冒涜のウマ娘 それは崇高であるとして 作:fenderlemon
削ぎ落とすように走り続ける。
身体から上がる悲鳴を多少無視して──いると河田トレーナーがもれなく止めに来るので無茶はしていないが、それでも自室に帰って風呂上がりの尻尾を乾かしながら寝落ちするくらいにはプルガーネットは疲弊していた。
夏合宿が終わってからは週に六日間の間を限界まで走らされている。いや、プルガーネットの負けん気により走りきっていると言うべきか。九月の記憶がまるっと吹き飛ぶような毎日だった。
ギリギリ覚えていられるのは毎日介助してくれるスイートパッションの優しい笑顔と、スプリンターズステークスを9バ身差で圧勝したヒシカワリーサルの悲しそうな顔くらいのものだ。
どうして二人ともそんな顔をしているのだろう。
スイートパッションはプルガーネットと同じくらいハードなトレーニングをしているらしいのに、毎日ケロッとした顔で帰ってきてはプルガーネットの風呂上がりのドライヤーを手伝っている。夏合宿前まではお互いに出来ていたはずなのに、今はプルガーネットが寝落ちしてしまうせいで万全にできていない。そんな優しい笑顔を向けられるはずがないのに。
ヒシカワリーサルはどうしようもなく勝利してしまった。スプリンターズステークスを連覇し、更に世界レコードという大記録を打ち立て──出走者の半数を無期限休養に追い込んでしまう様な劇的なレースをした。ウィナーズサークルのインタビューでは嬉しそうな顔をしていたが、プルガーネットが関係者席から捉えたゴールした瞬間は誤魔化しようがない。どうして先輩は凄い勝ち方をしたのに悲しい顔をしたのだろう。
どちらにも思うことはある。
二人とも大切な人で、真意を尋ねてみたい気持ちはある。
だが、プルガーネットにそんな時間は無いのだ。
十月第一週土曜日、京都5R。
プルガーネットの初陣、メイクデビューが迫っている。
逡巡も許されない。研ぎ澄まされた刃そのものにならければならない。プルガーネットは自身がここまで集中出来たのかと驚きながらもトレーニングに打ち込む。
時が待ってくれない。押し寄せる波よりも逃げ場がない。大きな手がプルガーネットを掴もうとしている。それは恐怖という名前だったかもしれないし、それ以上の何かかもしれなかった。身体が素晴らしい刃として鍛えられる一方で、精神は揺らいでいる。緊張、なのだろうか。とめどない思考が泡のように浮いては消え、視界を遮るほどに数を増していく。それら全てを走り出した風圧でぶっ飛ばして風を切る。インターバルに戻るのが怖い。走っている間だけがプルガーネットで居られる時間で、止まると誰でも無くなってしまうんじゃないか。そんな不安を蹴り抜いた芝と一緒に後方へ放って逃げ出す。
散々な様子でレース前最後のトレーニングを終える。レース前の調整、もとい休暇は金曜日の午前の半日だけだった。河田トレーナーも肉体の重心バランスを崩したプルガーネットを矯正しながら走力を付けさせるのには苦心したんだろうか。だがプルガーネットにはその半日だけで十分だった。何日も休みがあったら気が変になりそうだったからだ。
金曜日の朝風が部屋を撫でる中。寮の部屋でスイートパッションの手がプルガーネットの手を包んでいた。プルガーネットの目は不安に揺れているのか、忙しなくあちこちに視線を逸らしていて、スイートパッションがそれを認める度に手に力を入れていた。
「あはは、プルちゃん小鹿みたい」
「……そうかも」
前世ですらこんな奇妙な精神状態になったことは無い。
きっと前世の
途方も無い夢を抱いてしまった。トリプルティアラ。神話の一端。プルガーネットはそれになれるのか。物語の舞台に立つことを許されているのか。
何も分からない。
プルガーネットにそんな視座は無い。
ただの試金石に過ぎない、通過点でしかないそれが、あまりに巨大で恐ろしい。メイクデビューを勝ち抜けるのは一人だけ。そこからオープンに勝ち上がれるのは更に少なく、重賞となれば一生の栄誉と言っていいだろう。
プルガーネットはその頂点の門を三度くぐると決めたのだ。
その重みの事を考えると、また時間の波に思考が連れていかれて、頭がグルグルとしてきて──
ふわりとジャスミンの香りがした。
「あ」
立ち上がったスイートパッションがベッドに座るプルガーネットを抱き留めていた。自然とプルガーネットの頭はスイートパッションの胸に収まった。一拍おいてスイートパッションのほっそりとした腕がプルガーネットの後頭部を抱きとめる。
すっ、と頭のざわめきが止まった。
意味もなくただ朗々と続く声が終わり、とくんとくんと脈打つ心音だけがプルガーネットの鼓膜を揺らす。平均より少し高い体温がプルガーネットをくるりと包んだ。ちょっと前にお揃いで買った香水が鼻腔をくすぐる。お揃いなのに自身の香りとは全然違って、なんだか甘くて優しい感じがした。
「ほんとに余裕無いんだねプルちゃん」
呆れたように笑うスイートパッションの表情は見えなかったが、おそらく正解だった。スイートパッションの胸に包まれているせいでプルガーネットの顔は真っ赤になっているからだ。それは前世が男だったせい、だとか。病室からほとんど出ないで生涯を終えたから人肌に慣れていない、だとか。止まったはずの頭の中の声が途端に言い訳を始める。
しかし、プルガーネットの身体はスイートパッションからは離れようとしていなかった。必要なのだ。今この瞬間のプルガーネットには。言い訳をしても無駄なのだ。あまりに大きく、足元を見るだけで空まで視線が登ってしまいそうな不安感に追いかけ回され、プルガーネットの身体に許されるギリギリまで走り続けていた。疲れ切っているのだ。
しばらく二人は黙ったままだった。時計の音がカチコチと流れている。ぬいぐるみは気さくな声を掛けてくれない。カーテンは風に踊るだけで、二人で撮った写真ばかりのコルクボードも今日ばかりは頼りなさそうだった。
「ね、プルちゃん」とスイートパッションが話始める。崖っぷちまで追い詰められた犯人のような気持ちのプルガーネットは「何」とぶっきらぼうに返すのが精一杯だ。
「先輩達は頼もしい?」
浮かぶのはヒシカワリーサルの少し悲しそうな顔。モットフェイクが必死に走る顔。リムマナケルが静かに見つめて来る時の顔。誰よりも強く、誰にも寄り添って貰えないヒトたち。だからこそ
「……そりゃ」
「トレーナーは色んな事を教えてくれる?」
アフロの奇人。または闇堕歴珠を支える屋台骨。別にプルガーネットのように非日常に染まりきってないし、リムマナケルやヒシカワリーサルの様な超然とているが故の悩みも持ってないし、モットフェイクの様に身体に抱えた爆弾がある訳でもなくて、それでも私たちのトレーナー。誰にも理解されない私たちを側で支える、唯一の大人。彼女が居るからプルガーネットは身体を歪めることも無く走り続けられている。彼女が居るから、こうしてレースに怯えることが許されている。
「……うん」
「そんな人達にみっちり付き合ってもらったプルちゃんが、負けると思う?」
どの質問も分かりきった事だった。既に頭では分かっているのに、不安感が頭の全てを否定して押し潰そうとしている。スイートパッションの言葉があったからなんとか思い出せたのだ。彼女の背中に回していた手を緩めて肩に置く。顔を上げて正面から向き合う。
「……ううん」
「じゃあ大丈夫だよ」
あっけからんに言うスイートパッションを見ていると、敵わないなぁと声に出しそうになった。スイートパッションはそれすらお見通しという顔つきでケラケラと笑い、声を張り上げた。
「じゃあ、最後のアドバイスぅ!」
「何?」
「プルちゃんはもっとヒトを信じるべきだよっ」
「……難しいな」
「走れば分かるよぅ!」
「そうなのか。……ありがとね」
立ち上がる気持ちがようやく湧いてきた。一泊二日の荷物を入れたキャリーを手に取って、寮の部屋の扉へ向かう。
「プルちゃん!」
「ん」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
あぁ、それと。
「期待して待ってて」
これでいいかな。
プルガーネットは寮を出て電車に乗った。府中から特急快速に乗って、新宿で東京行きの路線に乗り換えて、東京駅で闇堕歴珠のメンバーと合流した。本当は朝から移動して京都観光でもしようとか言っていたのに、プルガーネットのメンタルが弱っているから出発を遅らせていたのだ。先輩たちに軽く謝って、すぐに許されて、新幹線に乗り込んだ。
景色が凄いスピードで後ろへ吹き飛んでいた。ウマ娘であるこの身体でも不可能な速度だ。雲も山も家も全部ちぎれて飛んでいく。数時間も経たずに新幹線は京都に到着した。一度食べてみたかった駅弁は美味しかった。もちろんウマ娘的にはボリュームが足りず、おやつ扱いだったが。
夕焼けがまだやってこない頃だったが、観光はやっぱり諦められた。先輩たちは残念そうにしていた。その代わり京都レース場へ行って、河田トレーナーと観客席からレース場を眺めることになった。
「明日の昼にはもう、レースが終わってるんですよね」
ぽつりと零した。
「そうだ。5Rだから12時10分発走だ」
河田トレーナーはすかさず返事をして、お昼ご飯のタイミングに困るなぁと愚痴った。
「流石におにぎり頬張りながら観戦してたら怒りますよ」
「そんな無礼者になった覚えは無いとも」
「アフロの時点で手遅れじゃないですか?」
「アフロって無礼なのかい……?」
ワンチャン無礼かもしれないな。とプルガーネットは思った。河田トレーナーは苦笑いをしながら少しだけマシになった生徒の顔を見る。
「昨日よりもずっとマシな顔をしているじゃあないか」
「どっかの誰かさんにしごき倒されてボロボロでしたからね。同室の子に励まされてなかったら当日入りになってたかもしれません」
「それは後で菓子折りでも贈らなきゃだねぇ。本当はこのタイミングで私が背中をドンと叩いて発破をかけるつもりだったんだが……」
「どうせならやってくださいよ」
「背中をドンと?」
「それはいいです」
河田トレーナーは咳払いをして、少しだけ真面目そうな顔をして口を開いた。
「プルガーネットくん。キミは我が闇堕歴珠が総力を掛けて育てた宝だ。その辺の有象無象なんかにやられるタマじゃあ無い。GI戦線を何度も勝ったこの私が言うんだ。間違いない。キミの実力は明日の出走者の中でもトップで、まず負けようがない」
一息。
「プルガーネットくん。私は、私たちはキミを信じている。半年も無いが、その付き合いの中で我々はキミが勝利すると信じた。もしかしたらキミは信じきれていないかもしれないが、私たちはそう信じた。だからプルガーネットくんは、私たちが信じたプルガーネットくんを信じて走ってくれ。私たちの知るプルガーネットは、強いんだよ」
「夢を見たくなるようなレースを、してくれないか」
それはちょっとズルいじゃないか。
途中まで、なんだか半日前にも聞いたような話だなと思っていたのに、最後のはズルいじゃないか。
「必ず」
プルガーネットは、きっとこれまでの中で一番はっきりとした返事をした。
年内にメイクデビューさせるからな……!!
どうせコミケ待機列が死ぬほど暇だから書き上がるに違いねぇや……へへ……待ってろよ……