孕娼の魔女   作:甘朔八夏

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38.4 臆病愛

 

 

脚を(まさぐ)るごつごつとした感触が吐きそうなくらいに気持ち悪い。浅く跳ねる心臓のせいで息もどんどんしにくくなる。

男は抵抗しない僕を見て、にたにたと笑っている。

 

「良いよ。大人しくしてれば痛くしないから」

 

変な呼吸は元に戻らない。怖い、苦しい、逃げないと。そうだ僕は今や魔法少女。変身して武器を出せば、こんなことやめてくれるかもしれない。

そんな思考に反して体は動かない。

 

頭にどろっとした液体が注がれているような、脳から何かが滲み出ているような、熱くてじくじく痛いストレス。

それから逃れようとすることさえ出来ない。

 

「げえ″、ぇ″」

 

感情が許容を超えて、えずいた。男性はそんな僕に舌打ちして、乾いた音と真っ白な衝撃。頬を叩かれた。痛みがじわりと広がって、

 

抵抗できない。

 

身体が覚えてしまっているからだ。抵抗したらもっと辛いと知ってしまっているからだ。どんなに痛くても怖くても声をあげず、叫ばず、唇を噛んでひたすら耐えるのが一番マシだったと学んでしまったからだ。

 

ナーサリー。

 

幻聴がする。苗床、産む機械だ。怪人は僕を襲うのが義務だった。そこに彼らは楽しみを見出した。哭く声を娯楽にしたから、僕はあんな目にあって、この男性はむしろ、そのためだけにこんなことをしているのかだろうか、分からない、ただがむしゃらに嫌で嫌で息ができない。鼓動ができない。

 

 

男性は僕をベッドの上に押さえつけている。目隠しを外そうとはしない。それが唯一の救いで、今「男」の笑顔を見てしまったら僕はもう駄目になってしまうことだけは目に見えているから。

 

「性愛」なんて言葉を作ったのは誰だ、これが愛だっていうのか、男性が僕に向ける感情は愛なのか、それなら僕は今まで何を求めて寂しがっていたのか、こんな物のためだったのか、僕が杏一に向けるものも、本質的にはこうだったのか、こんなに気持ち悪いものだったのだろうか。

 

ああ、男性の後ろに影が見える。自責が生み出す杏一の影だ。お願い、こんな僕を見ないで。こんな醜くてみっともなくて弱くて惨めな僕を見ないで。

幻覚だと分かっていても、杏一だけにはもう何も見られたくない。

 

願いに反して、杏一の影はこちらに歩み寄ってくる。その影は力強く体を震わせて、拳を振り上げて、

 

 

男性の頬を勢いよく殴り飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え、う…ぇ?」

 

杏一の影は僕の目の前に来た。目隠しに優しく触れて、ヴェールでも剥がすかのようにそっと取り払う。ずっとずっとずっとずっと焦がれていた顔が目の前にある。

 

「まずは、こいつだ」

 

意識外からの攻撃に混乱状態の男性。杏一は僕から視線を離すと、その男性の首根っこを掴んで玄関先へと連れていく。杏一の顔は濃い怒りに満ちていた。

 

「一発目、椿に話しかけた分」

 

生々しい打撃の音と同時に、ぽきっ、と折れる音がした。男性の鼻から真っ赤な血が吹き出す。

 

「二発目、椿の家まで来た分」

 

ぞっとするほど冷たい杏一の声。その直後、鈍い空気の振動とくぐもった悲鳴が僕の耳まで届いた。

 

「三発目——」

 

「待って!」

 

まだ震える声で、力の入らない体で、なんとか杏一の腰にしがみついた。途端に石像になったかのように動きを止める杏一。深く考えての行動ではない。

ただ、彼の手が誰かを傷つけるために使われているのを見たくなかった。

 

「…杏一、は、善い人だから。手を汚すなんて駄目だよ」

 

僕みたいにならないで欲しい。

 

 

咄嗟に浮かんだ本音を受けて、

 

「…はぁ?」

 

杏一は本気で怒っていた。

 

「まさか俺が、お前を助けるためだけにわざわざ家を調べてここに忍び込んできたと思ってるのか?」

 

こんなにも刺々しい声を杏一から浴びせられたことは一度もなくて、咄嗟に彼から目を逸らす。頬を鷲掴みにされて、目を合わせさせられた。

僕が今まで見たどの瞳よりも綺麗な焦茶色の宝石。今までも、これからもそうだと思っていた。

 

しかし杏一の目に宿る感情は、澄んでいなかった。

 

「なんで俺から逃げた」

 

「…逃げた、なんて。違う、離れただけ。僕は悪人だから。杏一の隣に居る資格が無いのは当然で——」

 

「じゃあ言わせてもらうけどなッ!!どうやって俺はこの部屋を知った?この部屋に入った? ()けたんだよ椿を何日も対策課の前を張ってな!!!それでお前が夜、窓を開けっぱなしなことを見つけたんだよ!お前不用心すぎるだろもっと気をつけろよ!!本当は、夜にお前がこの男と歩いているのを見つけなかったら、部屋まで突撃する気は微塵もなかったんだからな!!!」

 

「…なんだよ、それ。なんで今更そんなこと言うの!? 僕を探してたって!?心配だから? 余計なお世話だよッ!!!せっかく諦めようと頑張ってるのに優しくしないでよ!! いっつもそうだ!!杏一は絶対僕をどんな時も見捨てなくて、他にもっと大事なものがあっても僕を大事にしてくれて!!! そんな嫌いにならせてくれない所が大っ嫌いだ!!!」

 

「だ、か、ら!なんで椿は俺を善人にしたがるんだよ!!幻想ばかり見るなよ馬鹿!!!今俺がこの男を殴ったのはお前を守るためじゃない!!お前を泣かしたこいつを、殺してやりたいと思ったからだよ!!!」

 

三発目、とばかりに杏一はうめく男を蹴り飛ばした。男は(まり)みたいに飛んで壁に激突、大きな音に僕の肩が跳ねる。

もうぴくりとも動かない男を見て少し冷静になったのか、杏一は声色を戻した。

 

「…クソ、やりすぎた。とりあえずこいつを何とかしないとな。警察に電話を——」

 

後ろポケットに手を入れた杏一。携帯を取り出した手を、僕は制止するように握った。

 

「…なんだよ」

 

「杏一は、この人を殴ったこととか、全部言う気?」

 

「……まぁ。隠したら後から面倒だろうし」

 

「そしたら、また杏一とお別れ?」

 

待て、僕は何を言っている。

『僕はまだ被害を受けていない。杏一の男性への暴行が過剰防衛と見做されるのは良くない。だからこのまま見逃そう』

そんな建前を言う暇も無く。

 

杏一を掴む自分の手。離そうとしても硬く握った手は開きそうにも無い。

やっぱり今までの僕の判断は正解だった。

ほら見てみろ、一度会ってしまえば僕はもう手を離せない。全部杏一が悪い。僕より大事な女を作ったくせに、僕は彼の何だろう。ただの友達?それなら無関係の方がマシだって何度言えば分かるんだか。

 

「…そこで泣くのはずるいって」

 

杏一は、本当に困ったように空いた片手で頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 

 

結局、気絶した男の身体は杏一が外へ捨て置いた。

再び静かになったワンルーム。しかし部屋に漂う息遣いは二つ。

誰かを招くなんて考えたことも無かった。一つしか無い椅子を譲り合って、結果ベッドに横並びで座る。

 

「「…あの」」

 

お決まりのように声は重なった。杏一の声は男性にしては少し高めだ。それでも今の僕の声より1オクターブ低いそれは、不思議とひどく心地よい。

 

遠慮するように両者が口を閉じる。また譲り合いが発生するかと危惧したけれど、その心配は不要だった。

 

「対策課の中でも、俺は面会拒否しろって指示してたよな。いつ行っても不在って言われたぞ」

 

「…ごめん」

 

「……それって、やっぱり椿が怪人を殺してるのを見たからか?」

 

婉曲のかけらもないまっすぐな質問に声が詰まる。

杏一がこちらを向いた。僕を見下ろす目に向き直ることができない。下を向いてやり過ごそうとしてしまう。その行動がすなわち質問への答えだ。

 

「怪人を倒すのは悪いことじゃない、っていう意見は今の椿に言っても響かないだろうから割愛する。それがなくとも、どうせお前は「僕なんか…」なんて、小さなことをいちいち話題に出していじけるのが目に見えてる」

 

「…僕が悪者なことは事実だし」

 

「別にお前は何も悪くない、とは言ってないぞ?」

 

予想外の返答にびっくりした。同時に、他でもない杏一に自分の罪を否定してもらいたいと思う自分がいることが、たまらなく不快だ。

 

疑問と不安と罪悪感で、無意識のうちに杏一の手を握っている。そんな自分がやっぱり気持ち悪くて、慌てて彼から手を離そうとした。

 

「ちまちまするなって」

 

杏一が僕の脇下に両手を入れて、自分の膝の上に乗せる。硬直した僕の様子もなんのその。クッション代わりとでも言いたげに僕の身体をぎゅっとして、杏一は顎を僕の頭に乗せた。

 

「椿が自分を悪者だと思うなら、それでいいと思う。でもお前一人で容疑者面するのは禁止な。何度でも言うが、俺だって善人じゃない。仲良く悪人、ならいいだろ?」

 

どこまで、この男は。どこまでも僕を包み込む発言をして、優しく僕の心を抱きしめておいて、「悪人」だって?

馬鹿馬鹿しい。でも彼の言葉を跳ね除けられない。それはあまりにも心地良すぎたから。

 

「髪色、戻したんだな。こっちも似合ってる」

 

杏一の大きくてあったかい手が僕の髪を梳く。杏一に姉妹は居ない。それにしては撫で方が手慣れていて、忘れていた、というよりは、意識して目を逸らしていたことに直面する。

 

彼女と触れ合った成果を僕で試さないで欲しいなぁ。

 

あーあ、最悪。今日だけは主役気分だったけど、それが今日だけだと分かっている分、拒絶されるよりよっぽど惨めだ。

このまま続けて欲しいけど、今すぐやめさせないと僕は死んじゃう。「やめてよ」なんて笑ってその手を払うのが理想だ。だから早く、苦笑いを浮かべて、

 

 

 

 

 

「…ゔゔぅぅぅ!」

 

考えられる限り最悪の行動をした。恥ずかしげも無く、僕のお腹に回された杏一の腕を涙でびちゃびちゃに汚す。表面張力のつり合いが崩れたみたいに脈略なく泣き出した僕を見て、さすがの杏一も動揺する。

 

「つ、椿?どうした、どこか痛いのか?」

 

「だって、だってぇ″…!」

 

しゃくり上げながら、ぽつぽつ本音を曝け出す。

杏一が後輩の女の子とハグしてるのを見てしまったこと。羨ましくて恨めしくてたまらなかったこと。

その女の子が、学校で鉢合わせた時に杏一と一緒にいた子だとわかっていること。その時に杏一の1番が僕じゃないことに気づいてしまったこと。

 

まだ言いたいことは途中だったけれど。そこで杏一は口を開いた。

 

「夏梅さんか。……実はあの子、最近…って言っても、もう2ヶ月くらい経つけどな。お父さんを亡くしたみたいなんだ。それが椿と重なってさ。部活が同じだったから、少しでもサポートできたらって思ってたら懐かれたんだよ」

 

杏一は僕を膝から下ろす。そして自分もベッドから下りて僕の前にひざまずく。杏一の主張はまだ終わっていないようで、彼の顔にはつづきを語ることへの躊躇いが見える。

 

「…言わないのは誠実じゃないよな」

 

やがて覚悟を決めたかのように僕を真っ直ぐと見据えると。

 

「あの子に告白されたよ」

 

「!!!」

 

「帰り道に不意打ちでキスされてな。まさかファーストキスがこんな騙し討ちみたいになるとは思ってなかったが」

 

「………それで。その」

 

『付き合ったの』の六文字が出ない。怯えるように顔色をうかがう僕を見て杏一は苦笑した。

 

「振った。というか、これだけされてもまだ気づかないか」

 

杏一が腕を開く。今度は前から僕を優しく、それでいて強く抱きしめる。

 

「俺の一番は、昔からずっと椿だけだよ」

 

少し腕を緩めて、僕の顔を覗き込む。綺麗な焦茶色の瞳。でも深く透き通っているわけではない。欲という名の濁りのある瞳だ。

 

「…その代わりに椿の一番が俺であって欲しいと思うのは、わがままか」

 

ここまで言われてやっと分かった。この男は、僕を決して諦めさせてくれないらしい。なんなら彼は、今この場所で、身体中の水分を全部出させて殺そうとしているのかもしれない。

 

「いいよ。満足するまで泣いてくれ」

 

初めて僕から杏一の身体にしがみついた。そうしたら杏一も同じくらい強く抱擁を返してくれて、杏一の服が僕の涙でびしょびしょになる。構わず顔を彼の胸に擦り付ける。杏一は僕の後頭部に触れて、全部全部包み込んでくれた。

髪を梳く手はやはり優しくて、上手で、心地よくて、

 

 

「…なんで、そんなに頭撫でるのに慣れてるの」

 

「なんだ、忘れたのか? 中学まで、何かあって泣いた椿を慰めるのは俺の仕事だったじゃないか」

 

言われてみれば。僕は物心のついたばかりの幼い頃から、ずっと杏一と一緒にいた。家でも、学校でも、休日でも、どんな時だって僕は杏一の隣にいた。記憶に残る体験は全て杏一と一緒に経験して、忘れられない喜びも悲しみも全て杏一と分かち合った。

一度「椿」じゃなくなって、すっかり忘れていたけれど。

彼の優しい手も、ずっと前から僕専用だったんだなと気づいて、どことなく照れくさくてまた胸に顔を(うず)める。

 

 

 

「…僕は、一番?」

 

安心した途端に、彼から離れていた時に湧いた欲求が著しい速度で膨れ上がってくるのを自覚した。

 

「ああ、椿が一番大事だ」

 

本質的には、今まで「気持ち悪い」と抑えていた執着と何も変わらない。でも仕方ない。僕は悪くない。杏一が僕を捨てなかったのが悪い。優しくしたのが悪い。全部杏一の一番でありたいという欲求は、彼の肯定でみるみるみるみる膨れ上がって、

 

「でも、キスは別の子にあげたんだね」

 

杏一は凍りついたかのように固まった。

 

 

言ってしまった。僕の心の一番醜くて剥き出しの部分。

彼に嫌われたくない一心でひた隠しにしていたそれは、僕の口をひとりでに動かす。自分勝手な愛だ。もう絶対に僕から離れさせたりしない。

全く綺麗なものじゃない。そのどろどろを全部杏一に飲み込んでもらうことに決めた。

 

「僕は全部杏一にあげるよ? 欲張りなこと言ってるってわかってるんだ、ごめんね。でも——」

 

口は塞がれた。

 

杏一の顔が今までで最も近い瞬間だった。

一瞬のことに、僕はきょとん、とした顔をしていたと思う。

 

「…これで、許してもらえるか」

 

でも、珍しく顔を赤くして僕から目を逸らす杏一を見ていると、その唇に触れた熱の正体が鮮明に蘇ってきて。

 

「…もう一回」

 

「!?」

 

気づけば口を開いていた。彼の顔はチューリップみたいに赤く色づいている。その触れずにはいられない美しい赤に近づく。

「上書き」というと風情がないかもしれない。でも今日くらいは、独り占め。

 

微かに、ふわりと甘い花の香りを感じた気がした。

 

 

 

 

ああ、幸せだ。






ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

あとがき
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