白い抱擁   作:suiru

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三章

 ヘルミニアが雑然とした気持ちでいるまま、一週間ほどが経った。その日の晩、ヘルミニアを除いた屋敷の者たちはそわそわとした様子で客がやって来るのを待ち構えていた。

 やがて一人の男が数名の部下を従えて屋敷に到着すると、女主人が嬉々として彼の許へ歩み寄った。

「お待ちしてましたよ、グレゴリの旦那! 今日も一段と男前なことで」

 女主人の猫撫で声は、彼女をよく知る者が聞けば噴飯するような調子だった。

 グレゴリは町一帯に威を振るっているマフィアのボスである。賭場の経営や麻薬の密売、あらゆる無法行為に手をつけ莫大な富を築いたと世間では囁かれている。

 彼もまたヘルミニアを目当てに屋敷を訪れる客の一人であった。彼は糸目をつけず粗野な部下たちと酒を盛り、女との夜を買った。太客である彼の機嫌を損ねないよう、屋敷の者たちはその度に神経をすり減らす。

 昂然たる立ち居振る舞いと野生的な風貌も合わさり、富者グレゴリに魅力を感じている女は多い。しかしヘルミニアは彼が心底から嫌いだった。彼から受ける荒々しい抱擁も、貪るような接吻や愛撫も、物同然に扱われる自分の姿を遠くから眺めている気分になるだけだった。支配によって他者の心に干渉しようとする人間を受け入れても、待っているのは破滅であることを彼女は薄々気づいていた。

「あの強欲女はまるきりお前を手放す気がないらしいな。いつもは俺に媚びへつらってるくせに、お前の身請け話を出した途端、飄々と煙に巻きやがる」

「そうね……私は金の生る木だから仕方ないわ」

 夜が更けた後二階の客間で仕事を終えたヘルミニアは、隣のグレゴリに背を向けるようにして寝台に横たわり、彼の話を適当にやり過ごしていた。

 寝台に身体を沈めているグレゴリは屈強な肉体を自慢げにさらしている。そして今は肩を除いて薄布一枚に覆われているヘルミニアのしなやかな肢体を舐めるように見ながら葉巻をくわえた。

「お前からも説得しろよ。俺は言い値でお前を買うと言ってるんだ。悪い話じゃないだろう」

「どんなにお金を積まれても、あなたに買われるのだけは御免よ」

「年季が明ける頃にはお前はよぼよぼの婆さんになってるかもしれないぜ」

「それでも構わないわ。自分の力で自由を選び取れるなら」

「何が気に入らない? 俺はお前が欲しいものを何でも与えてやるぞ。そうだな――」

 煙を吹き出し、グレゴリは妙案が浮かんだとでも言わんばかりに愉快そうな表情で言った。

「手始めにあの薄汚い孤児院を潰して別荘でも建ててやろうか」

「駄目よ!」

 それまで無関心な様子でグレゴリに応対していたヘルミニアの中で、突如として感情の爆発が起こった。孤児院を潰すという、たったその一言が彼女の胸を乱したのだ。

 薄布を胸元へ掻き上げ身体を起こしたヘルミニアは、頬を紅潮させてグレゴリに自らの心痛を訴えようとした。

「子供は……」

 乾いた喉から絞り出すように声を出す。

「子供たちは人間の……宝よ……」

 束の間グレゴリはヘルミニアを見つめたまま唖然としていたが、彼女自身も自分の口から飛び出た言葉を信じられないでいた。

「こいつは傑作だ。町一番の娼婦がこの俺に御高説を垂れるとは」

 グレゴリは近くの灰皿に葉巻を押しつけながら冷ややかに言った。

「近頃お前に付き纏ってるあの若造に、どんな妄言を吹き込まれたか知らんが……。所詮はアイツも、お前の見た目に欲情しているだけの犬さ。そうでなければ誰がお前のような心の醜い女を相手にするものか!」

 本心とは真逆であるはずの思いをなぜ咄嗟に言ったのかという動揺に、グレゴリに核心を突かれた悔しさのようなものが加わった。ヘルミニアは押し黙ったままだった。

 その時、グレゴリがヘルミニアの片腕を手荒く掴み不気味な笑みを浮かべた。

「俺は必ずお前を手に入れるぞ。どんな手を使ってもな。この世に金で買えないものなんてないんだよ」

 ヘルミニアは抗しがたい闇に絡め取られたような恐怖を覚えた。

「痛いわ。離してちょうだい」

 しかし即座にいつもの冷静さを取り戻し、グレゴリを睨め上げる。

「私は誰の物にもならない。自分の生き方は自分で選び続けるわ」

「いつまで意地を張っていられるか見ものだな」

 グレゴリの手を振り解いたヘルミニアの華奢な色白の二の腕には、彼の指の痕が烙印のように赤く残った。

 空が白み始め、客たちは帰って行った。屋敷の明かりが消えて働いていた者たちが眠りについた後、ヘルミニアは一人屋敷の外へと出た。そして庇の下の段差に腰かけ、薄闇の中で風に当たっていた。

 辺りは静寂に包まれ、ざわめき続けている胸の音が聞こえてくるようだった。

 孤高を貫き馴れ合いを軽蔑してきた今までの彼女ならば、名も知らぬ子供たちの行く末など歯牙にもかけなかった。そんな自分が子供たちを庇うような真似をしたことはひどく偽善的に思え、彼女は深い自己嫌悪に陥っていた。

 心と行動の乖離に苦悶するヘルミニアはこの葛藤に何かしらの決着を求めていた。途方に暮れたように項垂れ、瞳を閉じる。

「お嬢さん」

 ヘルミニアは声のした方に顔を向け、眩しげに目を細めた。

 そこには例の青年が朝焼けの光に照らされながら立っている。彼は逡巡する様子を見せたが、その後決意を固めた瞳でヘルミニアを見据えた。

「こんな時間にあなたに出会えるとは思っていなかったのですが……今朝はなんだか、少しでもあなたの近くにいたいと思い、ここを通りかかりました。隣に座ってもいいでしょうか」

 ヘルミニアは何も言わず再び俯き、青年は彼女と身体が触れ合わない程度間を置いて段差に腰かけた。

「……あなたを見てるとイライラする」

 しばしの沈黙を経て、ヘルミニアが口を開いた。

「あなたが孤児院の子供たちにしていることは残酷よ。鞭で打たれた方がまだマシだわ」

「どうして、そう思うのですか」

「仮初めの希望を持ったところで、あの子たちはいずれ気づく。人生には苦しみしかないって」

「希望を持つことが間違いだと?」

「そうよ、この世は真っ暗だわ。弱い者たちは……欲望に忠実な他の人間に食い物にされるだけ。昔の私みたいに」

 彼女の真情が流露しつつあった。青年は驚きも不審に思いもせず、辛抱強く彼女の心の叫びを一言も逃すまいという顔つきで彼女が話すのを待っていた。

「私が生まれた家は名家だった。両親が死ぬと親族同士で遺産争いが始まって、私の姉たちは分け前欲しさに私を遠いこの町に売り飛ばした」

 それは彼女が一度も他者に打ち明けたことがない過去だった。

「私はお金なんていらないって言ったわ。ただ、父様と母様との思い出が詰まった家でずっと暮らしたかっただけ。だけど姉様たちは聞く耳を持たなかった。家を追い出される直前に見たあの人たち……ぞっとするくらい醜い顔で笑ってた。あの時、私はわかったの。悪魔は地獄じゃなくてすぐそこにいたんだって!」

 胸の内に溜まり続けていた憤りを、理不尽に青年へぶつけているとわかっていた。それでもヘルミニアは自らを制することができなかった。

「富を巡って互いを蹴落とし合ってる人間に、良心なんかない。だから私は誰にも頼らず身体一つで生きてきた。それなのになぜ、あなたはあんな意味のないことを繰り返すの? あなたのような人がいたら、私は……」

「あなたが本当に人間が悪でしかないと考えているなら……幸せをはかる尺度がお金だけだと思っているなら、僕を頭のおかしい男だと笑い飛ばせばいい」

 ヘルミニアが言い淀んでいると、青年は一言一言選りすぐるように、注意深くゆっくりと言葉を紡いだ。

「あなたがそうせずに怒っているのは、あなたがまだ人間に期待しているからではないですか。人に狂わされた心を取り戻すためには、人を愛するしかないと知っている」

「愛……⁉︎ よくもそんな薄ら寒い台詞が吐けるわね」

 激昂したヘルミニアは声を震わせた。

「それが富の代わりに人の欲を満たしてくれるの? そんな都合のいいものがどこにあるって言うのよ」

「手に入れるものではない……愛は人の中に備わる力だと、僕は思っています」

 彼女の剣幕に気圧されることもなく、青年は落ち着いた様子で話し続ける。

「とても難しいことです。それができる人は少ないから、だから幻想のように思われてしまう」

「じゃあ、あなたは人を愛することができる高尚で希少な存在だってことね」

「いいえ、わかりません。僕にそれができるのか……考えて、努力し続けたい」

 ヘルミニアの皮肉に彼は表情を曇らせたが、すぐにやわらかい眼差しを彼女に向けた。

「僕はあなたこそが、愛することができる人だと信じています。あなたは気高く、真っ白だから」

 青年の限りない愚直さはヘルミニアが面食らう程だった。だが彼女は彼に対して今までにない心地よさも感じ始めている。初めて内心を吐露したことで、重く沈んでいた怒りや憎しみは一時的であったとしても流れ去った。そして心が軽やかになった分、ヘルミニアは青年に与えられた言葉の真意をひたむきに汲み取ることができる気がした。

「あなた、やっぱり……ちょっと変わってるわね」

 ヘルミニアは自分の口角が上がり、微笑んでいるのだとしばらくしてから気がついた。最後に笑ったのはいつかも覚えていなかった。

 青年が驚きを隠せずにいるのは、自分の笑顔がぎこちなかったからだとヘルミニアは決まりが悪そうに彼から目を逸らす。

 彼もまた、ヘルミニアと出会ってから一番親しみ深い笑顔でそんな彼女を見つめていた。




ここまでお読みいただきありがとうございました。更新頻度がどんどん遅くなっている汗。
追憶の塔の文献『ある娼婦の愛と欲』のタイトルに込められた意味を考えながら書いてみた章でした。愛については『喝采』やブラマトの二次小説の方でもちょっと書いている……繰り返し書くくらい自分の中で大事なテーマということです決してネタ切れではごにょごにょ……。
言葉の表現力は無限大で、でもできあがったものは自分が思い描いたものとは全然かけ離れちゃって落ち込んだりするけど、やっぱり書くことが楽しい。書かなければ得られなかった出会いや経験もたくさんあるから、本当に始めてよかったなぁと思っています。
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