第十二話 「無名」
――――夢を見る。
懐かしい夢を。覚えている。あの姿を。あの声を。
でもきっと、色褪せていくのだろう。思い出せなくなっていくのだろう。
それでもきっと私は――――
「…………ん」
ふと、目を覚ます。目の前には見慣れない……いや、見慣れた教会の風景。知らずうたた寝をしてしまっていたらしい。何か懐かしい夢を見ていた気がする。今思い出せば笑ってしまうような、下らない夢。ここ最近は見ることはなくなっていたのに、何故なのか。
そんな中、視界に映るのは自らの胸元に光る銀のアクセサリ。この国の名であり、国花でもあるフリージア。なんとはなしに、それを手に取る。それは八十年前と変わらない。魔族からすれば大したことのない時間。だが、自分にとってはどうだったのか。思い出すのは――
『――――僕はね、本当に楽しかったんだ。あの時、君を手にかけないで本当に良かった』
そんな、どこまでもお人好しだった誰かの言葉。
(――馬鹿じゃない)
自嘲しながら思考を切り捨てる。そんなことを考えても何にもならない。改めて目を覚ます。玉座に腰を下ろしている自分。人間たちの教会であれば女神の像があるであろう場所。だがここフリージアでは違う。信徒たちは今はいない。神官であるリュグナーとリーニエの姿も。時刻は正午を回ったあたりか。思い出すのは午前中の謁見の件。
(リュグナーの奴……本当に自分の役目を分かってるのかしら……?)
三日後に控えているグラナト伯爵領との和平交渉。その使者としてリュグナーを抜擢したのだが、どうにもその目的を勘違いしているような節がある。はっきり言えば、私、いや魔族国家フリージアとしてはグラナト伯爵領と事を構える気は一切ない。向こうから手を出してくるようなら話は別だが、今のところはその気配もない。
(下手に藪をつつくようなことをすれば、人間どもがどんな動きをしてくるか読みづらくなるだけじゃない……)
先程リュグナーに言ったように、力押しなんて馬鹿のすること。現状維持こそが私たちにとって最も望ましい最善手。人間共の真意のほどはさておき、和睦の成立は実質こちら側の勝利なのだ。こちら以上に、あちら側から手を出す大義名分がなくなるのだから。だがリュグナーはもちろん、この国に住んでいる魔族はそれを本当の意味で理解していないのかもしれない。
(血の気が多いのはどうしても出てくるわね……
その手に天秤を持ちながら、そう内心で吐露する。そう、これは魔族の習性であり、性。私もその例外ではない。知らず好戦的に、血を求めてしまう。
(祝福、ね……よく言ったものだわ)
祝福。それがこの国における
次に多いのが『人間を傷つけてはならない』今の私にはもうない制限だが、魔族の中にはこの処置を行わなければならない者もいる。先の通り、人間を食べれなくとも傷つけてしまう本能を魔族は抱えているからだ。だがそれは魔族側からすれば人間に対する正当防衛の権利すら奪うことを意味する。それは平等を教義とするフリージアでは好ましくない。それ故にフリージアに入国したい、暮らしたい魔族は楽園という名の収容区で一月暮らすことを求められる。そこは魔族と罪を犯した人間が共に生活する小さな村。そこで人間を傷つけることなく生活することができた魔族はそのまま入国を認められる。それを守れなかった者、これから守る自信がない魔族は祝福を受けることができる。無論それを拒む者はそのまま放逐となる。人間もまたフリージアで罪を犯せば同様。本国からそこへ落ちることは楽園送りと揶揄されているらしい。それはともかく
(リーニエをつけておけば、とりあえずは大丈夫でしょうけど……)
リュグナーはどうにも私がグラナトを攻めようとしていると勘違いしている疑いがある。いや、リュグナーだけでなくここに住む魔族全てと言い換えてもいい。弱腰に見られても舐められるので、建前上は私もそう振舞っている部分はあるとはいえそのまま受け取ってもらっては困る。人間を欺くことには長けている私たちだが、自分たちが欺かれることには慣れていない弊害かもしれない。それを考慮した上でここ数年はリーニエと行動を共にさせている。あの子は神官らしさはなく、謀略や腹の探り合いとは無縁の魔族だがだからこそリュグナーとは相性がいい。お互いがお互いに足りない部分を補っているとでも言おうか。もっともリュグナー本人はそのプライドから認めようとはしないだろうが。本当は人間の神官、司祭を補佐につけたいのだがフリージアは魔族国家。魔族が人間と和平を結ぶことにこそ意味がある。そんなことを考えていると
「アウラ様、宜しいでしょうか」
ノックと共にそんな聞きなじみのある声が聞こえてくる。知らず、手に握っていたアクセサリを放しながら入室を許可する。同時に自分を切り替え、擬態する。この国の王であり、教主でもある存在へと。
「お休みでしたか……? であればまた出直して参りますが」
「構わないわ。で、何の用?」
「はい。定時報告になります。明日以降の裁判と祝福の日程ですが……」
私が寝起きであることを察したのか、そんな気遣いを見せる小柄な年老いた人間。ここフリージアにおいて、人間の持てる称号の中でも最上位にあたる司祭を司る存在。司祭はそのままいつものように明日以降の日程を伝えてくる。私にとっては何の代わり映えもない、いつもの日常。そこに幾ばくかの物足りなさを感じるのは私が魔族だからなのか、それとも。そんな中
「それと、ドラート殿の件です。調査したところ、やはり問題があるようです。魔族側に有利な判断ばかりを下していると」
普段とは違う、毛色の違う案件が報告される。もっとも自分にとっては厄介ごとでしかないのだが。
「そう……最近の若い奴は血の気が多くて駄目ね」
頬杖を突き、溜息を吐きながらそう吐き捨てる。思わず国王、教主としての態度も崩してしまう。だが仕方がない。この報告は初めてではないのだから。ドラートは最近神官の地位にまで登ってきた若手の魔族。能力的には神官に申し分なく、将来的にはリーニエとリュグナーの配下にと抜擢したのだがまだ早すぎたらしい。この国の教義に忠実であることが神官に求められる資質。もっともそれが魔族にとっては最も難しいことなのだが。
「いいわ……神官の地位を剝奪しなさい。しばらくは様子見ね」
「分かりました。しかし、やはり若いというのは特権ですな。これから成長できるということでもありますし」
羨ましい限りです、とこっちの苦労も知らずに口にしている司祭もどき。今までの態度は何だったのか、と思ってしまうほどの変わりっぷり。
「ふぅん……で? もう司祭ごっこは終わりってわけ、シュトロ?」
「いえいえ……先に教主ごっこを辞めてしまわれたのは姉さんでしょう?」
売り言葉に買い言葉。司祭、シュトロはどこか楽し気にそう言い返してくる。信徒が聞けば卒倒するような私への口の利き方。もっとも私からしても看過できないことなのだが、先に口実を与えてしまったのは事実。
「……まあ、いいわ。聞かなかったことにしてあげる。それにしても若者の特権、ねぇ……スカート捲りばかりしていたクソガキが偉くなったものね」
「はて……何のことですかな? 最近年を取ったせいか、物忘れが多くて困りますな」
「前言撤回……小賢しさばかり覚えたただの老いぼれね」
身に覚えがないとばかりにとぼけているかつての悪戯小僧。小賢しさ、という点では未だに成長していると言ってもいいかもしれない。これでも司祭として尊敬されているというのだから筋金入りだ。聞くところによると休日には麦わら帽子を被って農作業に勤しんでいるらしい。フリージアで一番人生を謳歌しているのはこいつかもしれない。
「ほっほ……耳が痛いですな。しかし姉さんはいつまで経っても美しいままですな。羨ましい限りです」
「……世辞は良いわ。それで? 報告は終わり?」
「そうですな……ああ、そうそう。教義の内容への意見が複数。『酒は百薬の長』の部分についての見直しについての嘆願が来ておりますな」
「……知らないわよ。どうせあの生臭坊主の趣味でしょ」
死ぬほどどうでもいい内容の嘆願に辟易するしかない。一体あの生臭坊主は教義を何だと思っているのか。一応借りがあるので手を付けていなかったが、これ以上文句が出るようなら削除してやって良いかもしれない。
「違いありません。ああ、そういえばこれを。先日村から届きましてな。姉さんも好きだと思って持ってきたのです」
「? 何よこれ?」
閑話休題。シュトロはそう言いながら大きな包みをこちらに差し出してくる。首をかしげながらもそのまま受け取った瞬間、その正体を察する。何故ならそれは自分にとっては馴染み深い物だったのだから。
「リンゴね……相変わらず馬鹿みたいに送ってくるわね」
「姉さんの好物であることは皆知っておりますから。たまには遊びに来てほしいと手紙にも書かれておりました」
「そう……ま、気が向いたらね」
そう言いながら赤い果実をその手に持つ。毎年手にする、八十年前から変わらない物。シュトロの言葉を借りれば私の姿も変わっていない。時間の流れの違いなのだろう。
「そういえば、もう一つお伝えしたいことが。村からの手紙に書かれていたのですが……」
そうシュトロが思い出したかのように何かを報告しようとした瞬間
「あ! やっぱりリンゴだ! 二人だけでずるい!」
勢いよく開かれた扉と共に騒がしい乱入者が姿を現す。神官でありながらその威厳は全くない、法衣ではない洋装、コルセットドレスを身に纏った魔族の少女、リーニエ。
「……五月蠅いわね。別に内緒にしてたわけじゃないわ。ほら、好きにしなさい」
「本当? ありがとうアウラ様!」
勘違いしたのか、頬を膨らませているリーニエに手に持っていたリンゴを放って渡す。それだけで機嫌が直ったのか。リーニエは目を輝かせながらそのままリンゴに齧りついている。同じくリンゴが好物である自分でもどうかと思う有様。どうしてこうなってしまったのか。育て方を致命的に間違えてしまった気がする。いや、そもそも子育てなんて概念は私にはない。よってこれはあの
「こらこら、食べ方がはしたないですよリーニエ」
「何だよ、うるさいな。シュトロの癖に生意気。私の方がお姉さんなんだぞ」
「それはどうでしょう。少なくとも他人が見れば私の方が随分年上でしょうな」
「ただ老いぼれただけじゃない。いいよ、今度あんたにスカート捲られたってリリーに言いつけてやるから」
「そ、それは勘弁してもらいたい。そもそもあれはもう時効でですな……」
痛いところを突かれたのか、さっきまでの小賢しさは消え去り結構本気で焦っているシュトロ。私よりリーニエの方がシュトロには強いのかもしれない。小さい頃から共に過ごしてきた二人は人間で言う兄妹にあたるのかもしれない。もっともどっちが年上かは議論の余地があるようだが。しかし
「あ、そういえば聞いてアウラ様! 私、もうヒンメルよりも年上になったんだよ?」
そうリーニエが口にした瞬間、空気が一瞬固まった。私だけではない、シュトロもまた同じ。その理由もまた同じ。もっともシュトロのことだ。またいらない気遣いをしているのだろう。リーニエには悪意はない。魔族だからではなく、リーニエだからこそ。魔族でありながら、人間を欺くことなく生きてきた異端中の異端。
「そう……良かったわね。ならもう少しお淑やかにすることね。じゃないとヒンメルみたいになるわよ」
呆れながらそう忠告する。久しぶりにその名を口にした気がする。特に理由はなかった。ただ口にする機会が減っただけ。それだけのはず。本人が聞いたら言い返してくること間違いなしの言葉。
「ヒンメル様が聞いたら怒られますよ、姉さん。しかしこうしていると昔を思い出しますな」
「? そう? ちょっと前のことじゃない。ヒンメルといいシュトロといい、人間は老いぼれるのが早いんだから。あの時だって――」
こっちの空気を察したのか、まるで当たり前のようにこちらに合わせてくるシュトロ。それに気づくことなく平常運転のリーニエ。どこか懐かしい空気。ここにあいつがいればどう返しただろうか。そう思った瞬間
「――――楽しそうなお話ね。私も混ぜてもらっていいかしら?」
そんな、この場にはあり得ない女性の声が響き渡った。
「――――」
瞬間、空気が凍り付く。先程とは全く違う。命のやり取りの中でしか生まれ得ない緊張感。魔族としての本能。その証拠にリーニエはその手にあったリンゴを放り捨て、既に剣を構えている。シュトロも既にその場から私たちの後ろへと退がっている。動いていないのは私だけ。それは知っていたから。目の前の存在に対して動いても無駄だということを。
それは女性だった。水色の長い髪に、特徴的な垂れた目をした女性。柔和な雰囲気と同時に見る者を魅了してしまうような妖艶さを併せ持っている矛盾。甘い蜜のような香りを纏った存在。だが彼女は人間ではなかった。その証拠にその額には二本の角がある。彼女が魔族である証。だが彼女には他の魔族のように二つ名がなかった。何故なら彼女を知る人間はこの世にはいないのだから。
『無名』
それが彼女を現すに足る言葉。出会ってきた人間全てを葬り去ってきた大魔族にのみ許されるもの。
「――久しぶりね、アウラ。二十年振りかしら?」
それがアウラと『無名』の大魔族ソリテールの二十年ぶりの再会だった――――