白い抱擁   作:suiru

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七章

「畜生……畜生ッ……! この忌々しいゴミ虫どもッ‼︎」

 目の前に立つ若者たちを罵倒する異形の獣の声は、悲鳴のようにも聞こえた。

「ごちゃごちゃと口先だけの正義を並べ立てやがって‼︎」

 二本足のその獣は激怒と苦痛に身悶えている。たてがみのように長く伸びた髪を振り乱して大きく態勢を崩し、若者たちを見下ろすほどだった巨体が広間の絨毯に倒れ込んだ。

 獣の身体が乾いた砂のように変色し崩れ落ちていく。砂山の上に現れたのは、息を切らして膝を突く大富豪ヘルミニアの姿だった。

 満身創痍の状態であっても、彼女は若者たちを罵ることを止めなかった。

「……虫唾が走る……英雄気取りが、そんなに楽しいかッ⁉︎」

「正義を振りかざすつもりも、英雄になるつもりもない。俺たちはあんたに奪われたものを取り返しに来ただけだ」

 若者の一人が毅然と口を開いた。自らも身体の至るところに傷を負いながらも、彼女に放つ鋭い眼光は微塵も衰えを知らない。

「バルジェロ……! お前さえ、いなければ……‼︎」

 ヘルミニアは歯がみしながらその青年を睨め上げる。

 今まで自らの命を狙う者を闇に葬ってきたように、ヘルミニアはバルジェロのことも返り討ちにするつもりだった。彼の仲間を買収し猜疑心を芽生えさせ、彼が混乱と恐怖に陥る様を堪能してからなぶり殺しにするはずだった。

 しかしその意志は揺らがぬまま、バルジェロ一味はヘルミニアが仕掛けた罠を掻い潜り屋敷の最深部にいる彼女の許へたどり着いた。

 最後の戦いが始まる直前、ヘルミニアによって変わり果てた仲間の亡骸を背にしてバルジェロは言った。

『俺たちは互いを信頼している』

 それまで薄ら笑いを浮かべて彼の話を聞いていたヘルミニアから余裕の色が消えた。嘔吐するほどの拒絶と嫌悪感を覚えた。表面上しとやかに振る舞っていた彼女が急に直情的になり、沸き起こる怒りを剥き出しにして彼らに襲いかかった。

 この男はかつての私がどうしても得られなかったものを手にしていると、平然と言っている。

 ヘルミニアはバルジェロの取り澄ました顔を八つ裂きにし、自らの正しさを証明しなければならないと思った。しかし彼女は彼らに敗れた。彼女を富を極めし者へと導いた魔なる指輪の力を以てしてもそれは叶わず、こうしてバルジェロの前に跪いている。

「なにが信頼だ……そんなもの虫のクソほどの価値もない! 皆、上辺を取り繕っているだけだ……皆、自分が一番可愛いんだ! 信じられるのは自分自身と、富だけよ……‼︎」

「金で他人を従わせようとするのは、今のあんたに人と向き合う器量がないからだ。人を信じることから逃げ出したヤツに、俺たちの絆は壊せない」

「嫌よ……渡さない……私の富だけは……」

 途切れ途切れにうわ言を繰り返してヘルミニアは立ち上がり、足を引きずりながら広間の奥にある扉に向かって進み始めた。

 彼女の敗北を確信したバルジェロたちは、追い討ちをかけることはしなかった。

「ゴッドマザー……あんたの本当の望みは……」

 遠ざかっていくヘルミニアの背中を、バルジェロは静かに見送った。

 

 

 扉の向こうにある部屋はヘルミニアの全財産が保管された宝物庫だった。

 瀕死寸前の彼女は部屋に入った後、その重厚な扉を死に物狂いで閉め、閂をかけた。そして壁にかけられた燭台から火が灯った蝋燭を手当たり次第に掴み取り、床に投げつけた。

 床や壁に燃え移った火が着実に彼女の富を燃やしていく。天井まで積み上げられた金貨と宝石の山が、黄金に塗り固められ苦悶の表情を浮かべたまま像となった姉たちが、燃えていく。

「これでもう、誰にも奪われないわ……!」

 炎に包まれていく部屋を眺め、ヘルミニアはヒステリックな笑い声を上げた。

「全部、全部、私のものよ! 私はお金が欲しかったんだもの! お金さえあれば欲しいものは何でも手に入るわ! 私は……私は……‼︎」

 笑い続ける彼女はリーフの山に駆け寄ろうとしたが、両足が絡まり床に突っ伏すように転んだ。

「私は……」

 どうにか上体を起こしたが、立ち上がる力は彼女に残っていなかった。両手を床に突き俯いていると、彼女は床にいくつも水滴が溢れていくのを見た。

「私は……お金なんかいらなかったのに」

 それは彼女が手放したはずの本当の望みと再会した瞬間だった。

「ただあの時、扉を開けることができれば……それでよかったのに……」

「僕も、大切な選択を誤りました」

 ヘルミニアが顔を上げると、目の前にあの青年がいた。片膝を床に突きしっかりと彼女と目線を合わせ、彼は少し寂しそうに微笑んでいた。

「あの時の僕は……何もかもを失った気がして、自暴自棄になっていた。自分が招いた不幸に囚われて……あなたの気持ちを考えずに、自分の思いだけをぶつけてしまった」

 神がヘルミニアを救済するために青年の魂を地上に遣わせたのか、彼女が見ているただの都合のいい幻覚なのか、それは誰にもわからなかった。ヘルミニアの瞳に青年の姿が映っていることだけが事実であった。

「私は助けを求めているあなたに気づくことができなかった……」

 ヘルミニアは声を震わせながら言った。

「それどころかあなたを……死に追いやった!」

「あなたは悪くない。僕が死んでしまったのは、あなたのせいじゃない」

 青年はヘルミニアを見据え、優しく、けれど力強く言った。

「僕が死んでしまったのは、僕に生きる勇気がなかったからだ。僕は、死を選ぶことに勇気を使ってしまった。でもその勇気は、僕自身が人生に立ち向かうために奮うべきだったんです。大好きなあなたと、最後まで一緒に生きていくために……」

 すると青年の頬を、小さな真珠が転がり落ちた。それはヘルミニアが所有していたどの財宝よりも美しかった。

「お嬢さん。僕たち弱い者同士、支え合って一からやり直しましょう。これからゆっくり、時間をかけて」

「駄目よ……」

 ヘルミニアは弱々しく首を横に振る。

「私はあなたと同じところには行けないわ。私は取り返しのつかないことばかりやってきた……。血塗れのまま、地獄に堕ちるのよ……!」

「あなたの真っ赤な罪はいつかきっと、雪のように白くなる。僕はもう諦めたりなんかしません。ずっと、いつまでもあなたが来るのを信じて待っています」

 青年は笑顔を見せた。何の後ろ暗さもない、かつて子供たちやヘルミニアに向けられていたあたたかい笑顔だった。彼女が愛していた笑顔だった。

「その時は僕を抱きしめてください、お嬢さん。あなたの真っ白な心で……」

 白い仮面を取り外し青年に素顔を晒したヘルミニアもまた、微笑んでいた。

 その直後、崩れ落ちた天井が彼女を押し潰した。

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