「お待ちしておりました。どうぞこちらに」
頭を下げ、礼を示されながら自分たちは迎えられる。そこに違和感はない。堂に入った作法。その所作は人間そのものだ。いや、並の人間なら超えている。だがその頭にある二本の角が、それを否定していた。紛れもなくマハトが魔族である証明。
そのまま自分たちは建物へと案内される。かつてのグリュック邸。自分にとっては慣れ親しんだ、懐かしい場所。だがその主は今はいない。不在のまま。それでも記憶と変わらぬままあり続けている。半世紀経っているというのに。違うのは眩い黄金となってしまっていること。まるでそう、時間が止まってしまっているかのように。
「…………」
それをどう感じているのか。フリーレンは無言のまま自分の後に続いている。同じようにフェルンとシュタルクの姿もある。二人はどこか緊張した面持ちだが、フリーレンは全くの無表情。感情が見て取れない。黄金郷に入った時からそれが顕著になった。それがきっとフリーレンの、葬送の魔法使いの顔なのだろう。どこか冷徹な刃物を感じさせる空気がある。この場に限っては前を歩いているマハトよりも、そちらの方が自分にとっては脅威を感じるほどに。
「どうぞ。冷めない内に。茶器などは黄金に変えないようにしているのです。グリュック様がお好きでしたから」
応接室に案内され、ソファに腰かけた自分たちにマハトは紅茶を振舞ってくる。言葉通り、茶器は黄金ではない。それはつまり、マハトは黄金に変えるものとそうでないものを選ぶことができる、もしくは元に戻せるということ。自分にとっての微かな希望。あとはそれが物だけではなく、人間にも可能であるかを確かめる。それがこの交渉の全てでもある。
だがそれとは関係なく、その紅茶の味によって郷愁に誘われる。それはグリュック様が、その奥方が生前愛飲されていた物。妻も好きだったものだ。マハトに淹れられたそれを、儂は小さい頃から飲んでいた。それが変わらずここにある。まるで黄金郷のように。いや、自分にとっては理想郷なのか。
「それで今日はどういったご用件で? どうやらご友人、彼女たちに関係があるようですが」
その夢から覚めるように、マハトがそう尋ねてくる。当然の疑問だろう。いつもは儂一人でやってくるというのに、今日は三人も来訪者が増えているのだから。自分の友人だと言い含め、手出しをせず、丁重に扱うよう命じているがそれはただの口約束に過ぎない。支配の石環でもなければ、服従の魔法でもない。それにマハトが従っているのはただの気紛れに過ぎない。できるのはそれを利用することだけ。
「葬送のフリーレンとその仲間だ。魔王を倒した勇者一行の魔法使い。お前も知っているはずだ」
偽ることなくその正体をマハトに告げる。彼女がかつて魔王を倒した伝説の魔法使いであること。葬送の二つ名を持つほどに、魔族にすら恐れられる存在であることを。それは敵対行為に、宣戦布告に等しいもの。魔族であるマハトの元に、葬送のフリーレンを連れてくる。その瞬間、交渉など望むべくもなく戦いが始まってもおかしくない。にも関わらず
「なるほど、彼女が……これは失礼をしました。昔からデンケン様は勇者一行の冒険譚、特に魔法使いフリーレンに憧れておられましたね。感慨深いものです」
マハトは全く意に介すことなく、そんな的外れなことを口にしている。いや、それはマハトにとっては当然なのだ。それはつまり、マハトにとって葬送のフリーレンは脅威にすらなっていないということ。それよりも、幼い自分が憧れていた存在。その方がマハトにっては重要なのだ。分かってはいたが、目の前にすると心穏やかにはいられないだろう。
「…………やっぱり覚えていないんだね」
「何か?」
「何でもないよ。ただの独り言だ」
特にフリーレンにとっては。変わらず、およそ人間を見るような目ではない、獣を見るような視線のままフリーレンはそう零している。ここに来る前に、フリーレンがかつてマハトに挑み敗れたことは聞かされている。しかしそれすらマハトは覚えていない。マハトにとってはフリーレンすら数多く葬ってきた、退けてきた取るに足らない相手と同じなのだ。魔法使いとしてこれ以上にない、耐えがたい屈辱だろう。だがフリーレンは全く反応しない。ただ淡々とそれを確認している、いや観察している。まるで研究者のように。
「今日はいつもの話し合いではない。儂はお前と交渉するためにやってきた。帝国の宮廷魔法使いとして」
それを横目で確認しながらも本題に入ることにする。それがこの地に再び足を踏み入れた、愚かな薄情者の悪あがき。
「そのために彼女、フリーレンにこの場に来てもらった。儂の代わりにお前を見定めてもらうために。それが交渉の条件でもある」
それに付き合わせることになってしまったフリーレンには申し訳ないが、事ここに至って迷いはない。彼女に比べれば子供同然だろうが、それでもこの五十年。帝国で醜く愚かな政争を勝ち抜いてきた自負はある。問題があるとすれば
「交渉、ですか。興味深いですね。一体どのような?」
人間ではない、魔族を相手にするのは初めてだということ。そもそも魔族相手に話し合いなど無駄でしかない。それは分かり切っている。それもあってだろう。マハトはどこか楽し気にそれに答えてくる。かつてのように。マハトにとっては儂は未だに未熟な子供のままなのだろう。
「本当にいいの、デンケン?」
「無論だ。覚悟はできている」
だからこそ、フリーレンの力が頼りだ。歴史上最も多くの魔族を葬り去ってきた、最も魔族を理解している人類である彼女の力が。アウラもまたそれを知っているからこそ、交渉の条件にそれを指定してきたのだろう。フリーレンの最終確認に間を置かず答える。それはきっと好き勝手にするよ、という意思表示でもあるのだろう。構わない。元々薄氷の上を歩くに等しいものだ。できれば歩く前に壊すのは避けてくれることを願うしかない。
「そう。じゃあそうするかな。フリージアのことはどこまで伝えてるの?」
「それはまだ伝えてはいない。了承を得ていなかったからな」
「そこからか。面倒だね」
事前の情報共有が十分ではなかったのは否めないが仕方がない。フリージアの存在はいわば諸刃の剣でもある。それを前にすればマハトがどんな行動に出るかは読めない。封印があるとはいえ、不測の事態もあり得る。何よりもフリージアの、アウラの了承もなくそれをすれば、そもそも交渉が成立しなくなる可能性すらあった。
「フリージア……聞いたことがありませんね。最近できた国なのですか?」
「そうだ。まずそこは儂から説明しよう。少し長くなるが構わんな?」
「もちろんです。ぜひお聞かせください」
「…………」
マハトからすれば当然の疑問だろう。フリージアは建国からまだ三十年経っていない国だ。半世紀この地に封じられているマハトからすれば知る由もない。まずはその情報共有から。
「────それがかの国、魔族国家フリージアの成り立ちだ。巷では人類と魔族が共存する理想郷だと言われている。それを統治しているのがかつての七崩賢であり、断頭台と呼ばれていた、天秤のアウラだ」
どれだけの時間がかかったのか。要約せず、儂が知る限りの全てをマハトに明かす。何故ならこれは情報共有でありながら、情報戦でもあるのだから。いかにマハトの興味を引けるか。それがこの交渉の肝であり、最初の関門。いわば寄せ餌なのだ。黄金郷になってしまったヴァイゼよりも、理想郷であるフリージアの方が価値がある。獣の前に餌をぶら下げるようなもの。それに自分の愚かさを実感する。これではどっちが魔族か分かったものではない。
「…………」
そんな儂とマハトのやり取りを、フリーレンは無言のまま、ただ見つめている。間に何か訂正や補足をしてくるかと思ったがそれもなかった。あるのはどこか人間味のない、そう、まるで魔族のような無機質さ。その視線はマハトに向けられている。その一挙手一投足を見逃すまいと。獲物を狙っている捕食者のよう。
「なるほど。実に興味深い。まるで勇者一行の冒険譚のようですね」
それを感じていないはずがないだろうに。全く意に介することなく、マハトはそんなことを口にする。それは先程とも変わらない反応。
「まるで他人事だね。信じていないの?」
「率直に申し上げればその通りです。そのような国が存在するとはとても」
「おかしなことを言うね。お前は人類との共存を望んでるんでしょ? なのにそれを信じないなんて」
それを前にしてフリーレンがようやく口を開く。そう、まさに他人事だった。興味がないわけではないだろう。しかし本気にするまでもない。儂の話を信じていないのは明白だった。フリーレンはそれは矛盾なのだと突きつける。人類との共存を望んでいながら、そんな国は存在しないのだと言うのならそもそもが破綻している。だがそれは
「失礼を承知で申し上げるなら、あの女、いえ断頭台のアウラがそのようなことをするなど想像できないからです」
自分たちの想像とは違う、七崩賢であり、魔族であるマハトだからこそ抱く疑念だった。
「彼女と話したことはほとんどありませんが、それでも十分でした。彼女は魔族らしい魔族です。何も考えず、ただ本能に赴くままに人間を蹂躙する。およそ共存という思想からはかけ離れた存在でした」
一度目を閉じながら、どこか懐かしさと共に、蔑みを感じさせる様子でマハトは語る。それはマハトから見たアウラの姿だった。そこに嘘はない。直接会ったことのない、知らない自分とは違う。直接会ったことが、接したことがあるマハトだからこその、確かな実感。伝え聞く、魔王軍時代の断頭台のアウラの所業。それとも合致する。それは未だにフリージアを嘘だと信じない人間たちとなんら変わらない。だがこと魔族としてはそれが当たり前なのだろう。ただ考えることなく、本能のまま、食べるために人間を蹂躙する。それが魔族。だというのに
「まるで自分は違うとでも言いたげだね」
マハトはそれが愚かだと蔑んでいる。およそ魔族とは思えないような言動。それが引っかかったからなのだろう。フリーレンもそう切り込んでいく。それは否定でもある。お前もそうだろうと、フリーレンは暗に言っているのだ。
「少なくとも彼女とは比べるべくもないかと。そもそも私は本当に戦いが嫌いなのです。元々私は魔王軍の中でも穏健派で、共存の道を探してきましたから」
「どうだか。魔族は息をするように嘘をつくからね」
「なるほど。言い得て妙ですね。だとすればあなた方もあの女に騙されているだけなのでは?」
「…………」
それに動ずることなく、マハトはそのままそれを返してくる。魔族らしく。魔族は嘘つきだと。ならその国でもあるフリージアも嘘であると。覆しようもない論理。儂らがアウラに騙されている。その指摘に反論することができない。アウラの心の内は、誰にも分からないのだから。だというのに、共存を望んでいるというマハトに嘘がないことを自分たちは知っている。皮肉な状況。だからこそ、フリーレンも黙り込んでしまっている。もしかしたら何か思うところがあるのかもしれない。
「マハト」
「失礼しました。客人に対してあるまじき態度でした。謝罪を。ですがあの女の真意はともかく、かの国。フリージアが存在するのは間違いなさそうですね」
「どうしてそう思うの?」
「この状況そのものが答えです。わざわざそんな嘘をつくためにデンケン様がこんな場を用意するわけがありませんから」
「……そう。デンケンのこと、よく分かってるんだね」
「僭越ながら、私はデンケン様の魔法の指南役、師でもあります。幼い頃からお仕えしていましたから」
マハトを窘めるも、それにまた違う視点から答えてくる。それはマハトだからこそできる真実の見抜き方。儂のことを理解しているからこそ、信用しているからこそ至れる結論。いや、利用されているとも言えるか。それを喜ぶべきか否か。今の自分には分からない。ただ分かるのは、それに何かしらの意味をフリーレンが見出しているということ。
「それに服従の魔法の使い方に感心したからでもあります。そのような使い方があったとは。嘘にしてはできすぎています。アンデッドの群れを引き連れることにしか使っていませんでしたから。実に品がなかった」
心底そう思っているのだろう。魔族にも好悪、美醜の感覚はあるのか。マハトからしても、かつてのアウラの服従の魔法の使い方には思うところがあったらしい。操った者に永遠の服従を強い、その首を落として傀儡にする。マハトから見ればただのアンデッドの使役にか見えないのだろう。ある意味魔族らしい感覚。だからこそ自分が説明した今のアウラの、フリージアにおいて祝福と呼ばれる使われ方は目から鱗だったに違いない。同時にそれは儂の話に真実味を持たせてくれた。だとすれば最初からマハトはそれが分かっていたのに嘘をついていたということか。フリーレンの言葉を借りるなら息をするように。やはり魔族は嘘つきなのだろう。そんなマハトに
「それに関しては同意するよ。最低に趣味の悪い魔法だ、反吐が出る。偽物の黄金を作るしか能のない魔法と同じぐらいね」
「…………」
淡々と、それでもこれ以上にない悪意をもってフリーレンは言葉を放つ。マハトという魔法使い対する最大級の侮辱を。魔族にとって魔法は誇りだ。それを汚すことは、貶めることは許されない。ある意味人間以上に。その証拠にマハトは言葉を発することなく、そのままフリーレンと見つめ合っている。フリーレンもまた目を逸らすことはない。一触即発。今この瞬間にも戦闘が始まってもおかしくない。だがマハトは動かない。そのまま、まるで黄金に変えられてしまったように固まったまま。
「フリーレン」
「分かってるよ。私怨はここまでだ。これが交渉の内容だ」
見かねてそうフリーレンを窘める。どうやら冷静さを失っていたわけではないようだ。それが逆に恐ろしい。なら計算づくでの発言だったというのか。一歩間違えばその場で黄金に変えられてもおかしくなかったというのに。こちらの寿命が縮んでしまいかねない。
「────なるほど。そういうことですか。デンケン様が貴方を頼るのも分かります。魔族を見定めるのにこれ以上の者はいないでしょうから」
そのまま交渉内容が記された書状を読み終えたマハトはそう応じる。その視線がフリーレンを捉えている。ある意味それはこれ以上にない皮肉なのだろう。しかしそうではない。マハトには悪意がない。ただ本当にフリーレンがそれに相応しいと感じているのだろう。それを皮肉だと感じてしまうのは、自分たち人間が悪意を持っているからに他ならない。
「そうだね。いい迷惑だ。それはどうでもいい。交渉に応じる気があるのかないのか答えろ」
それに向かって、再びフリーレンは容赦なく突きつける。悪意のある言葉を。執拗に。そこには確かな嫌悪がある。フリーレンの魔族に対する確かな嫌悪、いや憎悪か。それが彼女の、葬送の心の内なのだろう。そもそも魔族との話し合い自体が彼女にとってはあり得ない、無駄なことなのだから。
「まるで脅しのようですね。交渉の使者とは思えない振る舞いかと」
「お前たち相手にそんなことをしても無駄だからね。動物が服を着るぐらい意味のないことだ」
逆に使者としての振る舞いを指摘されるも、全く意に介さないフリーレン。それは正しいのだろう。いや、勘違いし、間違っていたのは自分の方なのかもしれない。そう、自分たちは今、人間ではなく魔族と交渉しているのだ。人間と同じように対応しても意味はない。人殺しの訓練を受けた兵士が、魔族を相手にすれば全く通用しないように。常識が、前提がそもそも異なるのだ。故に
「なら単刀直入に聞くよ。悪意と罪悪感。それを知りたくないの?」
何の脈絡もなく唐突に、それでもはっきりと。フリーレンは自分たちにとっての切り札を晒した。
「それはどういう……」
「そのままの意味だよ。悪意と罪悪感。それがフリージアにはある。いや、それを知っている奴がいる」
それを前にして、僅かにマハトに変化が生じる。これまでには見られなかった物。それに間を置かず、考える暇を与えまいとするかのようにフリーレンは畳みかける。無慈悲に、機械的に。それは
「天秤のアウラ。あいつはそれを知っている。私が知る限り、人類に最も近い魔族だ」
マハトにとっては無視することができない事実。先の魔法使いとしてではない。魔族としてのマハトにとって。その目的、命題に対する答え。同時に侮辱でもある。それは少なからず儂にとっても驚きでもあった。
『人類に最も近い魔族』
それは恐らく葬送のフリーレンからの、魔族に対する最大級の賛辞でもあったのだから。噂はやはり本当だったのだろう。いやそれ以上か。本来魔族にとっては侮辱にあたるもの。それを持つ者とそれを欲する者。そのどちらもかつて魔王に認められた七崩賢である大魔族であったというのは皮肉でしかない。
「…………あり得ない。あの女にそんなことができるはずが」
「信じられないなら直接会って確かめればいい。あいつは嫌がるだろうけど、それは私の知ったことじゃないから」
それはマハトの擬態を暴くほどのものだったらしい。言葉遣いが完全になくなり、素になってしまっている。グリュック様に仕える者ではない、魔族としてのマハトの姿。フリーレンの言葉が真に迫っていたことに加え、天秤のアウラと、同じ魔族である存在と比べられてしまったのが許せないのだろう。それすらも計算の上だったのか。だとしたら未だに儂はフリーレンを侮ってしまっていたのかもしれない。普段の姿からは想像もできない。魔族を前にした、葬送の恐ろしさを。冒険譚を読むだけでは知り得ない、本物の姿。
「────実に面白い。なら私はさながら裁判にかけられた被告、ということですか。長く生きていますが、生まれて初めての経験です。ではお手柔らかにお願いします。フリーレン様」
それは僅かな時間だった。再び魔族らしく紳士的な態度で儂らを欺きながら、マハトはこれ以上にない笑みを浮かべる。まるで退屈しのぎを見つけたように。どこかグリュック様と共にいた頃を思い出させるような雰囲気を纏いながら。自分が寄せ餌に、撒き餌にかかってしまったことに気づけていないのだろう。
「私も同じかな。あいつの真似事をすることになるなんてね。本当に趣味が悪い。あと一つだけ。今度私を様付けで呼んだらそこで終わりだからね」
それをおくびにも出さずに、フリーレンもまたそれに応じる。マハトとは対照的に、心底嫌そうに。その脳裏にはきっと天秤の姿があるに違いない。この場にはいなくとも、この場を支配しているのは間違いなく彼女なのだから。
それが『葬送』が『黄金』を見定めるための問答の始まり。だがこの時の自分はまだ気づけていなかった。これは交渉ではなく、騙し合いなのだということを────