冒涜のウマ娘 それは崇高であるとして   作:fenderlemon

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本当にお待たせしました。


31話:今だ!自爆しろ!

 

「……もう豊間は死んだよ」

「ああ、やっぱり」

「やっぱり!?」

 

 ファーストコンタクトは凡そ失敗と呼ぶべきものだった。

廃墟や心霊スポットに突撃すると称して不法侵入を繰り返す配信者に従っていたカメラマン。そして幼い頃から冒涜的な事件に絡まれ続けている競技ウマ娘。

 

 倫理観の欠如した二人が出会えばどうなる?

 

「豊間はどうだっていいんだけど、カメラ借りていい?」

「ざっけんな! これは何年もかけて稼いだ、俺たちのチャンネルの収益だけで買った思い出のカメラなんだよ!」

「でももう使わないんでしょ?」

「んなっ...…」

「だって、『豊間の死に様』が入ってるんでしょ? 始まりから終わりまで収まってるんだ。素晴らしいね」

「……なんだ、お前っ、なんなんだよガキのくせに……ッ!」

 

 こうなる。

 プルガーネット(イカれたウマ娘)が求めるのは府中の平穏だけだ。他に何か挙げるとしても友人だとか知り合いの安全だけであって、他全ては()()()()()()()

 

 この世界はハナから狂っているのだ。

 今日だって報道されていないだけで邪神の供物として村の一つ二つ分くらい虐殺が起きているだろうし、海や地底の底では人間には想像もつかない怪物が跳梁跋扈している。月の裏側では虫なのか蟹なのか分からない奴らが採掘をしているし太陽系の外では神々が殺しあっている。

 

 そう考えるとプルガーネットの生きた十三年程で人類のストックが尽きていないのは神話生物の皆様の燃費が良いからじゃないんだろうか、とすら考えることも出来た。

 

 国際的に治安が良いとされる日本ですら時折行方不明者が出て、運良く仏が見つかったとて遺族には「棺はお開けにならない方が宜しいでしょう」と伝えられる様なのがほとんどだ。──仏がイヤに綺麗だった場合、次の事件が起きる可能性もある。嫌な世界である。

 

 こんな世界でジャーナリズムの元に神話生物が晒された事がある。何度も大々的な報道もされただろう。だが、一週間も経てばそういう話は()()()()()。何らかの圧力で消されたのか? 違う。大衆が自ら忘れたのだ。そうしないと、あまりにもやってられないからだ。

 

 この世は邪神が跳梁跋扈する末法の世で、救いなどこれっぽちも存在しないだなんて、認めようがなかった。

 

 だから自浄作用として、忘れた。

 

 だが、時折現れるのだ。

 忘れようとしなかった人間が。

 

 ちょっと外れてしまった人間が。

 

 人はそれを、探索者と呼ぶ。

 

「おいガキ! これが見えねぇか!」

 

 プルガーネットの眼前に鋼鉄の塊が突きつけられた。オートマチックの拳銃だ。日本で入手するのは中々に面倒な筈だし、法外な金額がかかるのだが、葉隠はいざという時のために面倒をこなすタイプの探索者だったらしい。

 

 ()()()()()()()()()()

 プルガーネットは久しぶりの本気で蹴りを放つ。人類には到達し得ない速度で拳銃の側部を蹴り飛ばした。拳銃の無力化くらい出来なければ事件から生き残ることは厳しい。逆に言えば、何度も巻き込まれてきたプルガーネットにとって出来て当たり前のことだった。

 

「なっ……」

「私、これでも競技ウマ娘なんだ。そして何回も事件をくぐっている。君が引鉄を引くまでに、私は君の頭を五回は蹴り飛ばせる。言いたいこと、分かる?」

「クソッ、クソぉぉ!」

 

 葉隠は背後に置いていたカメラをプルガーネットに投げつけた。そして直ぐに布団を被って蹲った。くぐもった声で嗚咽が聞こえる。情けないことだ。守りたい思い出一つ守れずに、敵の眼前で泣くなんて。奪った側のプルガーネットが憐れむのもおかしな話だが、力が強い方が正しいのだ。

 

 プルガーネットは早速カメラを起動し、スマートフォンに接続した。データを抜き取り、中に残ったデータを再生する。

 

────────────

 

「すぐさま! 凄まじ! スギドラン! 例によって緊急で動画を回しています! 今回はニュースで話題の多摩霊園に入らせて頂きますぅ!」

 

 行方不明者から故人に変わったスギドラン──豊間悟が多摩霊園前の道路を歩いている。辺りは暗く、頼りない街頭が点々とあるばかりだ。

 

 表門側は石材店や花屋などがある通りで、大きな門と監視カメラがある。画面に写っているのは少なくともそこではなく、門ではない敷地境界の辺りだろう。

 

「死者が蘇る! ゾンビ現る! 昔からあるネタだけど、現実になったらどんな絵面なのか! 足は遅いのか!? 走るタイプなのか!? ワクワクしてきました! さぁ、ここから入っていきますよ!」

 

 霊園の外縁部は基本的に土が高く盛られていて、一部は空堀になっている。対面には住宅街がずっと続いているため侵入は目立つが、深夜だと真っ暗なので堀さえ登ってしまえれば侵入は簡単だろう。

 

 動画の音声はやや荒い。風切り音が続いていることから強風が吹いていることが伺える。

 

 動画が一度切れ、次のファイルを再生した。

 既に内部に侵入しているようだ。おそらく空堀を登る際に両手を使うために一度動画を止めたのだろう。外側からの視線を切るための簡易的な林。人が歩くことを想定していない道だからか、街頭はおろか、月明かりすら木々の葉に邪魔されて届かない。

 

 枯葉を踏む音だけが暫く続く。不意にカメラが豊間に向けられ、当然のように豊間が話し始める。二人は相当に息がピッタリだったらしい。

 

「やっぱ暗いなここ。草むら一つ隔てたら何が居るのか全然分かんねぇよ。実はここの裏とか、墓から出てきた奴らが隠れていたり──」

 

 がさりと低木を掻き分けて、二人は一際暗い場所へ入り込む。ライトは安物なのか、二人の足元くらいを照らすことが精一杯のようだった。

 

「──あ?」

 

「なんかあるな」

 

 すかさずカメラが近づく。豊間がしゃがみこんだ場所へ近づくと足跡のようなものが点在していた。

 

「見てください! 何かの足跡です。最近動物の目撃情報が続いてますからね。この辺りに住んでいるのかもしれません」

 

「アライグマ……キツネ……違うな。大人の男よりは小さいけど、小柄な女性でも考えられそうな感じの……妙な足跡だなぁ。もしかして蘇った姿はゾンビじゃなくてスケルトン……?」

 

 一度言葉を区切った豊間がすっ、と手でポーズを作る。どうやら編集点を作るらしい。先程までの作った声ではなく素の声らしい声音でカメラに向かって話しかける。

 

「葉隠、このまま手分けして探すぞ」

「はぁ? ライト一本しかないぞ」

「俺はスマホでいい。見つけたら合図を送る。そしたらすぐにカメラつけてから合図を返せ。俺が『あっ! これは!』って話したら振り返って走ってこい」

「その辺木の根っこまみれだからすぐ行けるかよ……」

「うっせぇ。来い。妙な予感がする。今日は良いのが撮れるぞ」

 

 映像が再び途切れる。

 次のファイルを再生すると、けたたましい悲鳴から始まった。

 

「──ぁああああっ! がグがぁぁああああっ!!」

 

 明確に緊急事態だった。

 

「おい豊間! 合図先って言っただろ! おい!」

 

 葉隠が叫ぶも帰ってくるのは気が狂ったような悲鳴だけだ。

 

「ぁああああっ!!」

「おいおいおいガチかよ!!」

 

 カメラが大きくぶれて走って豊間の元へ駆けつけようとするのが伺える。二人の慎ましやかな貯金で買われたちょっと良いカメラは期待に応えたように手ブレ補正をかけ続ける。

 

 そのおかげか、写り込んでいるのだ。燐光が。

 

 草むらの先に揺らめく、青白い炎の輪が。

 

 葉隠が草を掻き分け、突き進んだ先にあったのは小さく開けた場所。林の隙間のような場所に奇怪な存在が居た。宙を漂う青白い炎の輪。中には三枚の花弁のような炎があり、そこから触手のように細長い炎が伸びて、豊間を刺し貫いていた。

 

 骨から滴り落ちる血が、傷口が、肉体が青い炎に包まれて炭化していく。豊間が黒く変色していく。もう声も上げていなかったが、かつて顔があった部分が動いて、カメラに向かって何かを叫んでいる。

 

「うアアアアアアああアアアアアアアっっ!」

 

 ひっくり返った悲鳴がマイクの至近距離で吐き出され、カメラの視界がめちゃくちゃになり、映像はそこで途切れた。

 

 ────────────

 

「わ〜お。よく撮れてるよ。カメラの才能あるよ君」

「…………」

「喜んでよ」

 

 布団の主は身動ぎ一つしなかった。

 プルガーネットは肩をわざとらしく落とした。

 

「君の親友の仇が分かったって言ってるんだよ」

「……ぁ?」

「どう? 聞きたい?」

  

 布団から痩せぎすの男が再び現れる。どうやら聞く気はあるらしかった。

 

「君は、ヤマンソという神を知ってる?」

 

 それが葉隠という男に備わった好奇心であり──致命的な欠点だった。

 

「炎の旧支配者クトゥグアを呼び出す時に見られる、ついでに出てくるご近所の化け物だよ」

「化け物がついでで出てくるなよ……」

「ちょっとでもクトゥグアの召喚儀式が長引けば、開いたパスを辿って勝手に現界しちゃうんだ。当然言葉は通じないし、何らかの理由で人類を見つけ次第殺している。私でも対処は難しい神性だね」

「対処出来ねぇのかよ! じゃあなんで教えやがったクソ!」

「今から私が言うことに従う気があるなら追い払うくらいなら出来るようになるんだ。まぁ、当然だけど死ぬ可能性の方が遥かに高いけど」

 

 当然だろう? とせせら笑うプルガーネットの口元。その目は笑っていないだけに葉隠はこれは本当にそうなのだろうと確信した。

  

「……本当に撃退……、いいや、ソイツを殺せるのか?」

「……もっと対価を払えばもしかしたらね」

 

 確認まで取れてしまえば葉隠のやる事は一つだけだった

「言え、俺が殺しに行く」

 

 プルガーネットはゆっくり口角を上げ、脚を組み直し──その瞬間、全身からドス黒いタールのようなオーラを纏った。心臓を貫かんとする強い意志が、葉隠の背より遥かに小さなプルガーネットから発せられる。しかし、それでも葉隠は怯まない。

 

「……ビビらないんだね」

「目の前で友人殺されてみろ、ちょっとくらい、脳が歪んじゃうだろうさ」

「それはごめんだね。そうさせない為に私はここに居るんだ」

「ハッ……どうだか」

 

 プルガーネットは嬉しそうに笑って気を抜いた。それと連動するようにドス黒いオーラは鳴りを潜める。これに耐えられるなら、この男にも使えるかもしれない。

 

 ニャルラトホテプの招来。黒いオーラの正体。最も唾棄すべき神性。その意識の一部を引きずり出して言葉を交わせる魔術であった。

 

  ◇

 

 アハナギナツメはちょっとした自己嫌悪に陥っていた。チューリップ賞を逃したことか? それではない。チューリップ賞で自分を抜き去ったプルガーネットに恐怖したことに自己嫌悪を覚えていた。

 

 最終直線で間近に浴びたあのオーラ。見ているだけで脚の骨が凍るようなおぞましさ。本能が打ち鳴らす忌避感。

 

 その理由まで正確に判明していないというのに、アハナギナツメはプルガーネットからの連絡に返事を返せてない。

 

 ウマ娘の領域というのは摩訶不思議で、その中には己を速くするのではなく、相手のスピードやスタミナに作用するものまである。近くにいたウマ娘に恐怖心を植え付けて足を竦ませる──そんな領域を使われた可能性だってある。

 

 だというのに、領域ではなく本人への恐怖心が植え付けられて、それがレースの後まで続いている。

 

 それが彼女の領域だとするならば、トリプルティアラを目指す過程で彼女はどれだけの人数に恐れられるのだろうか。同じ道程を辿る私は、友達でいられるだろうか。

 

 即答することが出来ない。

 それがアハナギナツメが自己嫌悪に陥っている原因なのだった。

 

 むしゃくしゃする時は走るに限る。トレーナーと寮長に了解を取り夕方の街を走ることにした。お気に入りのシューズにアスファルト用の蹄鉄を嵌め、洗いたてのジャージを着て、上から外周用のベルトポーチを締めてドリンクを吊るす。

 

 今日はどのルートを行こうかと考えて()()()()()を走るのも悪くないと考えた。何てことのない選択のひとつ。日々を過ごす中で当たり前に採択されたその決断こそ、人生をねじ曲げる岐路そのものである。

 

  ◇

 

「はっ……はっ……ふぅ…………」

 

 鋭く息を吐き、蹄鉄を打ち鳴らす。夕焼けが瞼に張り付いて、眩しいわと少し顔を逸らした。その先の事だった。

 

 霊園の中でも、ちょっと林が深くなっている場所。

 そこから、信じられないくらい青白い光が放たれている。それを認識した途端、恐ろしい気配がこの霊園に満ち足りていたことに気がついた。何故今まで気が付かなかったのだろう。位相のズレた恐怖が、同じ世界にやってきた。同じレイヤーに何かがいる。

 その恐怖は、あの時のプルガーネットによく似ていた。

 

「プルガーネット……さん?」

 

 この恐怖感はプルガーネットから放たれているのか、それともプルガーネットとは違う青白い光から放たれているのか。アハナギナツメにはとてもじゃないが区別が出来なかった。ただ、おぞましい何かがこの先で複数で交わっていることだけは確かだった。

 

「わたくしは……、プルガーネットさんの友達ですわッ!」

 

 アハナギナツメには素晴らしい能力がある。瞬間的にカッとなる本能と、それを御する冷静さの二面性を持っていることだ。友達が危ない目に遭っているかもしれない。なら、走って駆けつける。そこに逡巡などない。

 

 だからこそ、この道は交わってしまう。

 

「プルガーネットさ──」

 

「ヒャーハハハっハァーッ! モツの一つ二つで仇が取れるなんて安いなぁ!!」

「jeleeeemggelleeeeee!」

「死ぬほどキショいけど力は安く売ってくれんだよねコイツ!」

 

 悲鳴をあげる宙に浮かぶ青白い炎の輪と花びら。それに向かって飛びかかる全身から沼のようなヘドロを垂らす男。そして全身のアチコチが焦げているプルガーネット。

 

 アハナギナツメはあまりの非現実的な光景に卒倒しそうになった。

 

「オイ! もっと持っていけ! コイツを殺せるならこれ以上ない土産もんだァ!」

「思い切りが良いね! 嫌いじゃないよその勢い!」

 

 言葉尻を取るに沼のようなヘドロ男は肉体を捧げて戦っているらしい。プルガーネットはそれを褒めたたえている。二人とも笑っている。炎はどんどん小さくなっている。二人はもっと笑い始める。

 

「何が異なる神だ! こちとら人間様だオオオイッ!」

「やれ! 今だ! 自爆しろ!」

「ウオオオオオオオオオ!」

 

 轟音。爆風。粘性のある音。土煙。何が起きたかさっぱりなアハナギナツメは、突風に煽られるがままに地面に転がった。

 

「アッハァ! 復讐! 完!」

「どう? 復讐は何も生まなかった?」

「気分爽快! 復讐は最高のメンタルケアだァ!!」

 

 ギャハハハハハという笑い声がアハナギナツメの頭によく響く。だが少ししたら、それも無くなった。

 身体が動くようになってきたので、よろよろと立ち上がり、爆心地へ顔を向けた。

 

 土まみれのプルガーネットと、謎の泥と石の塊と。そして人間の生首のような泥人形が転がっていた。

 

「これ、は?」

「……え?」

 

 プルガーネットは確かに恐怖の対象で間違いなかったかもしれない。アハナギナツメはそこで意識を手放した。

 

「待って言い訳させてーッ!!」

 

  ◇

 

「……ん」

「え」

 

 起きると、アハナギナツメの眼前には謎の杖が突きつけられていた。

 

「プルガーネットさん、これは?」

「……記憶処理をしようかと」

「何しようとしてくれますの!?」

「色々見られたから……」

「色々って、あんまりにあんまりなんですけれども!! というか、あの泥男さんは!?」

「葉隠……は死んだねぇ。うん。仇は取れたから満足そうだったし、良かったんじゃない?」

「へ……」

 

 アハナギナツメは固まった。当たり前だ。彼女の世界には神話生物という言葉はない。せいぜい世界的に原因不明の行方不明者が多いことを知っている程度のウマ娘なのだ。

 

 さっき目で見て、声を聞いた人間が死んだなんて、そんな世界では生きていないのだ。

 プルガーネットの顔はいつもと同じ……いや、少しばかりの申し訳なさそうな表情をしていた。ただ、口から出る言葉はやっぱり、あっけからんとしている。グロテスクな物を見せてしまったからごめんね。でも本人は満足してるし良かったね。そんな顔だ。気まずさを紛らわすように足先をいじり回しているのが、いよいよ本格的に悪いとは思っていないことのように見えた。

 

「し、死んだって、嘘ですわよね……?」

「いや、残念ながら助からなかったね。本当は怪我を治して意趣返しできて良かったね〜で済ませるつもりだったんだけど……。まぁ勢いで邪神を仕留める方向に行っちゃって、肉体捧げて爆発しちゃった。私もあの状態からは助けられないよ」

「い、勢い……で? 爆発したんですの? 死ぬのに!?」

「うーん……。まぁ相棒の仇だったからね。そのくらいの殺る気があったんだよ」

「やる気が……ッ! 何だって言うんですのよ!」

「……何だじゃないよ。あれは葉隠の意思で選んだ結末。そういうもんだって」

「んなっ...」

 

 目の前の少女の言う事が理解出来なかった。いっそ目の前の少女はプルガーネットではなかった方がマシだった。命の価値なんて決めるものでも比べるものではないとアハナギナツメは思っているが、プルガーネットにとって葉隠の命は些細な事として扱っているように見えた。

 

 プルガーネットの心の中を前世から見ている人間が仮に居たとするならば、その人間は「両親以外誰も来ない病室で培った孤独と、今世で巻き込まれた事件を単独で切り抜いてきたことによって持った究極の個人主義がもたらした帰結」と評するだろう。

 

 だからプルガーネットにとって葉隠は、己の意思で目的を果たした立派な探索者(クソ野郎)なのだ。それを賞賛しているに過ぎない。出会う死人に一々注目していてはプルガーネットは歩くこともままならない人生を送っているのだ。まして今は走り続けなきゃ行けない身だ。そんな中で名前を覚え手を貸し、見届けることに成功するなんて。プルガーネットにしてはかなりのVIP待遇だった。

 

「あ、貴女……っ、貴女という人は──」

「早く帰ってシャワーでも浴びようよ。泥と煤まみれだし」

 

 当然、アハナギナツメにそんなことは伝わるわけが無い。

 当たり前に切り出された日常会話が、プルガーネットにとってこの事件が特筆するに値しない事を示しているようで、アハナギナツメは尻尾が抜け落ちるんじゃないかと思うほどだ。プルガーネットは浅く笑って続ける。

 

「ナツメも早く休もう?」

 

 トン、とわざとらしく打ち鳴らされる踵。瞬間、輝く魔術陣。プルガーネットは何も気まずさを紛らわすために足先で遊んでいたわけじゃない。杖を使わずに記憶を消せる魔術を書いていたのだ。

 

 これも、アハナギナツメの知る由のないことになった。

 アハナギナツメは、再び意識を手放した。

 

  ◇

 

「う……?」

「あ、起きた〜」

 

 瞼を開けたアハナギナツメを迎えたのは、同室のギリギリロールだ。頭の左右にチョココロネをぶら下げたような可愛らしい髪型が特徴のウマ娘で、あの弥生賞でも掲示板入りした期待の新星だ。

 

「ナツメ、珍しいね〜。倒れるまで練習するなんて」

「ギリギリロールさん……私は……」

 

 そんな酷い練習をした覚えは無いと言おうとして、今日のメニューを思い出そうとしたアハナギナツメは、何故だか今日の午後の記憶がぼんやりとしていることに気がついた。

 

「なんか魘されてたし、保健室のせんせーも過労って言ってたよ。トレーナーが伝言残してるから、見れそうになったら読んでねって言ってた」

「ごめんなさい、面倒をかけてしまって」

「いいのいいの! 私がいつも世話になってんだから。ちゃんと休みなね〜」

「ありがとう……」

 

 そう言ってギリギリロールは入浴へ行った。取り繕う顔を作れず、ぼんやりと鏡を眺める。記憶を無くすほどの出来事なんて、無かったはずだ。無かったはずなのだ。

 

 アハナギナツメの後ろに、見えない恐怖が佇んでいた。




改めて本当にお待たせしました。覚えている上で読んでくれている方、ありがとうございます。

転職しても同人活動続けなきゃ創作が続かない……という焦燥感に駆られて申し込みまくったらこっちの連載が完全に出来なくなるレベルのキャパオーバーを起こしておりました。
他にも色々要因はあったりメンタルがアレだったりとありましたが、それでもエタりたくないという気持ちはあるので倒れない程度に続きを書きますね。出来れば今月中にも次話を出したい気持ちで生きていきます。
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