勇者ヒンメルの死から二十年後。中央諸国聖都シュトラール郊外。
「やっと眠ったわね……」
溜息を吐きながら椅子に腰かける。いつもとは違う、懐かしい疲労感がある。きっと目の前の光景もその理由だろう。見慣れたテーブルの上に置かれている、温かいミルクが注がれている私のコップ。それだけではない。私と向かい合うように座っている奴の方が問題だった。
「お疲れ様です。アウラ。フェルンが面倒をかけて申し訳ありません」
そこにはいつもと変わらぬハイターの姿があった。ヒンメルが死んで、教典をもらった時以来なのでおよそ二十年振りか。人間ならとっくに死んでいてもおかしくない歳だというのに。酒は百薬の長だのなんだのぬかしていたが、それが嘘ではなくなりつつある。それとも女神の寵愛か。ようするにこいつは変わらないのだろう。年老いても見間違えることはない。
「あの子は問題じゃないわ。問題はリーニエの方ね。興奮して中々寝付かないんだから。どっちが子供か分かったものじゃないわ」
ミルクを口につけながら一息つく。目下手を焼いている二人の子供について。一人は小さな女の子であるフェルン。ハイターが拾って育てていると聞いた時には驚いたものだ。一体何を考えているのか。気紛れで拾ってくるにしては大きすぎる。猫や犬では、ましてや魔族でもないというのに。ヒンメルではないのだから。
だがその子、フェルンも変わった子だった。端的に言えば子供らしくなかった。礼儀正しく、まるで大人のように振舞っている。遊びたい盛りだろうに。同じ年頃だった頃のシュトロやリリーとは似ても似つかない。
なので手を焼いているのはリーニエの方だった。生きた年月で言えば比べ物にならないはずなのに、あの子の方が落ち着きがない。どころかフリージアにいる時よりも悪化している。この別荘が懐かしいのもあるだろうが、何よりもフェルンが原因だ。どうやら叶えることができていなかったお姉ちゃん願望が再発してしまったらしい。その真似事ばかりしてフェルンを振り回している。今ようやくそれを収めて、二人を寝かしてきたところ。こちらの苦労も知らないで二人で仲良くベッドの布団に包まっている。まるでリーニエが幼かった頃に戻ってしまったかのよう。
「はっはっはっ、流石はお母さんですね。国王になってからも育児は大変そうで何よりです」
「生臭坊主」
そんな私の姿の何が面白かったのか。上機嫌にこちらを煽ってくる生臭坊主。こいつも相変わらずいい性格をしている。私をお母さん扱いしてくる奴なんてこいつぐらいだろう。今の私は魔族であり、国王。見ようによっては魔王だというのに。
「しかし本当に感謝しているのですよ。こんなに楽しそうにしているフェルンを見るのは初めてですから。きっとお姉さんとお母さんができたみたいで喜んでいるのでしょう」
「私はお母さんじゃないわよ」
フェルンは普通の子供のように感情豊かではないが、こいつがそう言うのならそうなのだろう。ある意味私たちはフェルンを騙していることになるのかもしれない。
(本物の魔族はこうじゃないって教えておかなきゃいけないわね……)
それは魔族についての正しい知識、認識だ。リーニエだけでなく、私も含めて私たちは魔族の例外なのだから。教典の改定にここを訪れただけだったのだが、あの子がいるのは計算外だった。すぐに離れようとしたのだが、リーニエがあの子を猫可愛がりし始めてしまい、ハイターの勧めもあり滞在することに。苦肉の策として魔族の振りをすることにしたのだが、リーニエがいる以上、それも焼け石に水だった。結局花畑を出す魔法を見せた時からあきらめて擬態を止めている。魔法は教えることはできないが、それだけは教えておかなくては。この子の命に係わる。この子のお母さんではなくとも。
「そうですね。ですが、きっとこの子にとってはそうではないのでしょう。フェルンは南側の戦災孤児ですから」
「……そうね。酷い有様だったわ」
その言葉によって記憶が蘇る。魔族にとっては当たり前の、人間にとっては愚かな戦場の光景。南側諸国の戦乱。フェルンはその戦災孤児だ。表向きはそれは収まっているが、その爪痕はまだ残っている。噂では大魔法使いのエルフが裏で暗躍していたらしいが真偽のほどは定かではない。結果は何も変わりはしないのだから。
「そういうあんたも他人のことは言えないじゃない。進んで人助けするなんて柄じゃないでしょ。何であの子を拾ったのよ。ヒンメルならそうしたからってわけ?」
今更の質問をハイターに告げる。そう、こいつらしくもない。勇者一行で僧侶であってもこいつは進んで人助けをするような奴ではなかった。戦災孤児を支援することはあっても、自分で育てようとするなんて。きっと魔が差したのだろう。ヒンメルならそうしたという、こいつらの真似事が。
「本当に貴方には敵いませんね。そうですね。きっかけはそうだったのかもしれません。ですが、後になって気づいたのです。本当は寂しかったのだと」
「寂しい? あんたが?」
だがそれだけではなかったらしい。その答えに思わず目を丸くしてしまう。何故ならそれはおよそハイターとは無縁の言葉だったのだから。寂しいなんて、ある意味ヒンメルよりも似合わない。いつも飄々として大笑いばかりしているこいつが。
「ええ。貴方たちと一緒に過ごした日々が恋しくなってしまったのかもしれません。誰かと一緒にいたいと。年を取ると人間はそう思ってしまうんです。
まるで懺悔するように、なのにどこか穏やかにハイターは告白してくる。その瞳で私を見つめながら。まるであの時のように。きっと私達と一緒に聖都で暮らしていた時のことを思い出しているのだろう。あの時も、それが楽しかったのだと漏らしていたが。嘘ではなかったということか。本当にこいつは嘘つきだ。魔族よりも嘘をつくのが上手いなんて何の取り柄にもならないだろうに。
ご丁寧に利用なんて魔族に分かるような言い方まで。そんなことしなくても私には伝わると分かってるくせに。本当に小癪な奴だ。
「頼りにしているって言わないとリーニエに怒られるわよ。アイゼンにもね。フェルンもあんたを頼りにしてるんだからお互い様ね」
「違いありません」
なのでそのまま返してやることにする。同じ勇者一行でありお父さんの真似事をしているアイゼンの言葉を。人間にも分かる言葉で。それがハイターとフェルンの関係なのだろう。私とリーニエのようなものだ。何も気にする必要なんてない。それが通じたのか。ハイターはいつものように苦笑いしている。いい気味だ。
「そういう貴方はどうなのですか? 少し疲れているように見えますが」
「……どうかしらね。やることが山積みなだけよ。老い先短いあんたに心配されることじゃないわ」
やはりこいつには敵わない。目ざとい奴だ。ヒンメルの親友だけはある。疲れている、か。そうなのかもしれない。こいつにそう見えるのなら。いや、退屈なのか。飽きてきているのか。まだまだやることは山積みだというのに。矛盾している。それを思わず漏らしてしまいそうになるが蓋をする。腐っても神父なのだろう。いや、今は元神父か。何にせよ、こいつ相手に今更懺悔するほど私は暇ではない。
「これは失礼。ですが思ってしまうのです。やはりあの時、私も貴方と一緒に行くべきだったのではないかと」
「……らしくないこと言うわね。余計なお世話よ。あんたには教典作りを頼んでるじゃない。それ以上何をする気なのよ」
だというのに、こいつにとってはそうではないのだろう。これでは立場があべこべだ。私にここでも神官の真似事をさせる気なのか。こいつの懺悔なんてお断りだというのに。本当にらしくない。
あの時というのは、私が国を作りたいと言った時のことだろう。それにこいつは付いてこようとした。それを後悔しているのだろう。余計なお世話でしかない。あれは私が断ったのだから。こいつには何の罪もない。天秤を使うまでもない。むしろそれで良かったのだ。だからこそこいつはフェルンを
「大体あんたは誰かのために何かをする奴じゃないでしょ。あんたはヒンメルじゃないわ。魔王様を倒したのだって、天国で贅沢三昧するためだって言ってたくせに」
そもそもが間違っている。ハイターはハイターだ。ヒンメルではない。いくら真似してもあいつにはなれっこない。今の私のように。私には言う資格がないこと。でもこいつはそれでいいのだ。ヒンメルとは違う形でも、こいつは間違いなく世界を救った勇者一行なのだから。
「そうでしたね。すっかり忘れていました。あなたにそれを教えられるとは。やはり貴方はお母さんですね」
一度目を丸くした後、まるで本当に忘れてしまっていたことを思い出したかのようにハイターは笑っている。本当に人間というのは忘れる生き物だ。年を取ると余計にそうなのだろう。なのにいらないことばかり覚えている。都合のいい奴だ。そう呆れるも今度はこっちが面食らってしまう。何故なら
「何のつもりよ?」
「おや、お気に召しませんでしたか。褒めているのですが」
私の頭に、手が置かれていたから。それだけではない。そのまま撫でまわされてしまう。思わずされるがままになってしまう。呆気に取られてしまったのもあるが、それだけではない。その感触、温かさ。それを思い出してしまったから。
「……私はリーニエじゃないわよ。それに私がお母さんなら褒められるのはあんたじゃない。中身は子供のままでしょ」
いつのまにか私の後ろにやってきて好き放題しているハイター。それにそう言い返す。そう、これでは子供同然だ。リーニエですら嫌がるだろう。あの子が小さい頃は同じようにされて、飴をもらっていたが。散々私をお母さん扱いしているくせに。中身は子供のままなのだろう。格好をつけて大人の振りをしているだけのくせに。
「はっはっはっ、何でもお見通しですね。やはり貴方は貴方のままです。ですがご心配なく。私は天国で女神様に褒めてもらいますので。こっちでは私が褒めてあげましょう」
何が嬉しかったのか。ハイターはさらに上機嫌になっている。それがこいつの素なのだ。フェルンを前にした時とは違う、私の知っているもう一人の友達の姿。そいつはどうやら天国で女神に褒めてもらえると思い込んでいるらしい。おめでたい奴だ。そもそもそれと私を褒めることに何の関係があるのか。
「止めなさい。鬱陶しいわ。会ったこともない奴に褒められて何が嬉しいのよ」
「失敬。そういえばこれはヒンメルの特権でしたね」
いい加減鬱陶しくなってきたのでその手を払いのける。こんなところをあの子たちに見られでもしたら敵わない。こいつもこいつだ。会ったこともない女神に褒められて何が嬉しいのか。迷惑でしかない。それにハイターもまたふざけたことを言ってくる。何が特権だ。そんなもの与えた覚えはない。ほしいのならあの老害にでも頼めばいい。欲しがるのはヒンメルぐらいだろうが。そんな私をどこか楽し気に見つめながら
「────アウラ。きっと天国ではヒンメルが褒めてくれますよ」
これまでで、一番の世迷言をハイターは告げてくる。嘘なんてものじゃない。今は亡き勇者の夢ですら霞んでしまいそうな夢物語を。
「────馬鹿じゃないの。
それに心底呆れながら言い返す。いつものように。そもそも前提からして成り立っていない。天国なんて物、私はおろか、こいつ自身が信じていないだろうに。仮にあったとしても、魔族がそこにいけるわけもないだろうに。
「心配いりません。私が女神様に話を通しておきます。女神様もきっと聞いてくださるはずです」
「そう。いい迷惑ね」
微笑みながら生臭坊主は約束してくる。女神への伝言を。頼んでもいないというのに。物好きな奴だ。こんなやつに寵愛を与えているなんて、女神の奴もこいつに騙されてしまっているのだろう。
そのまま何とはなしに、二人で夜空を見上げる。どちらからでもなく。流星は流れていない。それでも、それは綺麗な星空だった────