「…………」
ただ必死に布団に包まったまま、頬を叩く。時間はもう夜の十時を回っている。いつもならとっくに眠ってしまっている時間。でも今日は違う。夜更かしをするためにただ頑張っている。本当ならしてはいけない悪いこと。
(どうしてはハイター様はあんなことを……?)
夕食前にハイター様が言っていたことを思い出す。私に夜更かしをするように、悪い子になるように勧めてきたことを。分からない。どうしてそんなことを。でもハイター様は意味のないことはしない。ならきっと理由があるのだろう。子供の私には分からないものが。
なのでこうして頑張って夜更かししている。体を動かしてみたり、頬を叩いたり。こんなことならハイター様のコーヒーを少し分けて頂けばよかったかもしれない。
今は本を読んでいる真っ最中。ランタンの明かりだけなので読みにくいが、悪いことをしているみたいでどきどきしてしまう。その本の内容もその理由だった。
勇者一行の冒険譚。みんなが大好きな御伽噺。その登場人物であるハイター様にそれをよく聞かせてもらえる自分はきっと羨ましがられるに違いない。
でも今回は少し違っていた。私が気にしているのはその中で登場してくる悪者、魔族の方だ。嘘つきで、人間を食べてしまう怖いもの。それが今家に来ているお二人のこと。でも、お話の中で出てくる魔族とは全然違う。どうしてなのか。
「っ! いけない……!」
気づけばうとうとしかけてしまっていた。瞼が重くなってくる。少しでも気を抜いたらきっと朝になってしまうに違いない。どうして大人はこんなに夜遅くまで起きていられるのだろう。やっぱり大人はすごい。それに少しでも近づくために。何よりもハイター様の期待に応えるために。そう思い、顔を水で洗おうかと考えた時
ドアの向こうから、人の気配を感じた。いや、それは違う。きっと魔族の気配だった。
(あれは……アウラ様?)
足音を立てないように気を付けながら、恐る恐るドアの隙間から覗き込んでみる。そこにはアウラ様がいた。暗くてよく見えないが、それでも見間違えることはない。何よりもその魔力だけで十分だった。
アウラ様は初めてここに来られた時と同じように、ローブを纏っている。そのままアウラ様は出かけて行ってしまう。誰にも気づかれないまま。一体どこに行く気なのだろう。昼間はずっと部屋に籠られているのに。こんな夜更けに。それに興味が惹かれるも
(そうか……あれはそういうことだったのですね)
そこでようやくハイターが言っていたことの意味を悟る。そうか。ハイター様はアウラ様が夜に出かけられていることを知っていたのだ。それを私に教えたかった。そのために夜更かしをするように言ったのだ。でもそれだけではないのだろう。私に悪い子になるのを許してくれた。その意味。
急いで私も出かける準備をする。アウラ様の後を追うために。夜の暗さのせいもあって上手くいかないが、とりあえず準備はできた。少し迷いながらも杖も持って行くことにする。お守り代わりだ。夜の森に入って行くのはやっぱり怖い。でもこの杖があればきっと大丈夫。ハイター様が傍にいてくれるみたいに。そのハイター様はもう眠っておられるのだろうか。部屋の明かりはもう消えている。少し迷いながらも
「行ってきます。ハイター様」
自分にも聞こえないほど、小さな声であいさつしながら、初めて悪いことをするために夜の森へと向かうのだった────
(あの辺りでしょうか……)
そのまま魔力を、気配を消しながらアウラ様の後を追う。昼間とは全く違う、夜の森。知っているはずの道が違って見える。暗くて大きい、飲み込まれてしまいそうな感覚。風に揺れる木々の音が、怖い鳴き声に聞こえてくる。やっぱり杖を持って来て良かった。それを抱きしめながら進んでいく。
でもアウラ様の後を追いかけるのは簡単だった。だってそうだ。アウラ様のすごい魔力は、どんなに離れていてもすぐに分かる。きっと家にいても、森のどこにいるのかすぐに分かるほどに。魔力探知をする必要もない。私のように魔力を隠してもいない。なら、こんなにも急いで追いかけてくることもなかったのかもしれない。
それでも息を潜めながら、気を引き締めながらそこに近づいていく。まるでリーニエ様と一緒によくしていたかくれんぼのようだ。もっとも、隠れているのは私で、探しているのも私。
次第にそれが見えてくる。そこは森の少し開けた場所だった。そこにアウラ様は佇んでいた。音を立てないように気を付けながら、茂みに身を隠してそれを覗き見る。本当に悪い子になってしまった。本当に女神様も許してくれるのだろうか。そんな心配も、その光景を見て吹き飛んでしまった。それは
(あれは……魔力の鍛錬……?)
魔法使いとしての基礎。魔力の鍛錬だった。そうだ。少し考えれば分かることだ。魔族はみんな魔法使い。なら魔力の鍛錬をしたりするのも当たり前だ。リーニエ様も剣の鍛錬をされていた。でもそれは私のそれとは全く違っていた。
(凄い……)
同じ魔法使い、魔力のはずなのに、全然違う。魔力の大きさがではない。その魔力の流れが違う。未熟な私が見ても一目でわかる。このお方は普通の魔法使いではない。それにただ圧倒される。でもそれすらも、まだまだだった。
そのままアウラ様は手をかざす。誰もいない、ただ岩が並んでいる場所に向かって。それが何を意味するのか、理解する前にいくつもの光の矢が一瞬で岩を打ち抜いていく。寸分の狂いもなく、圧倒的な威力で。
(あれは……一般攻撃魔法……!?)
ただそれに目を奪われる。間違いない。あれは一般攻撃魔法だ。なのに同じ魔法とは思えない。私のそれとは打ち出す速さも、威力も比べ物にならない。どころかある種の美しさすら感じてしまうほどに、一般攻撃魔法を完璧に扱っている。アウラ様なら、一番岩なんて簡単に打ち抜けるに違いない。私よりも、ううん、きっと人間よりも遥か高みにいる魔法使い。それがアウラ様たち魔族なのだ。いや、アウラ様はその中でももっとすごい大魔族。すごく悪くて、怖い魔族。すごい魔法使いでもある。リーニエ様にそう教えてもらった、やっぱりそれは本当だったのだ。あの方は決して嘘をつかないのだから。
『フェルンもアウラ様に魔法を教えてもらえばいいのに』
それはリーニエ様に言われたこと。アウラ様に魔法を教えてもらえばいいのに、と。自分は教えるのが下手だからそうすればいい。自分も教えてもらったからと、まるでお母さんを自慢するようにリーニエ様は仰って下さった。でも私はそれができないでいた。でも、それでも。そう考えている間に、いつの間にかアウラ様は動きを止めていた。もう魔法の鍛錬は終わられたのだろうか。そう思いながら改めてそれを覗き込むも
「────」
その光景に目を奪われてしまった────
月明りに照らされながら、首に掛けられたアクセサリを握りしめたまま佇んでいるアウラ様の姿に。そこにはまるで心を奪われるような神聖さがある。女神様に祈りを捧げているような。
知らず息を飲んでしまう。逆光で、その顔は見えない。でも、悲しんでいる。何故か、そう思ってしまった。どこか寂し気な、悲しいもの。子供の私にも、それが感じ取れる。同時に、見てはいけないものを見てしまった。そんな後ろめたさ。
「────誰?」
そこで物音を立ててしまい、アウラ様に見つかってしまう。金縛りにあったように動けない。蛇に睨まれた蛙。魔族に睨まれた人間。リーニエ様が言っていたように殺されてしまうのではないか。そう思ってしまうほどの殺気。足がすくんで動くことができない。
「……あんた、こんなところで何してるの?」
でもそんな空気は、感覚はすぐに消えてしまう。まるで嘘だったかのように。思わず安堵してしまうほどに。張り詰めるような空気はもうない。隠れていたのが私だったからなのか。きっと魔物か何かだと思ったのだろう。でも、状況は全然良くない。私が盗み見していたのは本当なのだから。いけないことをしていた、悪い子でしかない。
「あの……それは……」
かつてのリーニエ様の気持ちが分かる気がした。言い訳を、嘘をつきたい気持ちが分かる。でもそれすらできない。できるのはただ黙り込むだけ。まるでリーニエ様の真似をするように。
「…………」
一度驚いた表情を見せながらも、すぐにいつもの冷たい表情になりながらその場を去っていくアウラ様。呆れてしまったのか。それともどうでもよかったのか。まるで何もなかったかのように、私を無視したまま行ってしまう。それを前にして、体が動いてしまった。自分でも分からない何かが、私を突き動かす。思い出したのは、いつかのハイター様の言葉。
『いつか、貴方の前にいい魔法使いが現れたら、その時は遠慮なく教えを請いなさい』
まるでそれが来るのが分かっているかのように、私に教えて下さった、予言のような約束。きっとそれが今なのだ。だからこそ、ハイター様は私をここに贈り出してくれた。なら。
ハイター様が信じているこのお方を信じてみたい。ハイター様ならきっとそうするに違いない。
「アウラ様……私に魔法を教えていただけませんか?」
勇気を出してそうお願いする。杖を握り締めたまま。自分に魔法を教えて欲しいと。まだ迷いはある。でもはっきりと、目を逸らさずに。
アウラ様はそんな私を、いつものようにただ淡々とそれを見つめている。息を飲みながら、それと向かい合う。さっきとは違う意味で、空気が重い。逃げ出したくなってしまう。それでも逃げ出さずに。杖を抱きしめながら。
「…………あんたは何で魔法を学びたいの? そんなに魔法が好きなわけ?」
「……え?」
その言葉に、思わず呆気に取られてしまった。自分から話しかけたのに。返事がしてもらえると思っていなかったから。そんなことを聞かれるなんて思っていなかったから。
どうして魔法を学びたいのかと。今の私にとって、一番難しいことを。どうしてそんなことをしているのか。そもそも魔法が好きなのか。アウラ様からすれば理解できないのだろう。子供の私がそんなことをしているのが。
私は魔法が好きなのか。それにすぐ好きだと答えられない。きっとそれはほどほどだからだ。他の魔法使いの方のように、私はきっと魔法が好きじゃないんだろう。それでもそれを選んだのはハイター様のためだ。あの方の力になりたい。期待に応えたい。何よりも
「────私はあの方に、ハイター様に恩返しがしたいのです」
私を救って下さったハイター様に恩返しがしたい。自分がいなくなっても、私は大丈夫だと、一人で生きていけるのだと。あの方が生きている内に見せてあげたい。ハイター様がそれを望んでいないのは分かっている。修行よりも、私にはもっと子供らしく遊んで欲しいと思っていることも。それでも。子供のような私の我儘。
そんな私にしか分からない、上手く言葉にできないことを答えてしまう。アウラ様にはきっと分からない、おかしな理由。そのせいだろう。
「……私は魔族よ。
少しの間の後、アウラ様はいつかと同じ答えを口にされる。魔族にそんなことはできない。人間とは違うと。ただそれだけ。そんな当たり前のこと。
そのままアウラ様は立ち去っていく。いつものように。振り返ることはない。やっぱり駄目だった。ハイター様のように上手くはいかない。せっかくハイター様に送り出してもらえたのに。
「…………」
できるのはただ子供っぽく服の裾を握り締めながら、うつむくことだけ。
夜の静けさの中、たった一人森に取り残されてしまった自分。まるでひとりぼっちになってしまったような、そんな心細さに押しつぶされそうになった時。
────瞬間、一面に青い花が咲き乱れた。
「――――」
ただ息を飲んだ。いや、呼吸を忘れてしまったのかもしれない。それほどに、その花々は美しかった。どこか幻想的な、全てを包み込んでしまうような温かさを感じる、青い花びらが舞う光景。まるで花の湖の中にいるかのような感覚。
「……綺麗」
知らずそう呟いていた。目を奪われていた。さっきまでの暗い気持ちも消え去ってしまっている。魔力光と月明りに照らされた辺り一面が、大きな花畑にまるで変わってしまった。まるで魔法のように。
生まれて初めて魔法が綺麗だと思った。魔法は私にとっては怖い物でもあった。戦争で人の命を奪うもの。攻撃魔法ばかり、一番岩を打ち抜くことばかりを考えていて、忘れてしまっていたこと。
魔法は楽しくて、人を喜ばせることができるものなのだ。ハイター様から聞かされた冒険のお話で聞かされた、魔法使いのように。下らなくて、楽しいこと。
「…………」
そこでようやく気付く。アウラ様が私を見ていることに。そうか。この魔法はアウラ様の魔法だったのか。でもどうしてこんなことを。ただの気紛れだったのか。もしかしたら、私を元気づけるためだったのか。
「…………アウラ様?」
でもそのアウラ様は、立ち尽くしたまま。固まってしまっている。私を見ているのに、私ではない誰かを見ているように。その表情は、今まで見たことがないものだった。悲しんでいるのか、喜んでいるのか。まるでそう、さっき胸にあるアクセサリを握られていた時と同じように。それがいつまで続いたのか。
「その魔法の本なら持ってるわ。貸してやるから自分で勝手に覚えなさい」
一度目を閉じた後、何もなかったかようにアウラ様はそう仰られる。それにただ呆然とするしかない。だってそうだ。初めてアウラ様に話しかけてもらえた。そう感じてしまう。
厳しい、冷たい言い方。でも違うのだ。それが今の私には分かる。それはきっと嘘なのだ。私に魔法を教えることができないから、そんな嘘をついている。
「────はい。ありがとうございます。アウラ様」
「
それがきっと、ハイター様が言っていた優しい嘘なのだ。自分も魔族なのに、私のためにそんな嘘をついてくれている。ハイター様が、この方に叱られて嬉しいと言っていた理由が、ちょっぴり分かった気がした。
知らず笑みを浮かべてしまいながら、そのまま頭を下げる。それを見ることなくアウラ様は今度こそ立ち去っていく。その後に、青い花畑を残したまま。
フェルンは知らなかった。目の前に咲き乱れている花の名が蒼月草であることを。かつて勇者が愛した花であることを。それが、その死後、二十年振りに開花したものであることを。
フェルンは知ることになる。自らがそれを託されたことの意味を────
作者です。
今話はこの章で一番描きたかったエピソードでもあります。ダイジェストではありますがそのアウラ視点が九十二話の「時間」になります。合わせて読んでもらうとより分かり易いかもしれません。それでは。