるつもりは……!」
先ほどとは真逆。打って変わって、綾芽が僕を見て狼狽える。その敵意の無い眼に、少しだけ気持ちが落ち着いた。
首を振って「大丈夫」の意思を示す。罪悪感で自傷を始めてしまうのではと疑うほど、綾芽の顔は真っ青だ。
そんな調子にも関わらずまだ話さないといけないことがあるようで、悪い顔色のまま再度彼女は口を開く。
「対策課は、国民を守らなければいけない。多数派を混乱させて、国を危うくさせてはいけない、なんて綺麗事を言う。…あいつらも
「………」
以前の僕ならば。軽く「そっか。仕方ないね」なんて言えた気がする。「痛くしないでね」なんて冗談を言って、諦められたかもしれない。
嫌だな。
そう思えてしまう。せめて、人として死にたい……それすらも、嘘だ。生きたい。また、戻りたいと思ってしまう。どうせ帰ったところで元通りは不可能なのに、背負った罪は死でさえ償えないほどなのに。
泣きたくなかった。
「そこで、なんだけど、」
綾芽の言葉を、けたたましい
危険度B。『魔女の児』の疑い。直ちに現場に向かってください。直ちに現場に———
ブツリと、警報が途切れる。綾芽が端末を操作した直後のことだった。彼女は動揺していない。むしろ、その警報を予知していたかのような落ち着きだった。
「…魔法少女も、怪人みたいに不思議な力を持ってる。でも、私たちは人類の味方」
立ち上がって、手を差し出してくる。少女らしからぬ、強制力に負けた弱々しい顔。まるで、冤罪の犯罪者を殺さなくてはいけない処刑人みたいだと思った。
「………酷な質問をする。自分の子供を、殺す覚悟はある?」