その女は三階の窓辺から雨に濡れ続ける町を眺めていた。
窓を開けると春とは名ばかりの冷たい外気が部屋に侵入したが、気に留めなかった。普段はどこか埃っぽくて雑音が多いこの町全体を洗い流すように降る穏やかな雨の音を、何も考えずにただ聴いていたかった。他にやりたいこともなかったから。
女はこの屋敷に住み込みで働いている。今は仕事が始まる前に与えられる僅かな自由時間だ。この間、屋敷で働いている他の女たちは、客から贈られた宝石を身に着けて鏡の前を陣取っていたり、度々ここを訪れる行商人から買い取った高価なドレスや香水を眺めて頬を緩めたりしていた。彼女も職業柄、客に好ましく思われるように身なりを整えることには長けている。だが、仕事以外の時にそればかりに執着する気にはならなかった。
外見を飾り立てなくても、彼女には生まれ持った美しさと気品がある。彼女はいつも誰に対しても毅然として、隙を見せなかった。その硬質で神秘的な美貌に、町の多くの男たちが魅了された。男たちは屋敷に足繁く通った。彼女の中に自らを深く刻みつけるために。そんな男たちを、女は気だるげに、冷たい瞳で眺めていた。男たちがどんなに熱烈な態度で彼女と一夜を共にしてもそれは仮初めでしかなく、彼らにとって自分の存在は情欲を満たすための一時の夢のようなものだと割り切っていた。そして男たちにその夢を何度も見たいと思うように仕向けさせることを、屋敷の女主人は強く求めていたのだった。
間もなく日が暮れて町の家々に明かりが灯り始めると、客たちが屋敷を訪れる時間になる。一階で食事や酒や音楽を堪能した後、二階の客間へ気に入った女と上がっていき、二人だけの夜を過ごす。
三階には女たちが寝泊まりをしている相部屋があったが、他の部屋に比べるとひどく寒々しくて薄汚れていた。壁紙はところどころ剥がれかけ、床は傷やへこみだらけで歩くとキシキシと鳴った。そして何より致命的な欠陥は天井からの雨漏りだ。部屋の補修を望む女たちの声を吝嗇な女主人が聞き入れる訳もなく、雨漏りの箇所の下には木の桶が置かれただけだった。
一定のリズムで雨滴を受けているその桶は、直に水が溢れ出そうになっていた。中身を窓から投げ捨ててしまえばよかったが、以前屋敷で働いている別の娘がそうした時、泥が跳ねて建物の壁が汚れたと女主人から折檻されていたことを彼女は覚えていた。小さな溜息を吐くと、桶を持って階下に向かった。
女は玄関の扉を開けると、身を屈めて桶の水を捨てた。そのまますぐ扉を閉めようと顔を上げた時、庇の下に立っている若い男と目が合った。不意を突かれた女は、閉じかけた戸の隙間からまじまじとその男の顔を見た。
男の方も驚いた様子で女を見つめ返している。二人は少しの間無言のままだったが、やがて女が訝しげに口を開いた。
「あなた、お客なの?」
「いえ、僕は……雨が止むまでの間、軒下を借りていただけです」
男は微かに首を横に振った。そして決まりが悪そうに苦笑を漏らしながら屋敷を見上げた。
「こんなに高級なお店に入れる程、持ち合わせがなくて」
そう話している男の頬を雫が伝い、女は男の髪や上着がすっかり濡れていることに気がついた。
俗世離れした、牧歌的な雰囲気の青年だった。話し方も悠然として、こざっぱりとした服装からそれなりに高貴な身分の者だと推測できた。
「ここに立っていたらお仕事の邪魔になってしまいますね。申し訳ありませんでした」
「待って」
足早に肌寒い雨の中へ戻ろうとした青年を、女が呼び止めた。振り向いて不思議そうな顔をしている青年を残し女は屋敷の中へ消えたが、すぐに彼の前へ再び姿を現した。男の前に差し出した手には一枚のリネンのタオルが握られている。
「使ってちょうだい。雨が止むまでここにいていいわ」
立ち尽くしている青年の胸先にタオルを押しつけ、顔を顰めながら女は言った。
「どこで誰が見てるかわからないの。あなたがこのまま帰ったら、ここはずぶ濡れの客を雨の中追い返すような店だって悪い噂を流されるかもしれない。ろくでなしの金棒引きがいっぱいいるのよ、この町には」
女の言葉は半分くらい本心からくるものだった。残りは好奇心のようなものだった。青年からは、普段屋敷にやって来る客たちが持つようなギラギラとした欲望を感じられない。その代わりに青年を青年たらしめているもの。強烈ではないが、なぜか興味をそそられるもの。その正体を突き止めたいと思った時には既に彼を呼び止めていた。
「ありがとうございます、お嬢さん」
青年は恭しくタオルを受け取り目を細めた。
「雨に降られたけれど、いいこともあった。あなたのような親切な方に出会えたから」
「調子がいいわね」
「本当ですよ。ほら、あなたと話しているうちに雨も止みました」
いつの間にか庇を打つ雨音が聞こえなくなっていた。近くの歩道にできた水たまりに、千切れ千切れに漂う灰色の雲を焼き尽くすかのように真っ赤な夕暮れの空が映っている。
「助かりました。汚れてしまったので、洗ってからお返しします」
タオルで身体を拭き終えた青年が言った。
女が青年の秘密を解き明かすために、再会を誓うその申し出は快諾する価値があった。しかし日頃から人と馴れ合うことをしない彼女は、尊大なプライドから思わず持ち前の冷静さを態度に表していた。
「別にいいわ。それくらい、いくらでも店にあるもの」
「いいえ、必ずお返しします。それでは、また」
青年はにこやかな表情のまま会釈をすると踵を返して女から遠ざかっていった。夕陽に赤く照らされているその背中が小さくなって消えるまで、女は彼を見送っていた。
「なに油を売ってるんだい、ヘルミニア」
喉元に刃を突きつけるような、濁った野太い声が女を呼んだ。
ヘルミニアの背後には体格のいい中年女が腕を組んで立っていた。屋敷の女主人であった。彼女はねっとりとした神経質な目つきでヘルミニアを睨んでいる。
「金を持ってないヤツを構ってる暇なんかないはずだ」
「女将さん、さっきの人のこと知ってるの?」
女主人の威圧的な物言いに臆することなく、ヘルミニアは彼女に問うた。
「あいつは町の外れに住んでる、貧乏貴族さ」
屋敷の中では女王のように振る舞い、ここで働く女たちへ威丈高に指図をしている女主人であるが、屋敷の大事な稼ぎ頭であるヘルミニアに対してはその姿勢を押し通すことができないようだった。
女主人は鼻を鳴らして言葉を続ける。
「親から相続した猫の額ほどの農園で、人を雇ってブドウだかなんだかを育ててるみたいだけどね。大した実入りはないみたいだよ。顔と人当たりだけはいいんだから、結婚詐欺師にでもなってウチに金を落としてくれりゃあいいのに」
ぶつぶつと愚痴をこぼしていた女主人はヘルミニアへ向き直った。
「無駄話は終わりだよ、さっさと客を出迎える準備を始めな! 今日も男たちから1リーフでも多く搾り取るんだ。そうだ、グレゴリの旦那にはまた店に来るようにちゃんと約束を取りつけてあるんだろうね⁉」
早口で捲し立てる女主人に辟易した後、ヘルミニアは着替えと化粧をするため自室へと戻った。鏡台の前で白粉を顔にはたきながら、彼女は玄関ポーチで青年と交わした言葉を心に浮かべていた。
本当にあの男は私の許へ再び現れるのだろうか。
その疑問は一晩中彼女の頭から離れなかった。
お読みいただきありがとうございます。
唐突にヘルミニア様の回想が始まりました。ここからどうなるか私自身見当がつかないです汗。
ちなみに女主人の声はトライアングルストラテジーのグローマやオクトラ2のマザーを担当された片岡富枝さんの声で脳内再生されております(*´-`)青年の声を当てはめるとしたら誰かな。とても優しくて心地よく聞こえる声の人。