「…椿さん、でよかったかしら?私は紫乃 菫。仲良くしてくれると嬉しいわ」
「わたしのことはひまりちゃんって呼んでね!よろしく、椿ちゃん!」
目を隠しているとはいえ、微塵も尻込みせずに迫ってくる二人に身じろぎする。明るい顔で近づいてくる相手なんて「変化」してから初めてで、何を言えばいいか分からない。
頼みの綱である桜の方をちらと見る。しかし彼女は、身勝手な行動を担当職員にこっぴどく叱られてからずっと黙ったままだ。
ああ、そういえば。
怒涛の流れに目を回して頭から抜けていたが、僕は桜に助けてもらったのだ。本当ならば、あのまま殺されていてもおかしくなかった。
その方が良かった、とはもう思わないようにする。
何はともあれ、お礼くらいは言いたい。しかし友好的な態度を見せる菫とひまりを放っておくのも忍びなく、結局おろおろしていると、
「——ぅわっ」
いつのまにか背後まで来ていた桜が、僕の肩を引き寄せた。そのままバランスを崩して、桜の体に体重を預ける。
「…?」
その行動に、何故か桜もきょとんとしていた。意図を尋ねようにも、その本人が不思議そうな顔をしているのでこちらからは何も言えない。また膠着状態になってしまった僕らを、ひまりは観察するように見つめている。
「…これは、いいことなのかな?」
その呟きが自分宛てであることに気づいたのか、桜はハッとしてひまりたちに焦点を合わせた。
「あっごめん!また考え込んじゃってた…」
「まぁ、あんなことがあった直後だものね、無理もないわ。処罰も無いみたいで安心。でも——」
「菫ちゃん?どうし……あうっ」
「もうちょっと説明してくれても良かったと思うのだけど?」
桜の両頬を掴んで横に伸ばす。菫がその手を上下に動かす度に、桜の口から弱い悲鳴が上がった。数秒経ってやっと解放された桜の頬がほのかに赤くなっているだろうことは、見なくても分かった。
「はい。これでチャラにしてあげる」
「うぅ…反省します…」
その会話の間、僕はずっと二人に挟まれたままだ。気まずくて空気に徹するも、桜は決して僕の肩から手を離さない。僕はきっとその手を払うことができない。
諦めてある程度は身を任せようと、力を抜いた矢先。先の幸との対峙で疲労が溜まっていたのだろうか、たちまち僕の体は桜の支えに完全に依存する。
きゅっと、肩を持つ手に力が入ったのが分かった。
「…ねぇ、桜ちゃん」
やはり僕は疲れていたのだろう。ほんの数週間前までは、何もかもが敵の環境で縮こまって生きていたのだ。突然かわいそうな被害者の名札を貼られて、温かい飲み物を渡されて、敵だった人たちに優しくされて。脳がびっくりしたのだろう。
「——なんで僕なの?」
そうじゃないと、こんなこと聞いてしまうはずがないのだから。
自分が何を言ったか分からず、気づけば口に手を当てていた。
流石に分かっている。どれだけ優しい人でも、誰しもがその優しさに優先順位をつける。見ず知らずであるはずの僕を桜が助ける理由は、優しさだけでは説明できない。
だから聞くべきではなかった。聞いたら何かが変わってしまうから。
しかし予想に反して、桜の雰囲気は穏やかで。むしろ菫とひまりの方が緊張を隠せていない。
「…ちょうどいいかもしれないね」
「「!!」」
その声色には諦めが混じっていた。でもどこか前向きだった。息を呑む二人に笑いかけた後、桜は僕を放した。端に寄せていた椅子を3脚運んで来て、僕たちに座るように促す。「桜ちゃんのぶんは?」とひまりが尋ねても、彼女はゆっくりと首を横に振るだけだった。
「……桜。話して、くれるの?」
「うん。もう隠し事はやめる。菫ちゃんも秘密にしてることがあるなら今のうちだよ?」
いたずらっぽく微笑んだ後、気を取り直すように咳払いを一つする桜。
「椿ちゃん。初代魔女のことは知ってる?」
突然投げかけられた質問に肩を跳ねさせながらも、しかと肯定を示す。現在、僕よりも知名度の高い怪人はおそらく彼女だけだ。
『魔女』
七年前、突如侵略を始めた怪人に対抗する力を与えてくれた怪人。人々を魅了した怪人。人々が傾倒した怪人。人々を、崩壊させた怪人。
「…私ね」
桜の声は淡々としていたから、油断していると聞き流していただろう。その軽さに、彼女が語る言葉はあまりにも分不相応だった。
「——
下水が流れる音だけが無骨に響く地下水路で、黒髪の怪人がよたよたと歩いている。
「…くそ。なんでぼくがこんな目に」
数週間前までは元気に吐くことのできていた悪態も、今では億劫さが
マーダーは八つ当たりのごとく、水路に唾を吐いた。粘ついたそれは、見た目よりも流れの強い汚水に飲み込まれて消える。舌打ちをすると同時に癒えない腹からまた血が垂れて、自身の歯軋りの音にも苛立っている。
「…なんでッ、治らないんだよ」
自分から逃げた
あんな理想ばかり追う
(ワームホールもテレパシーもぼくの居場所くらい分かるだろ!?本当に、薄情で害悪なやつらだ)
選ばれたぼくが、求められているぼくが、狭い下水道に独りぼっち。
屈辱だった。体力の無駄だと分かっているのに、通路に転がっていたコンクリートの欠片を蹴り飛ばす。
その欠片が、眼前の女の足に当たって止まった。
「…………あ?」
確かに数秒前まで、そこには誰もいなかった。全く気配を感じぬままに、まるで初めからそこに居たかのように、女は佇んでいた。
「此処に来るのは随分と久しぶりな気がするね」
明瞭なのにどこかズレた不快感を感じる声は、マーダーの存在に気づいてさえいない事を示している。
女がぐっと伸びをすると、腰まで届く長くて
考えるよりも先に身体が動いていた。煮えたぎる頭の中、マーダーは女の首筋に不可視の刃を飛ばす。さすまた状の切先が女の首を抉る幻視。それに反して、刃はマーダーの制御を外れて
「おや?」
初動の失敗は想定済み。女の背後に回り込んで、五寸釘が
瞬間、マーダーの腹の傷が堪えきれなくなったように血を噴射した。
彼の手が鈍る。僅かに鳴った水音に、女は自然に振り向いた。
濃い青がマーダーを見据える。底冷えするほどに美しい目。何かを掻き立てる怖い眼。もう逸らせない。
黒髪の怪人は膝を折る。まるで王に屈服する下民のように。せめてもの抵抗にと、女に落としたギロチンの刃は、女に片手で掴まれる。もはや不可視は機能していないに等しい。
「——駄目だ。全然なっていない」
女の声が初めてマーダーに向いた。たったそれだけで、燃えたぎる怒りとそれを押し潰そうとする畏怖が同時に湧き上がる。
そんなマーダーの内心を見ようともせずに、女は苛立たしげに口を動かす。
「見たところ、処刑器具等を出して操れる能力なんだろう?それをただの攻撃に、ましてや戦闘に転用するのはナンセンスだと思わないかい?」
講義をする教師のように女は人差し指を立てる。「少し借りるよ」と言って、不可視のギロチンを台座ごと持ち上げた。
まずい、と反射的に構えた右手は、
「顕現解除を念じるだけで出来ないのか。…未熟だね」
優しく女に包まれた。それだけのことで、マーダーの右手にはもう力が入らない。震えることしかできない。
「道具には本来の使い方というものがある。正しく使わないと、正しい効果が出ない。君もそれくらいは分かるはずだ。そして、処刑器具の用途はもちろん処刑だ。———こんなふうに」
「待っ——え″づっ″っ!!!!」
見えない凶器を器用に使って、女が落としたギロチンはマーダーの首に深々と刺さる。脊髄が真っ二つに分担されたのか、体は壊れたロボットのように激しく痙攣して、頭が内側から爆発したかのような熱さが脳を染めて、瞬く間に意識が飛ぶ、
寸前に首を半分まで分断していた刃が取り外されて、女の手がぱっくりと割れた首を包んだ。
「ッッ!!!!」
叩き起こされたみたいに、再び痛みと意識が戻ってきて目を開けることはできても痛みでまだできる動作は身をよじらせるだけ。痛い痛かった。
「と、まぁ今はやめておこう。正しい使い方を語っておいて何を、と思うかもしれないけどね」
くすりと笑う女の声に、屈辱で頭が真っ白になる。呂律が回らないのを承知で、まだ勝てないのを歯噛みしながらも受け入れて、彼女に言いたいことがある。
「殺してやる…殺して、やる!!」
「これは驚いた、もう喋れるのか。しかしやめておいた方がいい。確かに死なないように治療はしたが、私はそちらは専門外だ。今は安静にしときなさい」
「うるさい!お前さえ…お前さえいなければぼくは…!」
肩をすくめようとした女の顔が、マーダーの顔を見て少し険しくなる。
「あれ?……君はもしかして、昔私に突っかかってきた子供かい?」
懐かしい、とでも言いたげに手を打つ女の仕草は、マーダーの神経をこれ以上ともないほどに逆撫でする。マーダーの怨嗟が強くなった。
しかし彼の語彙は見た目相応に少なくて、延々と同じ罵詈を吐くマーダーを女は呆れたような目で見つめていた。
「いつまで経っても幼いね、君は。さっきの戦い方もまるで進歩していないじゃないか。成長が見えない。……その力は君には早かったのかもしれないね」
もう一度女はマーダーの手を掴んだ。触れ合った手と手の間から、ごきゅん、と何かを飲み込む音が響く。瞬間、マーダーの体がひときわ大きく跳ねた。
「!?……なに、を」
みるみるうちに青くなるマーダーに対し、女は諭すように微笑んだ。
「しばらく生身で生きてみるといい」
背を向けた彼女は、すでにマーダーに興味を持っていない。背後から聞こえる雑音を無視して、女は鼻歌を歌う。かつてあの子に教えてもらった歌を。
白髪の女———