つい昨日ヘクセと話していた場所。廃ホテルが、周囲の道路に甚大な被害を与えながら崩壊した。
幸い死者は出なかったが、それは明らかに人為的な破壊によるものらしい。ヘクセの仕業だと、すぐにピンと来た。
さらに、建物の崩落事件は一つに留まらなかった。数々の建物が、崩壊によって道路を瓦礫で埋め尽くす。
通行を防がれた道路は、どれもが他の街へと繋がる導線だったようで。街から脱出することは非常に困難になっている。各地で鳴り響くサイレンの音は、ことごとく役に立たずに立ち往生していた。
初代魔女の襲来を対策課内に留めておくことは不可能だったらしい。
元々
街ごとパニックになるのは、想像に難くなかった。
『衝突事故が多発しています。車での移動は控えてください。落ち着いて行動してください。特に高齢者、未成年は極力家から出ないようにしてください』
ビルの壁に映る大きなモニターは、緊急警報のニュースを絶えず放送している。その音を僕は、あの時のように路地で聞いている。
僕は対策課に帰らなかった。「明日に全て終わる」とヘクセに言われたからだ。僕はヘクセに少なからず好感を抱いていたから、彼女の言葉を信頼することにした。
「そろそろ、かな」
午後0時。高く輝く太陽の光を
この時間に、この場所で。面と向かって会おうと言われた。身を隠すことなく、堂々と姿を現せと指示されたものの、やはり人前に出ることに強い恐怖を持っている。
ほんの少しだけ大通りの方に近づいて、恐る恐る耳をそばだてた。
音の圧に吹き飛ばされた。
どうして今まで意識せずにいられたのだろうと疑うほどの、濃くて厚い人々の声、声、声。
全てが
長い間姿が分からず、直接的な被害がなかったはずの
なぜそこまで
自分もかつては、彼らのように怯える側だった。そう思えば、この程度の混乱で済んでいるのがむしろ不思議なくらいだ。
しかし自分がそこへ飛び込むとなると、やはりその障壁はあまりにも高い。
ヘクセは言った。「皆の前で、盛大にお別れ会をしよう」と。それすなわち、混乱に喘ぐ民衆は僕たちのお別れ会の観客ということか。
ヘクセの考えが読めない。足はすくんで動かない。
———君を人間には戻せない。でも、君を怪人でなくすことはできる。
でもヘクセの言葉は優しかった。僕のことを思い遣った言葉だった。
昨日、みっともなく生き続けると決めたはずだ。それでもやはり、どこかに自分を軽く見る気持ちもあった。だからヘクセには悪いけど。これで全部が終わってしまってもいいという気持ちが、少しだけある。
そんなひとつまみの自棄を抱えて、僕は人波の中、大通りへと飛び出した。
さも人が目の前で死んだような、狂うほど強い悲鳴があちこちで響く。僕の姿はすでに知れ渡っている。
今のように目を隠していても、路地から出てきた白髪の女がナーサリーであることは、皆すぐに分かったらしい。
対策課の中では僕は被害者ということになっている。しかし、未だそのことは一般にはひた隠しにされていて、民衆にとって僕は恐ろしい怪物だ。
驚きや混乱が
転んで泣き叫ぶ人を押しのけて、時には他人の首根っこを掴んで後ろへ追いやって、人々はその場から逃げようとする。その時、
「動くな」
荘厳な声に、場は水を打ったように静まり返った。圧倒的な恐怖によるものか、魔女の力がそうさせているのか。人々は石になったかのように、ぴくりとも動けない。
その中で、僕だけが空を仰いだ。
いつもと変わらない表情で、ヘクセは宙に立っていた。
ばちん、と重い音がしてヘクセが地上に降り立った時、やっと彼女が電線の上に立っていたのだと理解する。ヘクセによって切断された電線が火花を放って、車道沿いの並木に燃え移る。
燃え広がった炎は、赤絨毯のように僕とヘクセの間を繋いだ。火によって発生した気流。僕の瞳を隠していた顔布が、誰かにめくられたみたいに外れた。
僕の赤い眼とヘクセの青い眼が交差する。
ヘクセは促すように、自分の瞳を指さす。目に
赤い靄がヘクセを押し潰した。たちまちヘクセの頬に脂汗が垂れて、怯んだようにたじろぐ。
やはり訳が分からない。そもそも、街を破壊している理由さえ謎なのだ。今になって悪事に手を染めて、彼女は何をしているのか。
今だってそうだ。集めた団塊の中心で、人々をわざとらしく怯えさせて、僕と戦っているふりをする。これじゃあ、
僕が人々を守ってるみたいで変だ。
「あ」
僕が漏らした声に、ヘクセはほんの少しだけ笑う。地を蹴った。芝居がかった振る舞いで、僕に向かって一直線。
無意識に右手を、彼女に向かって突き出していた。その手に不思議な熱が宿る。この感覚を知っている。
——何を、したんですか?
——内緒。
昨日、彼女と最後に交わした会話が蘇る。ヘクセは僕の右の手のひらを、その綺麗な爪でほんの少し引っ掻いた。その時と同じあたたかさだ。
手に
その針のような刃がヘクセを貫いたのは同時だった。
「…………ヘクセ、さん?」
あまりの速さにほとんど認識できなかったけれど。確かにヘクセは、自らこの切先に飛び込んできた。
この手に届く肉のような感触さえなければ。ハグしてるみたいだ、と呟きを浮かべて、熱を感じている。僕たちの距離は近すぎて、彼女の顔を見ることはできない。大勢の人に囲まれているのに、二人だけの世界になった気分だ。
ま、た、ね。
耳元で囁く声を聴いた。思わず、もう一度彼女の名前を呼ぼうとした、その瞬間。ヘクセは光の粒子になって、一斉に弾け飛んだ。
花火みたいなその光。細剣から伝わる感触もとうに消えていて。淡く溶けていく光の中には、もう誰もいない。
光は完全に消えて、痕跡すら残らない。でも確かに彼女はたった今まで此処にいた。その記憶だけを頼りにして、虚空をいつまでも見つめていた。
◇
何度目かの歓声にびくりと肩を跳ねさせる。その様子を見て、隣で桜が苦笑した。
彼女の顔に浮かぶのは、満面の喜びではない。しかし困難を全て乗り越えた、達成感に満ちた顔つきをしている。桜は今後、どんなことがあっても折れないんだろうなと分かる。
「疲れたならいつでも言ってね」
「…ありがとう。でも頑張る」
周りの人々の明るい声で、桜の声は聞き取りにくい。なんとか言葉を読み取って返事をする。
僕は今、桜の隣でオープンカーに乗っている。周りから襲いかかる音圧はほとんどが僕に向けられたものだ。顔を隠しているのに、僕が顔をあげる度に周囲の喧騒は大きくなる。
正直、気持ち悪い。
きっと今歓声をあげている人々は、かつて僕を嫌い、憎んだ人々だ。僕の本質はあの時から何も変わっていないのに、ただ結果だけを見て手のひらを返した。
しかしこれがヘクセの置き土産であると思うと、それを蔑ろにする気にはなれない。それに、良いことには違いないのだ。
これで晴れて僕は、人間を脅かす魔女から、人間を守る魔法少女になったのだから。
『
あつらえむきな報道は、すぐさま日本中に拡散された。これを好機とみなしたのか、綾芽率いる「
実際に「魔女の児」に被害を受けた者はともかく、魔女に関連する騒動を対岸の火事で眺めていた多くの人々は、「魔女保護派」に賛同した。
多数派を味方につけるとは本当に恐ろしいことで、日本中の同情や感謝の声に対策課が屈した結果が、
「ありがとう!」
また肩を跳ねさせてから、声に小さく手を振りかえす。直後、散在する憎悪の視線が強くなったのを感じた。
『孕娼の魔女』の被害は決して少なくなかった。現在、対策課が僕と『魔女の児』の関係を否定してくれているようだが、それを空っぽの頭で鵜呑みにする人ばかりではない。
なんで、お前が賞賛されている?
そう思う人もいるだろう。僕を恨む人がいるだろう。しかし、そちらの方がよっぽど自然だ。突然、昨日まで敵だった僕を持ち上げ始めた民衆。彼らの本心が分からなくて、その明るい視線が怖い。一貫した感情の方が納得できるのだ。
人の思いは簡単には変わらない。たとえ「諦める」と決意したからって、そう簡単には消えてくれない。
……杏一も、僕のことを見に来ているだろうか。
ふと、カバンに入れた携帯に意識が向いて、そんな自分に呆れた。もう彼の連絡先は消したじゃないか。
もう僕を本当の意味で
寂しい。
違う、これで良かった。困難を全て乗り越えて、やっと僕は日常に帰ることができる。だから思い出したくないんだ、少なくとも今は気づきたくないんだ、
もう一度笑顔を見たいと思っては駄目なんだ。
自分の服をぎゅっと握った。力が足りなくてシワにもならない。椿なら、それくらいの力は有った。だから僕はもう椿じゃない。ナーサリーでもない。全く新しくて未練のない自分になろう。それがいい。
辛い。
うるさい。そんなことは無い、やりたいことが沢山あるんだ。僕が魔女じゃなくても、椿じゃなくても、桜たちは僕を迎えてくれている。
これからゆっくり忘れていけばいい。そうすれば、僕が「紅露 椿」であったことも、一番大切な親友を好きになったことも、いつかは笑い話になるだろう。
だから笑おう。
今日から僕は魔女じゃないんだ。今のように顔を、目を隠しさえすれば、僕は普通に生きて良いんだ。幸せなんだ、僕は。
会いたいよ、杏一。
上手く笑えているだろうか。