空という、かつての私たちの独壇場だった場所から見下ろす。いや、見下す。
そこには一人のエルフがいた。白銀の髪を二つ結びにし、杖を手にしている魔法使い。葬送のフリーレン。
それを見間違うことなどあり得ない。あの時と何も変わっていない。何よりもその目だった。冷静で殺意の籠った、氷のように凍っている冷たい目。私たちが言葉の通じない猛獣だと知っている。そんな視線を向けられるのは本当に久方ぶりだ。
そのままゆっくりと地面に降り立つ。その手に天秤を持ちながら。いつでも戦えるように。それが分かっているだろうに。その表情は完全に無表情。何の感情も見られない。まるで人形のよう。魔族を相手にしているかと錯覚してしまうほどに。
それに倣うように私もまた無表情を装う。だが、内心はそうはいかなかった。まるで腸が煮えくり返るような感覚。
(このふざけた魔力……やっぱり化け物の弟子は化け物ってわけね……!)
それは魔力だった。目の前のエルフ、フリーレンが放っている絶大な魔力。今まで伝聞でしか知らなかったものが現実になっている。かつてのゼーリエに匹敵する魔力。それすらもゼーリエからすれば制限された物だった。それには劣るとしても、目の前のフリーレンも化け物であることは変わらない。五百年を生きた大魔族である私の魔力のおよそ倍。千年以上生きた大魔法使いの力。あの生臭坊主が漏らしていたことは真実だったのだ。私にとっては嘘であってほしかったもの。
「…………っ!」
思わず逃げ出したくなる魔族の本能を抑えつける。体に力を込めながら。脳裏にかつてのハイターの言葉が蘇る。
『あなたは慎重な、臆病な魔族です。ヒンメルに敗れてからずっと身を隠していたように。そんなあなたがフリーレンの力を知れば戦おうとはしないでしょうから』
逃げること。生き残ること。魔族の誇りも矜持も関係ない。それが今の私の最適解。あの時から既にあいつは私のことを見抜いていたのだろう。力押しなんて馬鹿のすること。リュグナーにも何度も説いた、自分に言い聞かせてきた戒め。なのに私は今、ここにいる。何故なのか。魔族の誇りなのか。それとも。
「あまり変わっていないみたいだね、アウラ」
「当然よ。私は魔族だもの。そういうあんたは変わったわね。お得意の魔力の偽装はどうしたの?」
開口一番。そんな下らないことを口にしてくるフリーレン。何を馬鹿なことを。たかが八十年やそこらで魔族が変わるわけがないだろうに。千年以上も生きているエルフの癖にそんなことも分からないのか。いや、無駄にだらだら生きてきただけだったのだろう。その数少ない利点である、魔力の偽装すら行っていない。一体何のつもりなのか。
「やっぱり知っていたのか」
「ええ。聞いてもいないのに、あんたの仲間がぺらぺら喋ってくれたわよ? 仲間に恵まれたわね、フリーレン?」
どうやらこいつは私に魔力の偽装を知られていることを知っていたらしい。なるほど。だから無駄だと判断したのか。皮肉でしかない。それを私に明かしてきたのは他ならぬ勇者一行の仲間なのだから。本当に馬鹿な連中だ。その点だけはこいつに同情してやってもいい。
「そうだね。私もそう思うよ。でも大した問題じゃない。想定の範囲内だ」
「……ふぅん。それで? 私に何の用? まさかご自慢の魔力を見せびらかしに来たってわけじゃないでしょう?」
こっちの煽りも何のその。まるで意に介することもなく、淡々としている。本当に気味の悪い奴だ。いつまでもこんな無駄なやり取りをしていても仕方ない。さっさと本題に入ることにする。何でここにやって来たのか。わざわざ呼び出してまで。そんな聞くまでもないことを。葬送の魔法使いが魔族の元にやってくる。その理由など考えるまでもない。魔族が人間を襲うのと同じように。だというのに
「リーニエに伝えた通りだよ。お前に会いに来ただけだ」
目の前の葬送の魔法使いは、そんな意味の分からないことを当然のように口にしてきた。
「はぁ……? 馬鹿じゃないの。何でそんな意味の分からないこと」
ただ呆れながらそう吐き捨てるしかない。当たり前だ。どこにただ魔族に会いに来る魔法使いがいるのか。いるとしたらそれは頭のイカれた馬鹿だけだろう。お茶でもしに来たというのか。魔族でももう少しマシな嘘をつくだろう。それともエルフというのはこんな馬鹿ばかりなのか。いや、馬鹿なのは当然か。こいつは人間相手に五十年後の再会の約束をするぐらいの愚か者なのだから。
「そうだね。馬鹿みたいだ。でもどうしてもお前と直接会って話さないといけなかったんだ。誰かに聞いたり、読んだりじゃなくて、私自身が」
その愚か者はさらに意味の分からないことを呟いている。どうやら馬鹿である自覚はあったらしい。もはや手遅れだろうが。どうやら私と話がしたかったらしい。魔族の私と。意味が分からない。魔族と話すなんてこいつにとっては無駄でしかないだろうに。
「嫌なことは早めに終わらせたいからね」
だからなのだろう。淡々とした中にも、それが感じ取れる。こいつもまたこの状況を嫌っているのが。本意ではないのだと。ふざけた奴だ。自分でやって来ておいて、それが嫌だという。子供でももう少しマシだろう。リーニエが大人に思えてしまうほど。
「……ごちゃごちゃうるさいわね。ようするに私を馬鹿にしてるってわけね」
だがそれはこの場においては、私にとっては宣戦布告にも等しいものだった。それに応えるように、天秤をかざす。瞬間、それに惹かれるように無数の魔物がこの場へと集ってくる。まるで獲物を見つけたかのように。だがその動きは統制が取れている。野生の魔物ではあり得ないこと。だがそれを私は為し得る。何故ならこいつらは、私にとっては手足も同然の僕なのだから。
「やっぱり
周囲を逃げ場なく取り囲まれながらも、フリーレンは身じろぎ一つしない。その目を動かすだけ。恐らくは魔力探知で状況は把握していたのだろう。私がこの場に来る前には、もうこの包囲網は完成していたのだから。まさに籠の中の鳥。ここが止まり木か何かだと勘違いしたのか。
「心にもないこと言うじゃない。あんたにとっては魔物相手の方がやりやすいでしょうに。これが今の私の新しい不死の軍勢よ」
魔族顔負けの嘘をつく奴だ。そんなこと微塵も思っていないくせに。その証拠にこうなることは分かっていたのに逃げずにこの場に留まっているのだから。ようするにこれも想定の範囲内ということなのだろう。
そう、これが今の私の新たな不死の軍勢。数も、質も。かつてを遥かに上回る。グラナトを、一国を一夜で攻め落として余りある戦力。かつてと違うのはそれが魔物であり、首がついているということ。
だがこと目の前のフリーレンを相手にするならかつての不死の軍勢の方が効果的だったろう。人間の死者を相手に、こいつは全力を出せないのだから。かつての勇者たちがそうであったように。
「……そうか。今のお前はそう思うんだね」
「……? ああ、でもあんたには関係なかったわね。人間の死者でも構わず吹き飛ばしていたもの。勇者一行の魔法使いが聞いて呆れるわね」
だがそれももしかしたら私の買いかぶりかもしれない。今でも覚えている。こいつがかつて私の不死の軍勢を派手に吹き飛ばしていたのを。一切の容赦も慈悲もなく。冷徹に。どちらが魔族か分からないほどに。
「そうだね。あとでヒンメルに怒られたよ」
「良かったわね。もう怒られることはないわよ。二度とね。それとも天国とやらで会わせてあげましょうか?
怒られたというのに、全く堪えた様子も見せていない。まるでそれ自体に意味があったかのように。何が怒られた、だ。もうそんなことを気にする必要はないだろうに。今更何を。だとしたらさっさと天国とやらに行けばいい。いや、その必要すらない。ここをこいつの旅の終着点にしてやってもいい。手間も省けるだろう。だらだらと無駄な旅を続けなくてもいいように。
「まったく、慈悲深くて涙が出そうだ。流石は女神の真似事をしてるだけはあるね。アウラ教だっけ。教典を読んだよ。最低に趣味が悪い。反吐が出る」
改めてこちらを見つめながらそうフリーレンは吐き捨ててくる。どうやら一応私の国のことも調べては来ていたらしい。もっともお気には召さなかったようだが。趣味が悪い、か。全く持ってその通りだ。むしろ誉め言葉ですらある。
「酷いこと言うのね。せっかくあの僧侶に作らせたのに。でも人間共はもっと愚かね。趣味が悪いのかしら。あんな教典を本気で信じて、騙されている。支配されていることにも気づけていないんだから」
あの教典が、あの生臭坊主が作った物であることも知らないのだろう。もしあいつが知れば三日は落ち込んでしまうに違いない。いや、もしかしたら笑い飛ばすかもしれないが。本当に愚かな奴だ。私に付き従ってくる人間共と何ら変わらない。あんな夢物語を、御伽噺を今も信じているのだから。だから魔族に騙されるのだ。自分たちが支配されていることにも気づけずに。本当に無駄で、暇な生き物たち。
「支配か……確かに魔族からすればそう見えるのかもね」
どうやらこいつには魔族の思考が分かるらしい。最も多くの魔族を葬ってきた魔法使いが、誰よりも魔族を理解しているのは皮肉でしかない。元々魔族寄りの存在だっただけなのかもしれないが。ある意味、魔族より魔族らしいのだろう。
「そういえばこの国の名前もだね。フリージアだっけ。そのアクセサリと同じ花の名前だ。悪趣味にもほどがある」
もしかしたら初めから気づいていたのか。その視線を私の胸元に向けながらそう告げてくる。目ざとい奴だ。その言葉も私に対する侮辱なのだろう。だがそれは大した意味はない。そんなことは言われるまでもない。それを分かった上で名付けたのだから。親愛とは真逆で成り立っている、この国を。それを戒めるために。忘れないために。
だから驚いたのは別のこと。それは
「へぇ……ようやく花言葉を覚えたってわけ? もうとっくに手遅れでしょうに。勇者も嘆いていたわよ。せっかく指輪を贈ったのに、一度も会いに来ない薄情者だって」
目の前の薄情者が、その意味に気づいたということ。花畑を出す魔法を使う癖に、花言葉も知らなかったこいつが。このアクセサリの花言葉を理解したのだから。千年かけてようやく。ゼーリエが呆れるのも当然だ。
ただそれに目を奪われる。これ見よがしにあいつの左の薬指に着けられている指輪に。鏡蓮華の意匠をした物。その意味に気づいて慌てて着けたのだろう。本当に愚かだ。今更そんなことをして何の意味があるのか。手遅れでしかない。
こいつは知らなかったのだ。知ろうとしなかったのだ。その花言葉の意味を。指輪を贈る行為の意味も。
こいつは知らないのだ。勇者がそれを伝えなかった意味を。それを待ち続けた日々を。だというのに
「そうだね。これは私の罪の証だ。魔族には理解できないもの。お前には何の関係もない」
眉一つ動かさず、顔色一つ変えずに冷徹に目の前のエルフは言い放った。私には関係ないと。何の感情も容赦もなく。それを前にして、ただ私の方が呆然とするしかない。
そう。それは正しい。それはこいつの問題だ。私には何の関係もない。魔族には理解できないもの。なのに、どうして私はそんなことを口にしているのか。気にしているのか。拘っているのか。
何故そうこいつは言い切れるのか。到底信じられない。こいつは、本当に■■なのか。
「────アウラ。お前は勇者のことをどう思っている?」
言葉を発することができずにいた私に、フリーレンはそう問いかけてくる。何でもないことのように、それでもその氷のような視線を突きつけながら。それに思わず飲まれてしまいそうになる。あり得ない。この私が。こんな奴の言葉で。
「…………何でそんなこと聞くわけ? ヒンメルはもういないじゃない」
間をあけて、逡巡し、言い間違えないようにそう答える。いや、そう言わされてしまった。その言葉を。何の変哲もない、ただの言葉。真実。何もおかしくない。それが当然だ。魔族ならそう答える。考える。だから私は間違っていない。なのに、どうして
「認めよう。アウラ。お前は魔王を超えた魔族だ」
そんな私を見つめ、一度目を閉じた後、こいつはそう私に告げてくる。およそ考えられない、まるで私を肯定するような、認めるような言葉。あり得ない。一体こいつは何を言っているのか。企んでいるのか。嘘をついているのか。
「でもお前は魔王にはなれない。人類の敵にも。他の
それは私に対する侮辱だった。私など相手にならないと。脅威にならないと。臆病で慎重な、私を揶揄する言葉。
「好き勝手言ってくれるじゃない……あんたに私の何が」
分かるというのか。エルフであるお前が。私の何を。魔族である私を。なのに
「────お前は嘘つきだ、アウラ」
目の前の葬送の魔法使いは、そんな当たり前の肯定をしてきた。
「? 何言ってるの? そんなの当たり前でしょう? 私は魔族よ。嘘をつくのは当たり前よ」
知らず目を見開いたまま、首を傾げながら応える。そう、私は嘘つきだ。魔族なのだから。そんなのは誰だって分かる。子供だって分かる。なんでそんなことを今更。自分の方が遥かに嘘つきの癖に。
「やっぱり自分でも気づいていないのか……哀れだ」
僅かに目を伏せながら、目の前のエルフはそう零す。およそ理解できない言葉と共に。いや、言葉自体は知っている。理解している。なのに、それが理解できない。それが自分を指しているものだということが。
「哀れ……? この私が……?」
哀れだというのか。この私が。憐れんでいるというのか。この私を。こいつが。こんな奴に。
理解できない。何一つ理解できない。目の前の生き物が。そもそも本当に目の前にいるのは生き物なのか。
精神性が人類のものとはかけ離れている。人の形をして、人の言葉を話しているのに、こいつを全く理解できない。どちらが化け物か分からない。
でも私は知っている。それが何なのか。このやり取りが何を意味しているのか。
そう。これは私たちが、魔族が人間を騙すためのもの。言葉を使い、動揺を誘う典型的な
(この感覚……まるでこれはあいつと同じ……!?)
事ここに至ってようやく気付く。本当に私は愚かだったのだろう。気づくのが遅すぎた。そう、これと同じ物を私は知っている。つい最近、全く同じことがあった。
これは会話ではなかったのだ。ただの観察。観測。このエルフは、檻の中の
知らず背筋が凍り付く。震えがこみ上げてくる。汗が滲んでいく。
落ち着け。冷静になれ。これは罠だ。反応してはいけない。あの時のように。でなければ同じ失敗を繰り返してしまう。なのに
「そのアクセサリ。ヒンメルからもらった物なんだってね」
その言葉に、反応せざるを得なかった。それはまるで反射に近いもの。知らずそれを手に握ってしまっていた。隠すように。取られまいとするかのように。みっともなく、無様に。
「…………それが何だっていうのよ」
震える声で、そう言い返すのが精いっぱいだった。今自分がどんな表情をしているのか分からない。
動悸がする。眩暈がする。立ち眩みがする。あの時と同じように。
言わせるな。その先を言わせてはいけない。それを言われたら私は
「────ヒンメルはもういないのに、どうしてそんな物を身に着けているの?」
「────は?」
分からない。今■■■は何と言ったのか。■■だと言ったのか。
かつての■■■■のような言葉。いや違う。明確な■意がある。それに反応してしまえば、認めることになってしまう。自分が■■ではないのだと。あの時のように。■■■■■を失くしてしまった時のように。
「………わよ」
天秤が揺れ動く。重さではなく、私の手の震えによって。その意味。ずっと耐えてきた、堪えてきた何か。それを零さないように、秤を必死に抑えていたのに。もう、その重さに耐えられない。
「……じゃ、ないわよ……」
知らず声が漏れていた。私が私でないかのように。視界は真っ赤に染まっていた。生まれて初めての何かが体中を暴れまわっている。そのまま体がバラバラになってしまいそう。それでも。だからこそ。
覚えている。その光景を。その顔を。その声を。その眼差しを。
『────アウラ、僕と友達になってほしい』
あいつが私に贈ってくれた親愛の証を。だから
「あんたが、それを言うんじゃないわよ────!!」
こいつにだけは、それを言わせるわけにはいかない────
その慟哭が最初で最後の『天秤』と『葬送』の戦いの始まりの合図だった────