白い抱擁   作:suiru

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二章

 それから数日が経った。ヘルミニアが目を覚ますと、太陽は既に空高く昇っていた。

 寝台から上体を起こすとこめかみの血管が脈打ち、激しい頭痛が彼女を襲った。昨晩の客は町でも有名な飲み手の男で、彼に付き合ってつい彼女も深酒をしてしまったのだった。

 寝台の脇の机に置いてある水差しを手に取ったが、中身は彼女が眠る前に飲み干したので空になっている。小さく呻き声を上げながらよろよろと立ち上がり、ヘルミニアは水差しを持ったまま一階の炊事場へ向かった。

 水が入った樽の置き場に先着の女がいる。屋敷で働く、ヘルミニアよりいくらか年下の娘であった。彼女は濡れた布切れを顔に押し当てたまま俯き、棒立ちになっている。

 呑気に顔を拭いていると思ったヘルミニアは、二日酔いの苦しさから少し苛立った口調で娘に声をかけた。

「悪いけど水が飲みたいの。どいて――」

 娘が顔を上げた途端、ヘルミニアは口をつぐんだ。

 娘の片方の瞼は腫れ上がり、目の周りに赤黒い痣ができていた。糸のように細くなった瞳が悲しそうにヘルミニアを見つめている。

 娘に寄せる同情を押し隠し、ヘルミニアはいつものようにぶっきらぼうに言った。

「またドジ踏んで女将さんに引っぱたかれでもした?」

 そう尋ねてはみたものの、金儲けに抜け目がない女主人が商売道具に傷をつける真似をするはずがないとヘルミニアは考え直した。やはり娘は力なく頭を振った。

「お客さんの方……。いつもあたしとばかりお酒を飲みたがる男の人がいるの」

 ぽつりぽつりと話す娘の声は今にも消え入りそうだった。

「その人、グレゴリに借金しながらお店に来てるんだって。いつも酔ってくだを巻いてばかりだから……しばらくお店に来るのはやめて借金を返した方がいいって、あたし、言ったの」

「それで逆上したソイツに殴られたのね」

「その時は周りに人がいて、女将さんがキツく注意してたけど……あの人、懲りずにきっとまたあたしに言い寄ってくるわ」

 話していた声は涙混じりになり、娘は顔をくしゃくしゃに歪めた。

「あの人……お金を返せなくて辛いから、いっそ死んでしまいたいっていつもあたしに言うの。あたし、なんだか怖くて……」

「そういうヤツはね、およそ長生きするのよ。あなたの同情を誘うために出任せを言ってるだけ。死ぬ勇気なんてこれっぽっちも、ないの」

「でも、もし……変な気を起こされて心中しようなんて言われたら、どうしよう。二人だけの時にそんなことになったら、誰も……誰もあたしを助けてくれない……」

「自分の身は自分で守るの。それができなきゃ、ここじゃ生きていけないわ」

 ヘルミニアは小刻みに肩を震わせさめざめと泣き始めた娘を見て、釈然としない気持ちになった。

 普段から気が弱いところはあるが、お下げ髪と顔のそばかすが愛らしい、純真な人柄の娘である。彼女の身の上話を聞いたことはなかったが、自分と似たような境遇でこの屋敷にやって来たのだろうと察しがついていた。

 娘がここで働くことを強いられ、酔いどれ男の暴力に怯えている現実に、納得したくなかった。

「これ以上ソイツにつけ入る隙を与えちゃ駄目よ。今のうちに休んどきなさい。その顔じゃしばらく店にも出られないでしょう」

 いたたまれなくなったヘルミニアは娘にそう言い捨てると、手早く水差しに水を入れて落ち着かない様子で自室へと戻った。

 喉の乾きを癒した後、窓を開けた。そして膝を抱えて窓枠に座り、何気なく外の景色を眺めていた。

 麗らかな陽射しを浴び、からっとした心地よい風に吹かれても、鬱屈した気分は大してほぐれない。やがて、娘の話を聞いた時に覚えた客への怒りは、やはり富の前で人間は卑小な存在であるという虚無感へ移り変わっていった。

 人のために富があるのではなく、人が富の奴隷なのだとヘルミニアは常々思っている。

 富を蓄積したり、物質的成功を収めたりすることが、自らの幸福という目的のためではなく、目的そのものになっている世界。その中で金のためなら人間はどこまでも醜くなり、他者を道具のように利用する。さっきの娘も、借金を抱えているという客も、救いようのない業突く張り共の鼻息に吹き飛ばされた塵芥のようなものだ。そして自分自身もその一つにすぎない。

 そんな実りのない厭世的な考え事をしていた時。

 ヘルミニアがいる屋敷からそれほど離れていない場所にある建物から、十数人の子供たちが一気に外へ飛び出したのが見えた。子供たちは建物の塀の中にある庭を走り抜け、そのまま門へわらわらと寄り集まった。

 どうやら来訪者を出迎えているようだった。ヘルミニアが目を凝らすと、その人物は数日前の雨の日に出会った青年であった。

 青年は子供の一人に手を引かれ庭の中を歩いた。彼が庭の隅にある切り株に腰かけると、子供たちは彼を囲むようにして地面にいそいそと座り込む。そして彼はすぐに身振り手振りを交えて子供たちに何かを話し始めた。

 青年の声はヘルミニアの耳まで届かなかったが、その内容が子供たちの心を鷲掴みにしていることははっきりしていた。話を聞いている子供たちはある時は皆一様に固唾を呑んで青年を見守り、またある時は一斉に活気のある声を立てて笑った。

 何よりヘルミニアの注意を引いたのは、子供たちと向かい合っている青年の表情だった。忙しなく表情を切り替えて喜怒哀楽を伝えている彼は、自らの心のあらゆる側面を子供たちに曝け出している。青年から溢れ出る生命力が子供たちへと波及し、彼らの中に躍動と前向きな感情を芽生えさせているとヘルミニアは感じた。そして話を続ける青年の顔も喜びに満ち満ちていた。

 ヘルミニアの胸中に青年が持っている力の正体を知りたいという好奇心が再び蘇った。彼女は時が経つのも忘れて呆けたように窓辺から青年の姿を見ていた。

 気づけば太陽は大きく西に傾いている。子供たちがいた建物の中から年老いた修道女が庭に現れ、青年の話に一区切りがついたところを見計らって声をかけていた。

 切り株から立ち上がった青年が肩にかけている鞄から小包を取り出して修道女に手渡すと、彼女は青年の手を握りながら深々と頭を下げた。そのまま青年は別れを惜しんでいる子供たちに見送られながら建物を後にした。

 町外れに戻って行くものだと思っていたヘルミニアの予想に反して、青年はその反対方向の彼女がいる屋敷に向かって歩き始めた。そして彼女の存在に気がついた青年は立ち止まり、二人の視線は絡み合った。

 寝起きのままの姿を見られたヘルミニアの気恥ずかしさなど気にも留めず、弾けるような笑顔を浮かべた青年は無邪気に手を振った。そして小走りになって彼が屋敷に近づいてくるのがわかると、ヘルミニアは鏡台の前に立ち手櫛でちょっと髪を整え、階段を駆け降りた。

「こんにちは、お嬢さん。ちょうどこちらに伺おうと思っていました」

 ヘルミニアが玄関扉を開けて外に出ると、既に庇の下に青年が佇んでいた。

「あなたに直接お返しすることができてよかった。先日は本当に、ありがとうございました」

 青年の鞄から取り出されたタオルは几帳面に折り畳まれている。

 そのタオルを受け取りながらヘルミニアは言った。

「タオル一枚で大げさね」

「感謝の気持ちを伝えたい相手がいることは、それだけで恵まれたことです。そしてその人に会えて、ちゃんとお礼が言えた。今日は幸運な日です」

「あなたって底抜けの……楽天家だわ」

 青年の言葉に呆気にとられた後、ヘルミニアは彼が歩いてきた道を見やった。

「さっきまで子供たちと何をしていたの?」

 青年が先程までいた場所は町に唯一ある孤児院だ。ヘルミニアは過去に一度、孤児院で働いている修道女とそこに暮らす孤児たちが彼女の屋敷の前を歩いているのを見たことがある。その時の修道女の顔には深い苦労の色が窺え、俯き加減に歩く孤児たちは何とも陰気な感じで、全員がつぎはぎだらけのボロを着てみすぼらしい身なりだった。

「僕は時々あの孤児院を訪れています。そこで子供たちに自分が考えた物語を話しているんです」

「物好きな人。私、子供って嫌いだわ」

「どうして? あんなに可愛いのに」

 そう青年に聞かれて、ヘルミニアは少し返答に躊躇した。具体的な理由がすぐに思い浮かばなかったからだ。

「……子供なんてうるさいだけじゃない」

「子供が元気に遊ばなくてどうするんです。子供たちは人間の宝ですよ。大人があの子たちに美しいものを、幸せをたくさん詰め込んで育てなければいけない」

 青年は暗い面持ちになって言葉を続ける。

「修道女の方々は子供たちのために一生懸命やっていますが、資金繰りに苦しんでいます。子供たちが育っている環境も快適なものとは言い難い。僕も孤児院へ寄付を続けていますが、彼らの生活を支えるには到底及びません」

「だから子供たちの遊び相手に?」

「はい。お金のない僕にできるのは、時間をかけて子供たちに向き合うことだけです。僕は物語を通して、自分が今まで生きてきた中で嬉しかったことや、出会った人々との思い出、美しい景色……自分が表現できる限りの喜びをあの子たちに与えているつもりです」

 ヘルミニアは青年の前で笑顔を輝かせていた子供たちの姿を浮かべていた。

「辛いことが多くても、人生は捨てたものではない。あの子たちが少しでもそう思ってくれるなら、こんなに喜ばしいことはありません」

 微笑を湛えて話す青年を見据えながら、ヘルミニアは眩暈が起きたように感じた。

 彼女はずっと、青年のような人間に出会うことを待ち侘びていたような気がした。だがそれと同時に、胸の奥底にこびりついたどす黒い感情が熱を放って身体中を駆け巡り始めた。

 この男の綺麗事を鵜呑みにしてしまっては、石にかじりついても生きてきた自分の全てが否定されるのではないか。

「私……」

 少なからず混乱している彼女は、自分の感情を言葉にできなかった。

「もう、戻らないと」

「お嬢さん」

 逃げるように屋敷の中へ入ろうとしたヘルミニアの背中に青年がそっと呼びかける。

「またあなたに会いに来てもいいでしょうか。僕は、客としてここに来ることは難しいけれど」

「好きにすればいいわ」

 ヘルミニアは振り向かずに青年に答え、すぐに素っ気なく扉を閉めた。

 青年は夕陽に照らされながらしばらくその扉を見つめていたが、やがて静かにその場を去った。




ここまでお読みいただきありがとうございます。
もっと本を読んだり勉強したりしなきゃだけど、オクトラとブラマトが楽しすぎて時間がない日々(言い訳)。
夏が近づいてきましたね。お身体に気をつけて健やかにお過ごしください。
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