────死を恐れているつもりはなかった。
この支配の石環を着けたその時から。
知らない感情のためなら。共存のためなら。報いを受けるためなら。
死んでも良いとさえ考えていた。
なのに俺は無様に逃げ出した。他の魔族と何ら変わらない。醜態を晒している。いや、逃げ出す事すらできなかった。
油断したつもりはなかった。ただそれに目を奪われてしまった。ここにいると分かっていたはずなのに。どうして俺はそこへ向かっていたのか。魔族である自分に帰巣本能も、忠誠心もありはしないというのに。
(なら……これが報いなのか)
気がつけば、胸を貫かれていた。これほどまでの威力。恐らくは高圧縮されたゾルトラーク。致命傷だ。魔力の流出が収まらない。俺はもう助からない。
(これが、死か……)
恐れているつもりはなかったのに。恐怖に支配される。そこまで迫っている死によって。俺たちはそれから逃れるために生きてきた。みっともなく、生にしがみつき、命乞いという嘘をつきながら。ならそれに従うだけ。本能がそう告げている。
なのに俺は、それとは全く関係ない、無意味で、無駄なことをしている。生きるのに何の意味もないこと。物言わぬ、偽物の黄金と化した一人の人間の元に馳せ参じようとしている。何の中身も伴わない、理解していない。下らない真似事、習性でしかない。本物ではない偽物。確か、収斂進化だったか。
『人によく似たこの姿も、人と同じこの言葉も、まるで人のような振る舞いも。すべては人を欺き捕食するために獲得した、進化の証』
『どれだけ思考を巡らせようと、どれだけ異端で異常だろうと。私たちは魔族なのよ』
ああ、そうか。ようやく気づいた。俺たち魔族は、捕食者などではなかった。ただ人間に縋りつかなければ、寄生しなければ生きていけない、獣でしかなかったのだ。
そんな、少し考えれば分かるような答えにようやく辿り着いた瞬間
「…………マハトか」
聞き慣れた、どこか懐かしい声が聞こえてきた。たった五十年振りなのに、随分久しぶりな気がする。もう二度と聞くことはないはずの声。死の淵にいることで、幻聴が聞こえたのか。それともとうに気が狂ってしまったのか。どちらでも構わない。
もう一度、黄金ではないグリュックと再会することができたのだから。
「こちらに」
いつもと変わることなく、礼を尽くす。あの頃のように。魔族どころか、人間から見ても気が触れているに違いない。この死に体で、目の前のグリュックを騙すことに何の意味もないというのに。本当に習慣というのは恐ろしい。魔族の性なのかもしれない。
「その怪我は?」
「デンケン様です。かつてグリュック様が仰っていた通りでした。師として、打ち倒すべき敵として……それが私の報いだったようです」
突然黄金から解放されたからだろう。だというのに、全く動じている様子がない。相変わらず変わった奴だ。それに偽ることなく答える。俺にとっての報いの形を。もしかしたら、それすらもこいつの掌の上だったのだろうか。そう思えるほどに、出来すぎた結末。
「そうか。満足できたか、マハト?」
「どう思われますか?」
「君は変わらないな。昔と全く同じだ」
そう言いながら、自らもまた五十年前と全く変わっていない。まるでそう、いつものように二人で悪巧みをしていた時のように。それが悪いことかどうかは分からなかったが、こいつが楽しそうにしていたのは覚えている。
それにしても満足、か。分からない。俺は今、満足しているのか。ただ先程までとは違う。ただ死の暗闇に包まれていた、恐怖に支配されていた先程までとは。
「この状況……初めて君と出会った時とは真逆だな。命乞いはしないのかね?」
「……お戯れを」
「そうだな。それと敬語は必要ない。ここには私たちしかいないのだから」
懐かしい煙草の匂い。自らの肉体に害となる物を取り入れる、人間の理解できない嗜好。しかし不思議とそれが不快ではない。どころか心地よくすらある。俺にもそれが染み付いているのか。
そういえば、初めてこいつに会った時もそうだったか。死にかけていたこいつと、それを始末しようとしていた俺。これでは立場があべこべだ。魔族なら命乞いをすべき場面だ。それをこいつに教えられるとは。本当に変わった奴だ。五十年経っても、それは変わらない。
「探し物は見つけられたか?」
杖をつき、俺の隣に腰かけながら、煙草を吸いながらグリュックは問いかけてくる。あの時の約束。探し物。それを覚えていたのだろう。自分が黄金に変えられたというのに、次の瞬間また黄金にされてしまうかもしれないというのに。まるで世間話のように。
「いいや……結局見つからなかった。何も分からなかった。五十年かけても」
それに倣うように、仕える者への擬態もせず。ただありのまま答える。全てをぶち壊しても、全てを黄金に変えても、五十年をかけても、何一つ得ることができなかったのだと。全てが無価値だったと。
「君らしくもない。まだたった五十年だろう」
煙を吐きながら、どこか遠くを見ながらグリュックはそう口にする。俺らしくない、か。確かにそうかもしれない。俺たちには無駄にして余りあるほどの時間がある。そう思っていた。でも違うのだ。それでは、足りなかったのだ。
「フリージアという……国がある。魔族と人間が、共存している国が」
少し息がしにくくなってきた。傷の影響だろう。それでも続ける。ただこれまでのことを。独り言か。それを聞いてほしかったのか。
「俺はそこに行ってみたかった……そこなら、探し続けた、答えがあるかもしれないと」
そこに行きたかったのだ。ここではないどこかへ。次なら、次ならきっと。失敗を繰り返して、最後に答えに辿り着くために。あの女のように。目的は違えど、あいつもまた俺と同じだったのだ。答えを認められず、足掻いていた。それ以外の答えがあるのだと、誤魔化すように。
「葬送のフリーレンが言っていた……勇者が……アウラと共存できたのは、楽しかったからだと。俺には、それが理解できなかった」
その答えを、俺は理解できなかった。俺よりも早くそこに辿り着いた者たちの答え。悪意や罪悪感を知ることが、共存に辿り着くための答えだと思っていたのに。どうしてそんなことが答えになるのか。やはり魔族である俺には、理解できないことだったのか。
「勇者……勇者ヒンメルのことか。そういえば君と同じ、七崩賢を従えていると噂されていたな」
そんな俺の醜態を笑うこともなく、ただ淡々と聞きに徹しているグリュック。目が、見えなくなってきた。目を細めなければ、その姿が見えなくなりつつある。
「だが、楽しかったから、か。流石は勇者だ。恥ずかしげもなくそう言えるとは。悪人である私とは違うな」
しかし勇者の話題は、グリュックにとっても興味の湧くものだったらしい。どこか愉しげにそう漏らしている。いや、これは何かを隠しているのか。自分を悪人だと、そう振舞っている時の所作。
「しかし他人のことは言えんか。私も最期だと思って君に明かしてしまった。そのおかげで今、おめおめと醜態を晒しているわけだ」
「…………?」
誤魔化すように煙草を吸いながら、グリュックはそう締めくくってしまう。それに呆気に取られてしまう。まだ耳は聞こえている。それとも聞き違いだろうか。まるで勇者と自分が同じことをしてしまったかのようなことを。あまりにもこいつらしくない。悪人を演じているこいつとは対極のような人物だろうに。
「何を意外そうな顔をしている? それとも忘れてしまっているのか。私もそう言い残したはずだが」
だからこそ、俺は騙されてしまっていたのだ。この五十年ずっと。
『────楽しかったよ。マハト』
友人である、こいつの嘘偽りない本音を。
「…………そうか。俺はとっくに、お前と共存できていたのか」
笑い話だ。ずっと探し続けていた答えが、こんな道端に落ちていたなんて。気づくことができなかった自分はどれだけ愚かだったのか。悪意を、罪悪感を知らなければ、理解できなければ共存できない。それ自体が既に、間違っていたのだ。
「気づいていなかったのか。君らしくもない。私だけではない。君はヴァイゼの民とも共存を実現していた」
俺はそれを手に入れる前に、既にグリュックたちと共存できていたのだから。もしそれを五十年前に教えられても、俺は納得しなかっただろう。そう思えるのは、今だからこそ。失敗して、繰り返したからこそ。失敗にも価値がある。人間が口にする言葉の意味が、ようやく分かった。
俺にとってはこの黄金郷が、ヴァイゼこそが理想郷だったのだと。
「…………グリュック」
「何かね」
その名を呼ぶ。もう呼ぶことができないほどに、意識が遠のいていく。そんな中、脳裏に浮かんでくる。かつてフリーレンから教えられた、悪意を、罪悪感を知る方法。その機会が、それが目の前にある。それを前にして
「────俺も楽しかった。お前を黄金に変えて良かった」
そう嘘をつく。相手にではなく、魔族である自分に。自分のためではない嘘。
初めて自分の魔法が価値があると思えた。そのおかげで、こいつを手に掛けずに済んだのだから。
「────君は本当に嘘が下手になったな、マハト」
その言葉を聞き届けた後、黄金のマハトは消え去っていく。魔力の塵となって。無に還っていく。何も残ることはない、魔族の最期。だが、それは違っていた。
魔力の塵の中に、二つの物が遺されていた。一つは支配の石環。マハトにとっての偽りの忠誠の証。そしてもう一つは
「……本当に君らしくない最期だったよ、マハト」
最後まで手放すことがなかった、悪友が愛用していた茶器。
それが黄金の物語の終わり。最後の七崩賢が人類によって葬送された瞬間だった────