震える手で、しかし淀みなく刃を手首に当てる。それに勝る苦痛などもう嫌というほど受けてきたというのに、自分自身に痛みを与える行為に躊躇いの感情が浮かぶ。でも、もう止められなかった。耐えられなかった。
一息に、手首を掻っ切る。
鈍い音。
普段からきちんと手入れしていた
傷口から、血がぽたぽたと垂れる。痛い。でも、これでは足りない。
…もう一回。ぱっくりと割れた
僕は今から、体の中を直接刃物で傷付ける。
うるさいほどに跳ねる心臓。この体を襲うであろう苦痛を想像して、額を冷や汗が伝った。
怖い。やれ。痛い。やれ。死にたくない。違う。死にたい。死ねる。やれ!!!
「っっ!!!!」
先程のように横に滑らすように、ではなく刃を思いっきり手首に突き立てる。肉を裂く感触。こつん、と刃が何か硬いものにあたり、それが途中で止まった。
目を回すほどの痛みに声が漏れそうになりながら、鋏を手首から引き抜く。手首にぽっかりと空いた傷口からは、まるで壊れた蛇口のように血が溢れ、冷たい床を
これ、容器に詰めたらどれくらいになるんだろう。
どぽどぽと手首から溢れ出る血を、どこか他人事のように見つめる。もう何リットル出たかわからない。もう僕は助からない、はずだ。これでいい。
このまま
目を覚ます。……目を覚ます?
何かがおかしい。漠然とした違和感を感じながら、左手を見る。白くほっそりとした綺麗な手。そこには、傷口どころか傷跡すら無かった。
「!?」
混濁していた意識が一気に覚醒し、その場から飛び退いた。床には僕を中心とした半径1メートルほどの、乾いて赤黒くなった血溜まり。夢ではない。その光景は、僕が先程確かに自殺しようとしたことを示していた。それにも関わらず、傷一つない手首に、あれほど血を出したのに少しふらつくだけで健康な体。
青ざめる。紛れもない、怪物の力。必死に目を背けていた事実が、音を立てて僕に迫っている。死ぬことすら許してくれないと言うのか。魂が抜けたように立ち尽くす僕の口からは、慟哭すら漏れなかった。
バタン!と激しい音を鳴らして扉が開く。呆然としていて無防備な心持ちだった僕は、その音に酷く驚いた。振り向く。そこには、息を切らしながらやけに紅潮した顔でこちらを見る、少年のような体躯の怪人——マーダーがいた。
首を傾げる。彼は度々この地下室を訪れるが、それはいつも僕の体を調べるためにここに来るテレパシーについてくる時のみ。マーダー1人でここに来たのは初めてのことだった。
「ねえナーサリー!大ニュースだよ!…って、あれ?……あぁ、なるほど。そろそろだと思ったよ。…って違う違う。どうしたの、この血溜まり?」
マーダーは嬉しそうに僕に何かを伝えようとするが、足元の血溜まりを見て言葉を止める。その後、白々しく何もわかっていないように状況の説明を求めてきた。一見無垢な彼の顔からは、どこまでも真っ黒な感情が見え隠れしていた。
「あ、これは…その、怪我してしまって」
きっと分かって聞いているのだろう。しかし、確かに後ろめたいことをした僕はそう誤魔化すしかない。未だに慣れない高い声でそう答えると、マーダーはきょとんとした顔から一変、邪悪な微笑を浮かべて言葉を続けた。
「何があって、何を使って、どこを、どんな風に怪我したの?ぼくの目を見て、答えて」
彼の残酷すぎるほど純粋な瞳が僕を捉える。目を逸らしたいのに、目が離せない。そこに映るのは、僕がこれから綴る言葉に対する、まっすぐな期待と、悪意。
「え…ぁ…」
がたがたと震え出した体は、
「……死にたくて、
取り繕うことなく彼に真実を伝えた。
それを聞いた瞬間、怪人の微笑が大きく歪む。もう耐えきれないと言った調子で、腹をかかえて笑い転げ始めた。
「…ぷっ。あはははははははは!!!!!すごいすごい!!もうちょっと粘ると思ったんだけど!とっても素直だね!死にたい?死にたいかぁ。ああ堪らない。君の希望通り、今すぐ殺してあげたいよ!!ナーサリーの死に方はとっても綺麗なんだろうなぁ。やっぱり君が望む斬殺?いやいや撲殺もいいなぁ。気を
……狂ってる。この怪人は好きなんだ。僕が恐怖に屈するところが。絶望に顔を俯かせるところが。
この怪人は楽しんでるんだ。人が死ぬのを。人を殺すのを。
「———でもね。それは叶わない。僕じゃ君を殺せない。…君もあがくのが好きだね。とっくに気づいてるんじゃない?魔女の不死の力に」
急に落ち着いたトーンで話を続けるマーダーに、つい耳を傾けてしまう。その言葉に、どきりとした。先程想像していた
「うんうん、君が思ってる通り。君はここから逃げられない。その力を持っていないから。でも、君は死ねない。その力を持っているから」
マーダーは、
「あ、あぁ…いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だやめて痛いもう嫌だ違うなんでなんで僕がなんでやめて痛い痛いよなんで」
なぜその部分に服が無いか。それは、先日の事。僕に種を注いだ三人目の怪人『
「あぁナーサリー。今の君、とっても可愛いよ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなぁっ…!」
「でも、ちょっと鬱陶しいかな」
僕の顔を両手で鷲掴みにして、こちらを向かせる。錯乱して何も考えられなかった頭が少し冷やされた。がたがたと震える僕の体を少し苛立たしげに見つめるマーダーに、むしろ震えが増してしまった。
「そんなことより!今日はナーサリーに伝えたいことがあって来たんだ!」
彼の手が僕の顔から離れた瞬間、体から力が抜け、すとんと崩れ落ちた。自殺の失敗。不死の力。
そんな僕を無視して、彼は懐から機械を取り出す。閉じ込められてからもう数週間、久しぶりにタブレットを見た。軽く操作をして、違法サイトから一本の動画を開く。
「ほら、これこれ!」
………
………………
華やかな装束に身を包んだ五人の少女が、一人の怪人と対峙している。
魔法少女たちの服は見るも無惨に鋭い牙で切り裂かれたようにずたずたで、あちこちに血が滲んでいた。
肩で息をする彼女たちとは対照的に、髪の代わりに頭上に大量の蛇を従えた怪人が、魔法少女たちを穏やかな目で見つめていた。
蛇人だ。でも、
五人の中でも比較的怪我の浅い、金の装束を身にまとい淡く輝く大剣をもった少女が、雄叫びをあげながら怪人に躍り掛かった。大剣に煌々とした光を集め、怪人の目の前で振り上げる。
怪人は決死の表情の少女を、ただ見つめた。瞬間、少女の顔が青く染まり、振り上げた大剣が手からこぼれ落ちる。
音が、止まった。
怪人は、無様に転がっている大剣には一瞥もくれず、少女に少しずつ近づいていく。一歩、怪人が足を踏み締めるたびに少女の顔からもともと皆無であった余裕がさらに、みるみる減っていく。尻もちをついたまま後ずさる。追う。後ずさる。追う。
怪人が目の前まで来た時、少女の顔は青を通り越して土気色になっており、その目は胡乱げに揺れていた。
そんな少女を、怪人は
ごきり。嫌な音があたりにこだました。抱きしめられた少女の背中は、反対方向にくの字に折れていた。急速に光を失う目に、だらりと垂れ下がった腕。
それを見ていた4人の魔法少女の中で、正気を保っていられる者は1人もいなかった。腰を抜かしながら必死にその場から逃げようとする少女たち。それに対し、怪人はゆっくりと着実に近づいていく。
殺す。
殺す。
殺す。
殺す。
静まり返る現場。そこに最後まで立っていたのは、怪人ただ1人だった。
………………
………
「……ぇ?」
見違えようがない。血を染み込ませたかのような濁り切った紅い瞳。瞬く間に五人の少女を殺したその蛇人は、僕が最初に産んだ怪人だった。
「いや〜、期待を裕に超えてくるねえ!そうだよ、君が産んだ怪人!まさか魔法少女を五人も殺すなんて!これは紛れもなく、
僕の功績。功績。立派な働き。僕が、僕のせい?
体が、受け止めきれなかった感情を体から逃がそうとする。その場で嘔吐する。胃液しか出なかった。
「え、なんで吐いてるの?…まぁいいか。ナーサリーの子供、こんな風にいっぱい殺してくれたんだけど、目立ちすぎたせいで遠距離型の魔法少女にやられちゃったんだよね…ほんとに残念」
マーダーの声が遠い。今は周りに気をつかう余裕など微塵もなかった。
僕の子が、殺した。もう一度嘔吐する。僕が、僕が。殺した。殺した。殺した。殺した。僕が。