白い抱擁   作:suiru

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四章

 それからヘルミニアと青年は人通りの少ない早朝に、時折屋敷の前で待ち合わせるようになった。逢瀬と呼ぶには秘めやかでも艶っぽくもなく、ただその場で少し会話をするだけだった。

 その中で彼女は自らを形づくる記憶を全て話した。敬愛する両親に庇護され、美しい花々や芸術に囲まれ、光と希望に満ちていた少女時代。両親との死別、そして遺産を巡る親族同士の陰惨極まりない闘争。姉たちにこの町へ売り飛ばされた日から今まで味わった様々な苦悩。喜びも悲しみも全部吐き出した。

 そして青年の話にも真剣に耳を傾けた。彼は故郷であるこの町と亡き両親から受け継いだ農園を心から大切にしている。両親が事故で急死し、思いがけず農園の主となってからの日々は苦難の連続だったという。先が見えない農園の経営に見切りをつけ、彼の元を去る使用人もいた。それでも彼は両親との絆を捨てず、つつましく今日までを生きてきた。

 青年の肌の温もりすら知らずにいるのに、ヘルミニアは誰よりも彼を近くに感じていた。お互いの心の奥底までを見せ合い、お互いのありのままを認め合い、お互いの核となる部分で意志が通じ合ったような気さえした。

 この精神の結合と言えるような感覚が一体何なのか。

 考え始めると不意に涙が溢れて頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだったので、それ以上は詮索しなかった。

 言ってしまえばこれがヘルミニアにとって最も幸せな時間であった。

 ある日の晩のことだった。その日は夕方頃から激しい雨に見舞われ、店の客足が悪かった。

 閑散としている店内をぼんやりと眺め、ヘルミニアはあくびを噛み殺しながらカウンター内に立っていた。

「憎ったらしい雨だね……。今日はもう上がっていいよ」

 女主人に言われたとおりヘルミニアは食堂を後にし、自室に戻って休もうと階段を上った。

 客間がある二階に差しかかると、屋敷を殴りつけている雨の音はますます大きくなり雷鳴までが轟き始めていた。

 雨漏りが酷い三階の自室で眠ることが憂鬱だと考えていると、耳をつんざくような落雷の音の中に微かに何者かが叫んでいる声を聞き取った。それは聞き慣れぬ男の怒声であり、廊下の突き当たりの客間から発せられていた。

 声の主は執拗に相手を責め立てているようで、聞いているだけでヘルミニアは暗然となった。不穏な空気に居ても立っても居られず、足早に廊下を奥へと進む。

「客の俺に生意気な口ばかり叩きやがって! お前も俺のことをただの貧乏な酒飲みだと見下してるんだろう‼︎」

 突き当たりの客間に辿り着いたヘルミニアは僅かに扉を開けた。その隙間から中を覗いた彼女は目を見張った。

 若い女が仰向けに床に倒れ、彼女に跨っている男の背中が見える。両足をバタつかせ必死に男に抵抗しているその女は、いつぞやのそばかす顔の娘だった。息を詰まらせている娘は途切れ途切れに言葉にならない音を発し、首を絞められているとわかった。

 部屋の光景にヘルミニアは戦慄した。

 このまま自分が大声を出しても、それは嵐に掻き消され他の階の者には届かない。この場を離れて助けを呼ぼうにも、戻ってくる頃には娘の命は尽きているだろう。

 ましてや自分一人であの暴漢に立ち向かうことなどできる訳がない。

 立ち竦むヘルミニアは諦念に打ち負かされそうになった。

『誰も……誰もあたしを助けてくれない……』

 涙に濡れた娘の顔と言葉が蘇る。

 ヘルミニアは彼女の孤独と絶望を知っている。虐げられた者だけがわかる痛みと悲哀を知っている。

 狂おしいほどの娘への共感が、ヘルミニアの身体の震えを止めた。

 決意を固めたヘルミニアは物音を立てずに客室に忍び込んだ。辺りを見回すと、男の背後に彼が飲み干したと思われる酒瓶が転がっている。

 瓶の首部を逆手に握り締めて拾い上げた彼女は、渾身の力を込めて男の後頭部に瓶を振り下ろした。

 鈍い音が響いた。不意打ちを食らった男は頭を両手で抱えて床に転がった。ヘルミニアは瓶を投げ捨て、娘を助け起こそうと身を屈めた。

 青ざめた顔の娘は気を失っている。

「クソったれの売女どもめ‼︎」

 娘を襲っていた男が起き上がり、酒臭い息を撒き散らしながらがなり立てる。

「見下してるのはそっちじゃない……」

 横たわる娘を抱きかかえたまま、歯噛みするような憤怒を覚えたヘルミニアは呟く。

「弱い自分から逃げたくて、自分より弱いと思い込んだ人間を追い回してる。相手が思うとおりにならないと腹を立てて……なんて身勝手な男。自分しか見えてない。他には何も見えちゃいない……!」

 ヘルミニアたちを口汚く罵り続けながら、男は彼女が捨てた瓶を拾い、それを激しく壁に打ちつけた。胴部が粉々に砕け先端が針のように鋭くなった瓶の破片を振りかざし、男はヘルミニアに躍りかかった。

 娘を庇いながらでは為す術もなく、ヘルミニアはその一撃を真っ向に受けた。夥しい血が額から流れ出し、鼻と顎を伝って彼女の胸元を赤く染め上げる。

 鮮血が娘のそばかす顔にも降りかかった。娘はうっすらと目を開けた。ヘルミニアの姿を目にした彼女は正気づき、けたたましい悲鳴を上げた。

 皮肉にもちょうど雨と雷が止んでいた。娘の悲鳴を聞きつけた女主人と男の店員が客室に駆けつけると、彼らは部屋の惨状に絶句していたがすぐに男を取り押さえた。

 組み伏せられた男の喚き声を呆然と聞きながら、ヘルミニアは額に当てていた片手を眺めた。

(やだ……血塗れだわ……)

 そして彼女の意識は遠のいていき、ゆっくり崩れるように床に倒れた。

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