冒涜のウマ娘 それは崇高であるとして 作:fenderlemon
走る恐怖は嫌という程分からされている。走れなくなる恐怖は現在進行形で覚えている。だが、走れなくなったら死ぬ恐怖は別物だろう。
モットフェイクは風になっていた。深きものどもに追われ、悍ましい顔面を直視し、爆発するような殺気を浴びせられ、パニックの延長線上に走り続けている。
「はぁっ、は、あっ!」
無理やり発声して胸に詰まる空気溜まりを吐き出し、拍子なんてまるで考えていない乱れきった呼吸を少しでも整えようとして、酸素が脳に回るようになった時、ようやくモットフェイクは自身が深きものどもを撒いたのだと気がついた。
「げほっ、けっ、へっ、はぁ、ああ」
ほうほうの体で近くの草むらに腰を落とす。いくら走ったかと言われれば中距離レースの分も無いはずなのだが──モットフェイクの足の爪は割れたばかりだ。プロテクターで歩行に支障が出ないようになっていたが、走るには支障が十二分に出ている。現にプロテクターが走る際にぶつかったのか、ささくれだって指の肉に食い込んでいた。
「いって……」
だが悲鳴を噛み締めるのも一瞬。遠くとも言えない程の近い林から小さく悲鳴が上がったのをモットフェイクの耳は聞き逃さなかった。
「リーサル?」
ヒシカワリーサルの声だった。探していた仲間の声だった。か細く悲鳴を上げるその声で心臓が締め付けられて駆け出そうとして、先程目撃した深きものどもの貌が網膜の裏に張り付いていて、思わず再び心臓が締めあげられた。脚がすくむ。手が震える。理外の化け物に追われて、またも化け物に襲われる目に遭うのか。襲われる。──襲われる、誰が?
──ヒシカワリーサルが?
無い爪を無視して地面を蹴り抜いた。刺すような痛みが走るが、それはどうでもいい。木陰を抜けて切り開かれた場所に出る。居た、ヒシカワリーサルが腰を抜かして蹲っていた。
「リーサル! 無事か!?」
「ふ、フェイク!? ダメ! 危ない!」
危ないとはと聞いていられる状態では無い。手早くヒシカワリーサルを背負い込んで駆け出そうとして、目の前に阻む影があった。
それは小柄な女性程の身長の生き物で、随分と奇怪な出で立ちであった。薄桃色の甲殻類の様な風貌を持ちながら、頭部が菌糸類の様な傘がとぐろを巻き、傘からアンテナのような幾重にも突起物が生えていた。何対もの手足が鉤爪を垂れ下げ、背中からは蝙蝠のような羽が一対生えていた。
深きものどもとは違う、この世にあらざる化け物がもう一種。モットフェイクの脳が漂白されたように真白く固まる。
「ッ!!」
「──!!」
声にならない悲鳴を噛み殺し、モットフェイクはヒシカワリーサルを抱えたままに走り出そうとした。されど恐怖はヒトもウマ娘も容易く支配する。怯えて足元を確認せずに走り出し、すぐに木の根に足を取られた。一瞬二人の身体が宙に浮いて、慌ててモットフェイクがヒシカワリーサルを抱き寄せる。そのまま逃げ出そうとして──猛烈に嫌な予感がして横っ飛びに足元を蹴飛ばした。瞬きをするよりも早く地面が割れるような音とともに紫電が走った。焼かれる視界に気を取られるものの必死に足を回し、林を抜け出して──
薄桃色の化け物がさらに五体待ち受けていた。
「あ、あぁっ!」
「クソッ!」
薄桃色の化け物は手に丸っこい銃のような物を構えており、一体がその引き金を絞り、二人の意識はそこで暗転した。
◇
河田トレーナーはリムマナケルの背中に背負われながらバスへ向かっていた。奇妙な安心感が身体を包んでいる。まるで昔からこうして背負われていた様な、不思議な懐かしさがあり、ウマ娘しか感じられないような風圧がアフロの中を突き抜けていく。
「……これはプルガーネットのトレーニングに活かせるかもしれない!」
「ヒトミミがこの速度の中で口を開くなッ! 舌を噛むぞッ!!」
辛辣なリムマナケルに揺らされながらも二人は村の外縁を走り抜け、村外れの道路の先にあるバスのある路肩にまで辿り着いた。バスは荒らされている事もなく、今日の昼下がりに乗り捨てたままに残っている。荷物の無事を確認した河田トレーナーにリムマナケルは尋ねる。
「バス、動くのか?」
「何とかしてみせるが……最悪押していくことになるな」
「ウマ娘一人では流石に重いぞ」
「だから全員で押すんだ。全員でな」
「……そうだな」
河田トレーナーの内なる願い、祈りを聞き取ったリムマナケルが夜空を見上げる。どうしようもなく暗黒に彩られるこの村から見る空は黒一色ではなく、満点の星空であった。星あかりがうっすらと足元を照らす。
「私は荒事にはサッパリで、教え子に危ない事を任せることしか出来ない駄目な大人さ。……これは今日に限ったことじゃなくて、ウマ娘とトレーナーという立場だとしてもそうだ。君たちは危険なレースに挑み続けるし、私はそれの手伝いをすることは出来ても代わりに走ることは出来ないのだよ」
ウマ娘は人間の
「出来るのは天命を尽くして、あとは祈るだけ。……祈るだけの敬虔な信徒であることしか許されていないんだ」
「トレーナーってそういう仕事だろ?」
そうだな。と河田トレーナーが頷く。結局彼女には今回の件を解決する力は無い。あの大軍のような深きものどもから逃げ切ることだってできないだろうし、そもそもプルガーネットが居なければ泊まっていた部屋で殺されていただろう。河田トレーナーは大人だ。プルガーネット達は子供だ。大人が責任を取り、大人が子供に安心出来る世界を与える。河田トレーナーはただそれを成し遂げたかっただけなのに、世界はどうしてか上手くいかない。
「祈るだけで担当ウマ娘の夢が叶うなら、さ。出来る限りを尽くして待つようにしているけど、最後はやっぱり君たちが走らないといけない。だから、二人を頼むよリムマナケル」
「そうだな。走るのは私たちの仕事だ。だからトレーナー、祈ってくれ。それが我々に相応しい姿だ」
リムマナケルの声を聞いて安心する自分が居た。河田トレーナーはその自分を殴りつけてやりたくて仕方なかった。どうして子供を矢面に立たせるんだと叫びたかった。しかし、力が無くては何も意味が無い。今出来るのは、力のあるプルガーネットとリムマナケルが二人を、ヒシカワリーサルとモットフェイクを連れ戻してくれるよう祈る事だけ。
人間って弱いな。そう独りごちた。
リムマナケルが夜闇に溶けて行った。
◇
「やっぱりここに居た。“居たんだ”」
プルガーネットは村はずれの林の中に居た。高速で回る脳が弾き出した座標へ全速を出し、駆けずり回った果てにあったのは、争った形跡のある林の一角だ。
「……血痕。でも量は少ないから──フェイク先輩の指だ。無茶してたんだ」
爪の生えきっていないモットフェイクは踏ん張ると出血をしてしまう。おそらく偶然ヒシカワリーサルが居た地点にモットフェイクが現れ、そのまま脱出しようと試みたのだろう。しかし──
「ここに倒れた跡、そして引きずった跡。少しして持ち上げたな。この足跡は……そっか。二人は生きてる」
プルガーネットの極彩色の脳細胞がまだまだ活性化している。左脚のデジャ・ヴの正体がハッキリとした。
ミ=ゴ。
そして──この左脚の製作者でもある。
懐かしさがあった。怖気があった。興奮があった。逡巡があった。されど、先輩は返してもらわないといけない。
プルガーネットが脚に力を込め走り出す。目指すは
山は腐臭に満ちていた。山道にヘドロを塗りたくり、変色した土がぶよぶよと崩れ落ち、プルガーネットの脚は走り抜けるのに一苦労した。悪路をものともしない左足があれど、粘性のある滑る足元は雨に濡れたターフとは勝手が違う。
霊場からは燐光が溢れ、ひび割れた聖歌もどきが雨乞い海乞い地獄を呼び寄せんと空に迫っていた。悍ましい歌が人ならざる発声器官から読み上げられ、逃れたくて耳を絞るもウマ娘の聴力を用いれば逃げようがない。空が徐々に星明かりだけではなく黒々とした青に彩られ、海を象徴する潮の匂いが山場にしては色濃く残る。
あぁ、なんということか。プルガーネットの脳裏に煌めく悪夢の記憶。深海に沈んだアトランティス大陸、滅ぶべくして滅んだ穢れた大地。海の邪神の神域が腐り堕ちる鯨を呼び寄せる。一度に悪夢を流し込まれたプルガーネットの精神はキリキリと痛むが、その直下に居るだろう二人の先輩を思えば脚は緩むことは無い。
遂に山の中腹にある霊場にたどり着いた時、そこに待つのは薄桃色の甲殻類、ミ=ゴの群体と鈍色に輝く金属に磔にされたヒシカワリーサルとモットフェイクであった。
ミ=ゴを見て今更怖気付くプルガーネットではない。迷いなく司祭に当たるであろう翼が大きく装飾品を施されたミ=ゴの元に歩みを進める。
「司祭、私です。『天命の走狗巫女』です」
『……おお、おお。皆の者。かの巫女殿が我らを訪れてくださった。海栄の三節まで読み上げそこで区切れ。祭司が認めた儀にあるぞ』
「助かります」
『構いません。我らが巫女の願いです。さて、この邂逅は何を願うもので?』
ここが磔にされた二人の、贄にされる二人の命運を分ける問いだ。
「そこの贄となる二人は私の友人です。取り下げてもらいたく」
『……ほう。あの村から献上された者なのでてっきり無関係かと思いましたが』
「偶然私たちが通りかかったところを捕まっただけ」
『偶然。いい言葉ですね。神秘の巫女を攫いに行くには丁度いい言葉です』
「まさか……!」
『最初から見ていましたよ。皆の者。構え』
歌っていたミ=ゴ達が一斉に電気銃を構える。ハナから贄をみすみすと渡す気など無かったのだ。プルガーネットは歯ぎしりしながら構える。荒事には慣れきっている。まるで可愛くないので学園では隠していたものの、やはりこっちの方が気は落ち着く。武闘派の闇堕歴珠に入ったのは一種の運命だったのかもしれないと笑うと同時にミ=ゴの司祭が鉤爪を私に差し向けた。
跳躍。右脚だけで飛び上がって身体を捻り上げる。外から囲むようにしたミ=ゴ達が一斉にプルガーネットの方へ頭を向けるものだからプルガーネットは思わず笑みを零した。
「超科学だか何だか知らないけどッ! 駆け引きは下手くそだなッ!」
掌に隠していた小石を親指で撃ち出す。指弾がミ=ゴの一体の頭蓋を砕く。炸裂する胞子に戦くミ=ゴの群れの中心部に降り立ち躊躇いなく左脚を横凪に振り抜く。毛の生えた硬いクッキーを何枚も同時に砕くような気色悪い感覚を幻肢から感じながらも、紫色の胞子を撒き散らす。これでミ=ゴの三分の一を減らした。
ミ=ゴ同士が集まった中では同士討ちを恐れて電気銃は撃てない。音速の武器の利点を殺したプルガーネットは一方的な蹂躙を見せながらまた一体、一体をエーテルの欠片へ還していく。血が出ないのはいい事だ。スイートパッションに買ってもらった服が汚れなくて済むから。
残りが片手で数えられる程になった頃、ようやく動いたミ=ゴの司祭が磔にされた二人に電気銃を向けて声を荒げた。古語染みた話し方ですら耳障りに無理やり発生したくせに、感情を荒げた今となっては割れんばかりのノイズ塗れの声になっていた。
『待てッ!! この二人が消されたくなければ止まれッ!!』
「へぇ、電気銃でウマ娘は殺しきれませんよ」
『だが競技者として死ぬ程度の傷は付けられる。だろう?』
「……」
図星だった。神経に大きなダメージを与える電気銃を一度ならともかく何度も撃たれればウマ娘といえど無傷では済まない。今このまま助ければ軽い検診で済むが、それ以上となると夏の全てが治療に費やす必要が出るだろう。戦巫女であるウマ娘の事をよく知る司祭らしい攻撃であった。
一方的な蹂躙劇で終わるはずだった場が一度にミ=ゴの司祭の独壇場に変わった。プルガーネットが内心舌打ちをかます中、残る四体のミ=ゴの背後に気配があった。
絶死の状況に追い込まれていたミ=ゴ達は気がついていないのか、背後の気配がよく知る気配が力を溜め込んでいるのを感じ取ったプルガーネットは、コンビネーションを組むべき頭を回し、そしてその時は来た。
「一人忘れられていたものだから気分が悪いんだ。死ね」
轟音とともに背後を取ったリムマナケルが二体のミ=ゴを足凪に切り潰す。驚愕してプルガーネットから目を離すミ=ゴらを見た瞬間プルガーネットは加速し、司祭を守る一体を膝で撃ち抜いて叩き潰した。リムマナケルに目配せしたプルガーネットは逃げようとする司祭の前に脚を叩きつけ地面を陥没させて足止めをする。最早二人の目にあるのは化け物への恐怖などではなく哀れみであった。
「化け物だとしても他愛もないな」
「終わりだよ司祭。左脚の事は感謝してるけど、それとこれは別だ。消えてもらう」
『くはは、ははは。笑うしかない。流石は我々が見出した稀代の神秘を持つ巫女よ。しかし爪が甘かったな。』
「は?」
「プルガーネット! リーサルの前に!」
リムマナケルがひと足早く気がついたのは蹴り潰したつもりのミ=ゴが上半身のみで身体を引きずり、電気銃をヒシカワリーサルの頭に向けている死に体のミ=ゴであった。
距離にして十メートル。今から小石を拾って撃ち出すよりも早く電気銃がヒシカワリーサルの脳を揺らすだろう。プルガーネットは一切の躊躇いを捨てて蹴りを放った。勿論ここからでは蹴りなんて届かない。故に最高のインパクトが発生する瞬間に
プルガーネットの身体から離れる左脚が空気を裂き、死に体のミ=ゴの上半身を叩き潰した。
ぐちゃり、とエーテルの粒子に変わるミ=ゴの中に落ちていく左脚。リムマナケルが呆気にとられた司祭を蹴り潰し、あれだけ蠢いていたミ=ゴ達は遂に一つ残さずこの世から消え去った。もう空は星明かりしか残っていないし、ブヨブヨとした地面もただの腐敗した液体を吸った土に戻った。悍ましい歌は止まって代わりに虫が鳴き、磔にされた二人と驚いているリムマナケルと左脚の外れたプルガーネットだけがその場に残った。
「プルガーネット……」
「言いたいことは分かりますが先輩。ひとまず二人を助けましょう。バスへ戻りますよ」
「……あぁ。そうだな」
二人に外傷はなく、ただ電気ショックで一時的な気絶をしているようだった。バスのある麓まで戻ると見覚えのあるアフロがこちらに駆け寄ってくる。
「おお!無事か!無事なんだね!」
順当に心配してくる河田トレーナーが何だかおかしくてリムマナケルは笑った。プルガーネットも釣られて笑った。河田トレーナーだけが気絶した二人を見て慌てふためくばかりで、そのまま闇堕歴珠の面々は朝日に迎えられた。
文明が失われた暗黒はもう過ぎ去ったのだ。
蔭洲升村に三話も使ったことに驚いてます。
次回から夏合宿が始まるはずです。