白い抱擁   作:suiru

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五章

 惨劇に巻き込まれたヘルミニアは一命を取り留めた。

 意識を取り戻した後、自室の寝台に寝かされていたヘルミニアは額に鈍い痛みを覚えて手鏡を覗き込んだ。鏡の中の彼女の顔に亀裂が入っている。それは額から瞼にかけて獣に切り裂かれたような複数の傷口を縫合した痕だった。

 震える指先でその痕をなぞる。自らの容姿を鼻にかけているつもりはなかった。それでも自分の価値というものが覆されたように思った。少なくとも今までのようにこの屋敷で生きていく道は断たれたのだと悟った。

 それからしばらく熱に浮かされる日が続いた。浅い眠りを繰り返して、眠る度に必ず夢を見た。闇の中に横たわっていると、誰かの笑い声だけが聞こえてくる。姉たちなのか。屋敷に関わる人間たちなのか。誰かが自分を笑っている。無価値になった自分を嘲笑っている。耳を塞ぎたくとも指一本動かすことができない。息が苦しい。

 ヘルミニアが悪夢と現実の境をさまよっているある日のことだった。部屋の扉が廊下側から乱暴に叩かれる音がした。彼女の頭は朦朧としており、窓を閉め切った暗い部屋の中からでは今が昼か夜かもわかっていなかった。

「ヘルミニア、起きとくれ」

 女主人の声だった。事件の直後、金の卵であるヘルミニアが傷を負ったことに怒り狂っていた彼女は今も不機嫌そうだった。

「お客だよ。お前が今、使い物にならないとは伝えたんだけどね。話だけでもしたいと金を出すもんだから……」

「お嬢さん、お身体の調子が悪いのに無理を言って申し訳ありません。どうしても伝えたいことがあるのです。だから、少しだけあなたと過ごす時間を買ってしまいました」

 女主人の後に続いた青年の声を聞いた途端、ヘルミニアは跳ね起きた。

 廊下で女主人と青年が何か言葉を交わすと、一人分の足音が遠ざかっていった。青年が女主人に席を外させたようであった。

「中に入ってもいいでしょうか」

 部屋の扉が半分ほど開き、差し込む光がヘルミニアが寝ている寝台の端を照らした。

「ドアを閉めて! はやく‼︎」

 ヘルミニアが声を張り上げると、開きかけた扉がすぐに閉じられた。

「ひどい病気なの。移るかもしれないわ。だから私に近づかないで」

 ヘルミニアはやっとの思いで寝台から立ち上がり、閉められた扉の前までふらふらと近寄った。そして力を振り絞り平静を装おうとした。

「用があるならそのまま言ってちょうだい」

 今のヘルミニアにとって青年に素顔を晒すことは何よりも苦痛であり、恐怖だった。

 しばらくの沈黙の後、扉の向こうから声が返ってきた。

「仕事の都合で近いうちにこの町を離れることになりました。だからその前に、あなたにもう一度会っておきたくて」

「……急な話ね」

「ええ、急にやって来たんです。人生の転機が」

 少しくたびれた口ぶりであった。

 ヘルミニアは青年にかける言葉を考えあぐねていた。

「あなたにお願いがあってここに来ました」

 彼は思い立ったように話し始めた。

「僕はもう何も持っていません。僕にあるのは、あなたと一緒にいたいという気持ちだけです。それでもあなたがいいと言ってくれるなら……僕とこの町を出てくれませんか。あなたが元気になるまで、僕は待っています」

 青年の真心がこもった言葉が、ただただヘルミニアの胸を刺す。

「私は……」

 扉一枚を隔て、お互いの息遣いが聞こえてくるほど二人の距離は近い。けれどもヘルミニアの中で、青年と肩を並べて話をしていた日々が霞んでいった。

『所詮はアイツも、お前の見た目に欲情しているだけの犬さ。そうでなければ誰がお前のような心の醜い女を相手にするものか!』

 グレゴリの高笑いがヘルミニアの頭の中で響き始め、止まらなくなった。

「私は行かないわ」

 扉を開け、青年の顔に失望という波紋が広がっていく瞬間を想像した。そんな目に遭うくらいなら舌を噛み切った方がマシだとヘルミニアは思った。

「あなたって所詮は空想家ね。私はここの所有物なのよ。一緒に逃げられる訳ないじゃない」

 それは青年に出会う前の彼女が口にするような無機質な言葉だった。

「仮に逃げられたとしても、貧しい生活が続くわ。あなたと話していた時間は楽しかった。でも、それだけじゃ駄目。私は……昔の裕福な暮らしを取り戻したい。姉様たちを見返してやりたい。これ以上、お金のせいで惨めな思いをするのは懲り懲りなの……! だから私は、ここでもっと稼がなきゃいけないのよ」

 すると青年はふっと小さな笑い声をこぼした。扉の向こうで青年がなぜ笑ったのか、どんな表情を浮かべているのか、ヘルミニアには見当もつかなかった。

「あなたの言うとおりですね。僕は全く……現実というものが見えていなかった。独り善がりなことを言ってしまいました。どうか忘れてください」

 そこには迷いから吹っ切れたような明るさがあった。

「お嬢さん、最後に一つだけ。この世は辛くて、残酷です。あなたが直面している苦しみがいつまで続くのか、それもわからない」

 彼は修道士が敬虔な祈りを唱えるような清らかさと情け深さを以てヘルミニアに語りかける。

「それでも、あなたには人生に立ち向かってほしい。どんな困難があっても、それを乗り越えて幸せになってほしい。たとえ僕が――」

「言われなくても私は幸せになるわ。絶対に……大陸一の富豪にだって、なってみせる……」

「あなたなら本当に、その夢を叶えることができそうだ。それがあなたにとっての幸せだと言うのなら、きっと」

 その口調には一切の嫌味や皮肉もなく、彼女への純粋な肯定だけがあった。

「さようなら、お嬢さん。くれぐれもお大事になさってください」

 青年の足音が遠のき聞こえなくなった後、ヘルミニアは扉に額を押しつけてその場にくずおれた。そして声を殺して泣いた。




 ここまでお読みいただきありがとうございました。
「世は辛く、残酷です」
「ですのに、立ち向かう程価値もございませんの」
 富を極めし者編第一章でヘルミニアがこのセリフを言ったのはどんな胸中からだったのか、を考えながら書いた章でした。
 最近コンビニのおいもスイーツが美味しくて順調に肥えています。食欲の秋。
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