白い抱擁   作:suiru

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六章

 それからヘルミニアの病状は快方に向かった。額の傷痕が消えることはなかったが、熱が下がり体力を取り戻しつつあった。

 未だ仕事に復帰できない彼女には寝床の中で考える時間が多分にあった。一時の感情の支配から解放され、青年の本質を見つめ直していた。遠ざけていた彼との思い出の断片をかき集め握りしめるかのように、彼が自分の近くにいた日々を思い出していた。

 子供たちに囲まれながら語り聞かせをしていた青年の姿が浮かんだ。彼は自分自身を子供たちに分け与えていた。何の確証もなく、子供たちの中に希望が生まれると信じて。無垢な心で彼らを抱きしめていた。そしてその穏やかな眼差しはヘルミニアにもずっと向けられていた。

 信じ抜くこと。それこそ彼が言っていた人の中に備わる力ではないか。

 ヘルミニアは思った。

 それは不確定な未来に踏み込んでいくことだ。恐ろしくても前に進むことだ。いかなる時も、彼の誠意は信頼できると信じることだ。だから彼に自らの全てを曝け出そう。次会えた時こそ、彼に全てを委ねるのだ。次、会えた時こそ。

 青年と連絡を取る手段を模索していた矢先のことだった。

 ヘルミニアは屋敷の中を歩き回れるまで回復した。しかし、女主人は彼女が客を取ることをよしとしなかった。女主人は屋敷の名に泥がつくことを恐れ、例の忌々しい事件に関わる全てを秘匿しようとした。だから女主人はヘルミニアを客の目には触れさせず、彼女に炊事や掃除をさせてこき使うようになった。

 仕事で使っていたドレスや装身具も一つ残らず取り上げられた。女主人からの冷淡な待遇にヘルミニアは耐え続けた。青年との再会を果たすことだけが彼女の心の支えだった。

 その日の朝も客たちがあらかた帰った時間を見計らい、ヘルミニアは屋敷の掃除を始めていた。

「そういや、聞いたかい? ヘルミニアと懇ろになってた貴族の兄ちゃんのことさ」

 客間がある二階の廊下を磨いていた時だった。最後の客がいる部屋から聞こえてきた会話を耳にすると、床を拭いていた手がぴたりと止まった。

「あの人の見舞いに一度来たっきり、姿を見てないわ。何かあったのかしら」

 男の相手をしている女の声は、あのそばかす顔の娘のものだった。

 ヘルミニアは片手にボロ布を握ったまま静かに立ち上がり、客の男と娘がいる部屋の扉の前で息を凝らして話の続きを待った。

「この数日、ちょっとした騒ぎになってたぜ」

 男は興奮し、いかにも噂話に飛びつく軽薄さを持ち合わせた口調であった。

「町外れの雑木林でさ、首を吊ってたんだよ。場所が場所だから見つかるのに時間がかかっちまってなあ、酷い有様だったみたいだ」

「えっ! どうしてそんなことに……」

「どうもグレゴリが絡んでるらしい。事の発端は、ヤツがあの兄ちゃんの農園を買う話を持ちかけたことだった」

 物々しく話し続ける男はさながら自惚れた狂言回しであった。

「兄ちゃんが気にかけていた孤児たちのことをダシにしたのさ。もっと広くて綺麗な孤児院を建てるから、兄ちゃんが持っている土地を譲ってくれと……グレゴリは言葉巧みに兄ちゃんに近づいた。お人好しの兄ちゃんはその言葉を真に受けて、ヤツに自分の農園を安売りしちまった。だが、グレゴリは約束を守らなかった」

「いくらかでもお金が手元に残ってたなら、まだやり直しが利いたんじゃないの?」

「それだけで終わらなかったんだよ。兄ちゃんの家に盗っ人が入って、有り金を全部奪われたんだと。その盗っ人はまだ捕まってないみたいでな。挙げ句、兄ちゃんの使用人も皆、愛想を尽かして出て行っちまった」

「本当に運が悪かったのね」

「ここからは俺の憶測だが……」

 男は少しだけ声を潜めた。

「グレゴリに借金しながらここに来てた客がいただろう。ほら、お前に御執心だったあの飲んだくれだよ。グレゴリはアイツに盗みを働かせたんじゃないかと俺は思ってるのさ。借金がある手前アイツはグレゴリに従わざるをえなかったんじゃないか、ってね。当の本人も数日前から行方をくらましてるんだ。盗んだ金を持ち逃げしようとして消されたのか、単純に証拠隠滅されたのか」

「そう、あの人いなくなったの。そう……!」

 娘の声には晴々とした感情が広がっていった。

「人が良すぎる兄ちゃんだったなあ……グレゴリに目をつけられたのが運の尽きだったよ」

 男はしみじみと言った。

「兄ちゃんがこの店の前でヘルミニアと話していたのを聞いたことがあるがね、愛だの希望だの……おめでたいことばかり言ってたな。どうしてそんなありもしない妄想にすがっていたのかね。その結果があれじゃないか」

 そして彼は憫笑した。

「詰まるところ、金で買えるものだけが確実さ! そんでよ、俺のようなしがない労働者は日がな一日小銭を稼いで好きなもんを買って消費して……それでどうにか寂しさを埋め合わせてるのさ。俺はこうしてお前を買って、この胸に顔を埋めてる時が一番幸せだ!」

「やぁだ、もうっ! ほら、もうお帰りになる時間よ」

 戯れる男をあしらいながら、娘は上機嫌に笑っている。自らを脅やかす因子が消えたことを知り、娘にとっては自分の前途が洋々と見え始めたのだろう。そのどこにも、身を挺して娘を守ったヘルミニアの姿はなかった。

 一方で娘の笑い声もヘルミニアの耳には届いていなかった。ボロ布が彼女の手から滑り落ちる。

 そのまま彼女は踵を返し、自室へと続く階段を力ない足取りで上った。上りながら彼女は想像していた。縄を手にして薄暗い森の奥へ一人分け入った青年の胸中を思った。

 その決断に至るまで、彼は追い詰められていた。善良な心を利用されて愛する両親が遺した農園を失い、全財産を奪われ、使用人に見捨てられた。

 最後にヘルミニアを訪れた時、彼の精神は天井に吊るされた縄に首をかけ、椅子に立っている状態だったのだ。彼は椅子の上からヘルミニアを呼んだ。

(だけど、私は……)

 自室に戻ると、東側の窓から注ぐ日差しがまばゆかった。見慣れたはずの景色が今までとは全く異なって見える。光に照らされている部屋の中で、自分だけが陰湿で、現実からかけ離れた存在のようだった。

(私はその椅子を蹴ったのね)

 心に宿った虚しさが彼女に涙さえ流させなかった。

 彼女はまた、孤独になった。

 

 

 グレゴリが女主人に再びヘルミニアの身請けを願い出たのは、それから間もなくのことであった。それは彼がヘルミニアの身に起こったことを知った上での交渉で、彼は女主人が要求する額を不足なく用意すると言った。女主人がその商談に飛びつかないはずがなく、瞬く間にヘルミニアの身柄はグレゴリに引き渡された。

 グレゴリが暮らす豪邸での最初の夜、ヘルミニアは彼の寝室へ呼び出された。金箔を施した派手な寝台の縁に、彼女は俯きながら腰かける。

「そう下ばかり向くなよ。俺はお前の顔に多少傷があろうと気にしない。顔のいい女を抱くだけなら、金を出せばいくらでもできる」

 酒の入ったグラスを手にしながら革張りの椅子に座るグレゴリは、勝ち誇った笑みを浮かべていた。

「お前だけは……他の女どもとは違った。いくら金を積もうと、まともに俺のことを見ていなかったな。俺を蔑み、誰のものにもならんだのと、いつもお高くとまっていた。だが――」

 その酒をあおると彼は立ち上がった。

「この世は金が全て、愛さえも金で買える。だからお前は俺のものになった。お前は俺の正しさを証明する勲章だ」

「そうね……」

 身じろぎ一つせずにいたヘルミニアがぽつりと呟いた。

「富があれば、全て――」

 ヘルミニアの唇はグレゴリに塞がれ、彼女はそのまま寝台の上に押し倒された。

 寝台が軋むと同時に、ヘルミニアは自分の中で何かがひび割れる音を聞いた。最後にそれは粉々に砕け散り、もう元には戻らなかった。

 

 

 グレゴリの側に控えるようになった、白い仮面をつけた謎の女の存在は、彼の手下たちの目を引いた。やがて女は手下たちを懐柔し、グレゴリを暗殺した。

 マフィアの新たな頭目となったその女は、グレゴリの遺産を元手に富を増やし続け、いつしか人々から『強欲の魔女』と呼ばれるようになった。

 さらに時は流れ、ヴァローレの町を破滅の粉で染め上げ利益を得ていた女は、若きギャングたちと対峙することとなる。

 リーダー格の青年の名は、バルジェロ・ギベルティ――。




 大陸の覇者界隈が3周年のお祝いムードに包まれる中、暗い話を書き続ける私汗。
 ここまで書きながら思ったことは、私は私の周りにいてくれる大切な人を本当に大切にできているかな、でした。ちょっとしたすれ違いや一時的な感情で相手を傷つけてしまったり、もう会えなくなってしまったり……そんなことにならないように、自分の大切な人には精一杯本当の思いを伝えて、一緒にいられる時間を大事にしたいです。
 また、SNSの世界のつながりも、突然あっけなく消えてしまったりするものだから、こうして私と関わってくださってる方々へ、今のうちに心から感謝を申し上げます。
 つまり「推しは推せる時に全力で推せ」という結論に至りました。
 ほっとレモンが美味しい季節になったから買いに行かなきゃ(使命感)。
 物語の終わりが近づいてきました〜ラストスパート頑張ろう。
 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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