冒涜のウマ娘 それは崇高であるとして 作:fenderlemon
シンパシーセリヌはこの一ヶ月の記憶が無い。
クアンヌルブルとアハナギナツメ、そして──プルガーネット。次々と巨星が現れたティアラ路線において、チューリップ賞までは無敗だった
その事実が、日常を押し潰していたからだ。
今まで誇っていたトロフィーが、急に何とも思えなくなった。厳しかったトレーニングが更に厳しくなった。昨日話した時の友達の表情が思い出せなかった。最もこれは、相手も同じだったから友情には何の影響を及ぼしていなかった。
ティアラ路線に三人も化け物がいるならば王道路線にだって三人化け物がいる。レイントルマリン、スペースミント、ギリギリロール。前哨戦でぶつかった面々はそれぞれだけで隔絶した戦いを起こし、掲示板から外れたウマ娘とは一歩も二歩も差がついていた。
これが現世代の冠を求めたウマ娘に掛かっている重圧。計六名の化け物が冠を求めて暴れ回る世界において、シンパシーセリヌのようなウマ娘は息をすることさえ覚束無い。
「セリヌ! 気を緩めるな! もう一本いけるか!」
「……はい」
トレーナーさんが何か叫んでいたが、もう一本いけるかなんて分からなかった。トレーナーさんが言っているから走っているだけで、そうでないなら部屋で寝ていたい。そんな気分だった。
頭がおかしくなりそうだった。地元では私が一番だった。私が早くて、賢くて、誰よりも強かった。この学園に入って世の中にはすごいウマ娘が居ると知ってもなお、シンパシーセリヌは無敗だった。
でも、負けた。紛れなんかじゃない。正面から叩き潰されて負けた。もう少しとかではなく、勝てないとその場で分かる負け方。いや、いや、敗北したことなんて当たり前のことだ。偉大なウマ娘だって生涯無敗の者なんて居ない。むしろ今だったから良かったとすら言うべきだろう。
負けたことではなく、そんな事実程度で折れそうになった自分が嫌だった。当たり前じゃないか。上がいるなんて。それでも勝ちたくて走るんだろ。そんなことも分からなくなって、惰性でトレーニングをしてしまう自分が自分で信じられなかった。いつか笑った、ちょっと負けただけでグレてサボる地方トレセンのウマ娘と自分に、何の差も見つけられなかった。
自分とは、シンパシーセリヌとは、誰かと置き換えても何も変わらない、ただの
「うあ、ぁぁぁぁっ、あーっ!!」
「そうだ! 叫べセリヌ! ここに居ると叫べ! お前を差し切るのは私だと叫べ! どうした! 遅かったじゃないか!」
「悩んでるの分かったらっ! さっさと誘導して下さいこのボケーッ!! あ゛ーっ!」
「自分で気が付かんと納得できん! 納得は何より優先されんだからしょうがない! ほら叫べ! もっとだ!」
「うわ゛ーッ!!!!」
◇
「またチーム練習サボってるの? ヌル、今が一番大事なのは分かってるでしょ? 友情トレーニングが一番効くって学会でも証明されてるんだから。ほら、さっさと戻んなさい」
「っせえよババア! 俺がチームに居るのはテメェの個人指導が受けられるからだッてんだろうが! 仲良しごっこにキョーミねえよ!」
「あら、ずいぶんと大声のラブコールね。そんな私がチーム練習がいいって言ってるのよ。またチワワ扱いされたいの?」
「ケルベロスだッ!」
「気に入ったのそれ?」
「グギッ……」
クアンヌルブルの所属するチーム・オウムアムアは名前の通り変なウマ娘が集まったチームである。なにせ、元ネタの星は一等星ではなく、しかも球形ですらなく、宇宙の自然薯みたいな形の岩ころである。そして何より、如何なる恒星の重力の影響を受けていないままに宇宙を旅する、恒星間天体である。
そんな変なウマ娘の中を磨いて出てきたのがクアンヌルブル。急にデビューして瞬く間にチューリップ賞二着をもぎ取ったウマ娘である。最高戦績がGIIIの、とてもじゃないが有名ではないチームから出る戦績としてはかなりの期待の星だ。
チームトレーナーの富与は御歳五十六年のベテラン。勝ち星こそパッとしないが、信じらないくらい成績の悪いウマ娘でも預けておくと、いつの間にか仁義なきGIII戦線を闘うウマ娘に変えてしまう。競走ウマ娘界に詳しい人間からすると偉人のようなトレーナーである。
そんな異色のコンビでさえ口にするのはやはり、
「そんな体たらくてアハナギナツメとプルガーネットに勝てるわけないでしょう。領域があるから大丈夫とも思ってないでしょう?」
「当たり前だ! あんなよく分かんねぇの頼れるかよ! 使える時は使うが、不確定要素だ!」
あの二人と領域の話だ。
クアンヌルブルはスペック勝負で既にアハナギナツメに負け、領域でプルガーネットに負けている。二着をもぎ取れたのはアハナギナツメが精神的なダメージを負ってプルガーネットから離れたからだというのは、クアンヌルブルにも分かっていた。
世間からは名門を下した希望の星だのなんだの言われているが、当のアハナギナツメは名門たる太い実家からのサポートを受けている訳でもなければ、プルガーネットという変数が無ければ順当に優勝していただろう。あのチューリップ賞の結果と世論はまるで参考にならなかった。
本来ならチューリップ賞で戦法が通じるか、対抗バはどんなものか、を測る程度の叩き台のレースだったのだ。それをクアンヌルブルの癇癪で台無しにし、無駄に注目を集めてしまった。
だがそれでも勝負根性を発揮していた、二人からの猛攻を凌いでいたあの瞬間は確かにあったのだ。
勝負にならない訳ではない。
それだけが手元の唯一の希望だった。
「バカを言うんじゃないよ。希望なんて言葉は捨てなさい! ヒト様の持ち物は明日だけだよ! より良い明日を願って走りなさい!」
この通りである。
クアンヌルブルはつくづく加入するチームを間違えなくてよかったと思って練習を続けた。
◇
「……やっぱり記録が変。ナツメ、この日外周行ったでしょ? なんかデータと距離が噛み合わないんだけど」
「そうは言われましても……覚えておりませんの」
「そうそれ! そもそも覚えてないのがおかしいでしょ? 貴女、私より頭良いんだから。覚えてないわけないでしょ!」
「流石にトレーナーを超えるほどではありませんが……思い出せないのがもどかしいですわね……!」
あちこちで噂の的となっているアハナギナツメは、突然の記憶喪失に困惑していた。もちろん、プルガーネットが冒涜的な事件に関与していた時の記憶処理に由来するものである。
思い出すともれなく、皮膚が焼き爛れて土塊と融合した人間の成れ果てが、宙に浮く炎の花びらのような怪物に自爆特攻するという、この世の終わりみたいな映像記憶が呼び出されることになっている。うら若き競走ウマ娘の青春には欠片も残してはいけない記憶だった。
冷静に考えなくても思い出さない方がいい。しかしそのことを知るのはプルガーネットただ一人である。
「うーん……機械がおかしいのかナツメがおかしいのか……」
「言い方が悪くありませんこと?」
「ヤマヤの歩数計とGPSが狂うと思う?」
「……それを言われるとおかしいのは私かもしれませんが」
「仮にヤマヤがおかしくなった場合、ウチの機械全部点検に回す必要があるからね。代用品はあるけど、不安だなぁ……」
トレーナーが疲れた顔で自身の側頭部に指を当て、丁寧に揉みほぐす。目元は暗い隈が出来ており、髪のキューティクルも一段と落ちていた。アハナギナツメが部室でいつも座る場所から丁度見えない位置に新聞や雑誌が捨てられているのを見て、アハナギナツメはままならない今を睨みつけるように目元に力を入れた。
アハナギナツメに対する世間からの評は、現在真っ二つに割れている。
超早熟タイプだったとする、期待しすぎたのだという論調。今回は紛れがあったとする、依然として支持する論調の二つだ。
冠の一つも奪い合ってない前哨戦なのに何を言っているんだとアハナギナツメは思っているが、その早熟であるとした論を唱えたのが現アハナギ家の執事の一人だとすると話は変わってくる。
アハナギナツメはアハナギ家から支援を受けていない。それはアハナギナツメ自身の意向である。そして、本家からはそれを快く思われていない。まして、アハナギ家と何の関わりのないチームのサブトレーナーを抜けたばかりの若造の女トレーナーに担当されるなんて、言語道断であるといった態度を取られていた。
アハナギナツメで居たいなら、それ相応の実績を持てという暗に伝わるプレッシャー。そうでないなら──名前から冠を外せという意思。人間の持ち物は明日だけである。ただ、ウマ娘は産まれてくる時に名前も持っている。そんな生まれ持った名前を変えるということは、ウマ娘にとって脚を貶されるのと同じくらい不愉快なことだった。
「うぅ〜、胃がキリキリしてきた。でもカフェイン無いと動けない……」
「情けないことを言わないで下さいませトレーナー! 風を感じれば自然と目が覚めますわ! 行きますわよ!」
「へぉ!? ちょっ、待っ」
アハナギナツメはただ走る。どう見ても火中の栗である自分を拾ってくれたトレーナーの名誉のため。なにか事情があるのは察していても応援してくれるファンのため。一緒に走ろうって言ってくれた親友のため。
そして、生まれ持った名前を守るため。
ただ走るのだ。小脇にトレーナーも抱えて。
そして外周を回って戻ってきた時、トレーナーの顔は土器色になっていた。アハナギナツメは保健室へまた走ることとなった。
◇
「大阪杯優勝、おめでとうございますフェイク先輩」
「中二週で行くには結構なハードさだったよ。ありがとなプル」
チーム
「大阪杯、天皇賞・春、この二つ取るなら宝塚記念も行くに決まってるだろ」
「春シニア三冠……元々夢みたいな称号ですけど、リム先輩とリーサル先輩が居るとなると尚更ですね」
「それを言い出したら、そもそもリーサルが2200メートルを走るのが夢みたいな訳わかんない話だろうがよ」
「ハハハ、キミ達の夢はいつも奇想天外に溢れているからね
」
「トレーナー!」
「トレーナーさん!?」
アフロの麗人、河田トレーナーが立っている。ただその姿はあまりに頼りなく、頬はこけており、見るからに顔色が悪い。死相が出ていると例えてもいい有様だ。
特攻服を着こなす旧時代の反体制ロックンロールを信奉してそうな見てくれでありながら、河田トレーナーは平和主義者だ。身内に限った話だが。担当したウマ娘に幸せになって欲しい。そんなトレーナーとして当然の感情を抱えている女に、三人の担当ウマ娘が同じ賞を奪い合うと宣言したのだ。
全員に勝ってほしい。全員が気持ちよくゴールして欲しい。それくらいしか考えていない生活をしている癖に、それすら果たせないと来た。それでも担当ウマ娘の夢を諦められない。だから同じくらい勝てる作戦とトレーニングを三人全員に与えている。故に河田トレーナーは消耗しているのだ。
「人間って面白いねェ。その気になれば新しい人格を作り出せるんだよ」
「最近アフロの形状が三つ増えたなって思ってたんですよ。人格も変わってたんですね」
「目の前の担当ウマ娘に集中する以上、他二人を打ち倒すことを考えなきゃだからねェ。私は最初から一対一の契約をしていたという体で人格を分割したんだ」
「は、ハァっ!? こわっ!」
「恐れられようが私の人格は宝塚記念まで並行して四人体制だァ……。アフロをよく見ておくんだな」
対プルガーネットの人格は一般的な大福みたいな形状のアフロらしかった。間違ってもヤシの木みたいになっている時の人格が担当じゃなくて良かったとプルガーネットは心の底から安堵した。
◇
「……レイン! 一旦クールダウンしろ! お前の脚は有限なんだぞ!」
「……そうですね」
夕暮れが落ちる中央芝トレーニングコース。傾いた太陽は月毛を煌びやかに輝かせていたが、毛並みの持ち主の瞳はこれっぽっちも光が無かった。
レイントルマリン。クラシック三冠に最も近いとされ、弥生賞を勝ったウマ娘。そして──アハナギナツメの幼馴染。
この一ヶ月、レイントルマリンの調子は目に見えて落ちていた。原因なんてひとつしかない。チューリップ賞をプルガーネットが勝ち抜いたこと。もっと言うなら、あの胸糞悪い疑似領域とやらでアハナギナツメを下したこと。
プルガーネットに向けて放った言葉が木霊する。
「『アハナギナツメ』に汚れた勝利を与えないでくれ」
実際はどうだ?
アハナギナツメは勝ったか?
違う。勝ったのはプルガーネットだった。
汚れた脚で、アハナギナツメに泥をつけ、踏みにじったのだ。
目の前に居たら八つ裂きにしてしまいそうだった。
どちらを?
その答えをレイントルマリンが口にすることは無い。
ゴミ箱にはひとまとめにぐしゃぐしゃにされた新聞が入っていた。
も、もしかして、そろそろ最初の冠の掛かったレースが、来るんですか!?
何年かかったの!?
遅筆がよ……