また部屋が移動になった。資料室と予備の部屋しか無い最上階の一番奥。僕を守る——いや、監視する職員の数は少しだけ減った。代わりに二人ほど、魔法少女が配置されることになった。
「これ、美味しかったから椿ちゃんにも食べてほしいなと思って!」
桜は変わらず僕の元へ訪れてくれている。
一言お礼を言って、そのクッキーを口に運んだ。例えるならばきめ細かい砂。器官に詰まらないように気をつけて飲み込んで、「おいしいね」と言った。
「…椿ちゃんは、椿ちゃんだからね」
桜は僕の手を握るのが好きだ。そろそろ暖かくなってきたし、僕の冷たい手が心地よいのだ。
彼女が投げかけてくれる話題にぽつぽつと返事をしていると、桜は慌てたように時計を見る。
「そろそろ行かなくちゃ」
今までは、少なくとも二日に一度来てくれていた。テレパシーが死んでからはその頻度は減った。
「忙しそうだね。ここに来てくれるのは暇な時だけでいいよ」
「っううん!私が来たくて来てるだけだから!」
虚を突かれたように声を裏返した後、桜は急ぎ足で帰っていった。部屋を出るために桜が扉を開けると、
彼女たちは桜を奇人のような目で見ている。桜は気づかないふりをする。扉が閉まる寸前、二人の魔法少女は僕を一瞥する。
(怪人が人間を好きになるなんて)
未知のものに触れたように、遠目に僕を眺める目だ。
携帯の電源を入れると、ホーム画面に鎮座するアプリはデフォルトのものとチャットアプリだけ。緑のアイコンをタップして、トーク履歴を表示する。
[前に話してたアニメ、俺が定期購入してるサブスクで見れるらしいぞ。また俺の家来れるか?]
[本当?それなら一緒に見たいな。でもまた行くのは難しそうかも…]
[それは残念だ。でも、画面共有したらリモートで一緒に見れるっちゃ見れるしな]
[気遣ってくれるのは嬉しいけど、杏一も忙しいでしょ?もう部活の引退もそう遠くないし]
[…まぁ]
[すぐ見たい訳じゃないから、またひと段落してからにしない?]
[椿がそれでいいなら]
分かっている。僕が杏一の隣にいるのが可笑しいことくらい。
気づいている。魔法少女たちの間で、僕が杏一に執心なことが噂になっていることくらい。
聞こえている。その思いが変だと、
[そういえば、桜ちゃんと会ったりした?ほら、一緒に逃げたピンクの髪の子]
[…寝てる?]
[すまん、スマホ見る時間がなかった。椿と会った前の日に謝りに来たよ]
[その…あの時宿から抜け出したのは僕が悪いから。桜ちゃんは悪くないってことは言っておきたくて]
[桜さんを褒めることはあれど、怒ることはないさ。まだ中学生なのに人助けに真摯で立派だと思うよ。でも、だからといって椿が悪いわけでもない。今なんとかなってるんだから、過去のことなんて気にしなくていいんだよ]
[…そうかな]
[まあ不安ならいつでも俺に言いな。気の済むまで聞くからさ]
[ごめんね]
[違うだろ?]
[ありがとう]
[よし]
彼は本当にすごい人だと思う。もう受験も考えないといけない時期だ。学校も忙しいだろうに、僕のことも気にかけてくれて、きっとあらゆることに全力で取り組んでいる。
[ニュース見た]
[そっか]
[……大丈夫か?]
[うん]
[こんな陳腐な心配しかできなくてごめん]
[大丈夫。それより、もうすぐ最後の地区大会の時期じゃない?]
[そうだな。インターハイに出るにはこれがラストチャンスだ]
[じゃあ僕の心配よりそっちの方に集中!頑張ってね]
[ありがとな。せめて賞状くらいは見せられるよう頑張るわ]
杏一は強い。僕がいなくても、平気で日常を謳歌しているように見える。毎日の充実によってできた余裕を僕に使ってあげているように見える。
僕は弱い。彼がいなくては、僕は何に縋ればいいのか分からない。最近は忙しいのか、メッセージを送ってもその日中に返ってこないことがしばしば有る。それだけで痛い。
[最近の学校はどう?楽しい?]
[杏一?]
[ごめん、嫌なこと聞いた。無視して]
[ごめん]
画面にうっすらと自身の気持ち悪い瞳が映っている。それに顔をしかめて、画面の光量を上げた。
スワイプする。
くだらない会話の集積が、僕にとっては大事な宝物だ。どんな感情でこのメッセージを送ったのか、今でも鮮明に思い出せる。これも、これも、全部。
[彼女とか作らないの?]
昨日送ったメッセージ。悩んで悩んで、結局送ってしまった。
[昔から散々言ってることだけど]
[なんだよ急に]
[そんなに興味無いし、いらん]
[そんなにってことは少しは興味あるんでしょ?杏一のことを好きな子なんて絶対いるだろうし]
[本当にどうしたんだよお前。第一、今は作る余裕すらねえよ]
>>[じゃあ、部室で抱き合っていた女は誰なの
送信ボタンを押さないのが最後の理性だった。
わけもわからず目頭が熱くて、ぼろぼろ垂れる涙の感触に慣れることは、今後もきっと無いんだろうということだけ分かる。
午後14時05分。電話してみようか。迷惑だろうか、その迷惑は、時間のせいじゃないかもしれない。
僕のメッセージに、杏一が顔をしかめて対応していたらどうしよう。不安はゴム
『ナーサリーちゃん。君は怪人なんだよぉ』
「…違う、僕は」
『欲しければ奪うしかない。君が自分で選んだんじゃないのぉ?——この子殺し』
「っ!!ッ、っ……おぇ」
吐けない。
『何回も境界を越えて、今更何を怯えているのさぁ』
「……」
『憎くないのぉ?』
「…憎いわけ、ないよ」
『そうだねぇ。杏一は、悪くない。僕が真に憎むべきは誰なんだろうね』
「それ、は」
『僕の思いってその程度なんだっけ。欲しくないの?』
そんなの。
あの男の、優しい眼差しも温かい腕も低い声も大きい手のひらも髪の一本まで。
「欲しいに決まってる」
「何が欲しいんだい?」
現実の耳を打つ声にぎょっとして、携帯を地面に落とした。その硬い音に怯む様子も見せず、目の前で穏やかに白髪が揺れている。
「見違えたね、椿」
青い目が嬉しそうに細められていた。
「……ヘクセさん。どうしてここに」
「やっぱり気づいていなかったんだ。君の力が外まで漏れてる。このままじゃ危ないかなと思って、ある意味敵陣の中を突っ切ってきたんだよ?」
ヘクセは仰々しく扉を指す。そこで初めて気づいた。開け放たれた扉の先、いつもは絶えず聞こえる職員と魔法少女の声が無い。脳裏に浮かんだ想像はあり得ないことで、しかしこうとしか考えられない。
この人は、対策課の中を歩いてここまで来たのか?
「ずいぶん驚いてるね。でも椿もすぐに出来るようになるさ。現に、以前会った時よりも私に対する強迫感は減っているんじゃないかな?」
言われて初めて意識する。彼女の言葉通り、前は吸い込まれそうなほどに深かった青い瞳も、今ではただ美しいとしか感じない。
だからといって心の中が僕一人になったわけではない。むしろ前より強いもの。ヘクセよりもずっと鮮明で見慣れすぎた顔が、その優しさが、作り物だったんじゃないかって、どろりとした恐怖がこびりついて離れない。
「あの少年が気になる?」
「ッ!」
「あぁ、勘繰る気は無いよ…ただ一つアドバイス。
これ以上、なんて。
垂れそうになった悪態を飲み込んだ。僕の態度にヘクセは苦笑する。今日の彼女はずっと楽しそうにしている。
「おいで。ぴったりの練習台がある」
扉へつかつかと歩いていく。逡巡の後、僕は彼女についていく。「縋りたい」と囁く感情は、ヘクセの魔眼が作った偽物なのだろうか。分からない。その未知が怖い。
「魔女の力は網のようなものだ」
平日の昼というだけでは説明できないほどに閑散とした県道を、ヘクセは淀みない足取りで先行する。
「自分が求めるあらゆるものを、手の届く場所まで手繰り寄せる」
この道には見覚えがあった。二年間、僕はこの道で杏一の隣に居た。
「その力は、
ヘクセの言葉には、いくつも心当たりがある。彼女がこちらを振り向いて微笑んだ。ぴくりと反応した僕の肩の動きに、彼女はどうやって気づいたのだろう。
「その力を応用すると、このように遠ざけることもできる。部屋を出てから誰にも会っていないだろう?…まぁ、気休めのようなものだけどね」
呆けるのをやめて、再び歩き出したヘクセを追いかける。饒舌な口は止まらない。
「力は思いに依存する。だから場所も大事なんだ……初めてなら特にね」
やがてヘクセは立ち止まる。辺りを見回すように促してきた。意識を周りへ向けた途端、視覚より先に語りかけてきた匂い。
自分がどうやって此処まで辿り着いたのか曖昧だ。だけど、僕は確かに校舎の中に立っている。
「…どういう、ことですか」
ヘクセの口角は下がらない。
彼女に連れられて訪れた場所。僕のクラス教室のちょうど真下に位置する、倉庫のような部屋の前。扉の上、『技術準備室』と書かれた教室札を気にかけたのは去年ぶりだ。
「…話は変わるがね。最近、ある少年に付き纏われて迷惑しているんだ」と彼女が言った。その引き戸に触れた白い手から、不思議と目が離せない。
「——ッ!!!」
開いた扉の先で、誰かが倒れていた。
忘れるはずもない、心よりも先に体が覚えている。自分がその場にへたり込んだことを、床の冷たさを感じて初めて理解する。
「今、君の心は不安定だ。魔女の力の練習も兼ねて、彼で鬱憤を晴らしてはと思ってね」
焦点の合わない視界とは対照的に、ヘクセの言葉は鮮明に、耳の奥まで何度もこだまする。
「…ぁ″」
目の前からうめき声が聞こえた。反射的にそちらを見ることになる。綺麗な黒髪が重力に負けて少しだけ垂れている。幼い少年の姿に似つかわしくない邪悪な瞳が焦点を取り戻していく。
「……
僕は、目を合わせてしまった。