夕食の賑やかさが嘘のように静まり返った夜中。一人、テーブルの上に料理を並べる。料理と言っても手の込んだものではない。すぐにつまめるような簡単な物。いわゆるつまみだ。もう久しく用意したことがない物だったが、やはり忘れられないのだろう。体に染みついているのか。それに感慨を覚えながら、床下の保存庫から一本の瓶を取り出す。
それは酒瓶だった。酒を控えると決めてからほとんどのお酒を処分したが、どうしても捨てられなかった逸品。それとグラスを二つ並べるも、思わずごくりと喉が鳴ってしまう。我ながら情けない。こうして歳を取って、大人の振りをしてみてもやはり私は私なのだろう。これでは女神様にも叱られてしまう。いや、それよりもきっと早く
「おや、こんな時間に珍しいですね。アウラ」
いつものように、お母さんのような彼女に怒られてしまうに違いない。
「よく言うわよ。手口が昔と変わってないわね」
私の冗談に、いつものように呆れながらやってくるアウラ。その視線も表情も変わらない。それが見たくてこうしてからかっているのだから。やはり彼女はからかいがいがある。ついそうしてしまう。さっきとは違う意味でアウラを前にすると子供になってしまう。まるで悪友を前にしたかのような感覚。彼女もそれは同じなのだろう。昔のことを思い出しているに違いない。どうやらアウラも忘れてはいなかったようだ。
「失敬な。私はただ今夜はお酒でも飲みたい気分だと言っただけです」
「あっそう。いつもそうじゃない」
「これは一本取られましたな」
私なりの晩酌へのお誘いを。彼女がここで暮らしていた頃。晩酌に誘う際の合言葉のようなもの。夕食の際にそれを口にしたのだが、上手く伝わったようだ。流石だ。しかしやはり叱られてしまう。酒が飲みたいのはいつものことだろうと。全く頭が上がらない。やはりこうでなくてはいけない。
「フェルンたちはもう?」
「ええ。ようやく寝かしつけたわ。散々騒いでいたけどね」
「無理もありません。今日の夕食は豪華でしたから。久しぶりにアイゼンに会いたくなりましたよ」
「ならそうすればいいわ。もっともその有様じゃ片道だけになりそうだけど」
「これは手厳しい。まだまだ私は現役ですよ」
思わず笑ってしまいそうになるのを我慢する。そんなことをすればあの子たちが起きてしまいかねない。やはり彼女はお母さんだ。昔はリーニエだけだったが、今はフェルンも寝かしつけてくれている。
今日の夕食もそうだ。そのメニューはハンバーグだった。ただのハンバーグではない。アイゼン直伝の巨大ハンバーグ。戦士を労う、特別な日にしか食べない料理。今日は誰の誕生日でもないのに、アウラはそれを振舞ってくれた。きっと彼女にとっては今日は特別な日だったのだろう。その味も昔と変わらない。思わずアイゼンを思い出してしまうほどに。アイゼンならきっと罪な女だ、とでも口にするに違いない。
「それで……? これは何の茶番なわけ?」
「何のことですかな。私は久しぶりに貴方と晩酌をしたかったのですよ」
「ふぅん……まあそういうことにしておいてあげるわ。でも酒は止めたんじゃなかったの」
「だから貴方を誘ったのですよ。いつものをお願いしようと思いまして」
「……本当に小癪な奴ね、あんたは」
そう誤魔化しながらグラスに注いだお酒を彼女に向かって差し出す。それもまたお約束であり合図。それを見て思い出したのか、先程よりもさらに冷たい視線を浴びせてくるアウラ。それでも渋々それに応じてくれるのが彼女らしさだ。そのまま魔法によって私のお酒が生まれ変わる。アルコールを抜く魔法。彼女にとっては私への戒めであり、私にとっては彼女が私のために使ってくれる下らない、大切な魔法。
それを噛みしめながら乾杯、とグラスを交わす。いつぶりになるか分からない晩酌。アルコールが抜かれていても、やはりその味は極上だ。これだからお酒は止められない。私にとっては百薬の長だ。フェルンに教えてしまった唯一の嘘だが、その嘘を利用することは結局なかった。これからもそうだろう。だからこれは例外だ。このお酒が私にとっての秘蔵だったことだけではない。誰かと一緒に飲むこと。アウラがそれに付き合ってくれるからこそ、こんなにも美味いのだ。
「ですが懐かしいですね。こうしていると初めて貴方とお酒を飲み交わした夜を思い出します」
「そう。思い出したくもないわね」
「あの時は本当に生きた心地がしませんでした。まだ貴方が断頭台だった頃ですから」
「それはこっちの台詞よ。ヒンメルの奴を酔い潰して、私を始末しようとしていたくせに」
「はて。何のことでしょうか。歳を取ると忘れやすくなっていけませんね」
「生臭坊主。あんたは本当に変わらないわね」
「そんなことはありません。私も変わっていますよ。貴方には敵いませんが」
なので昔話に花が咲くのは人の常。もっとも彼女は魔族なのでそうではないのかもしれない。彼女にとってそれは最近のことなのだろう。フリーレンと同じように。長命種と短命種の違い。それでも私はそれを鮮明に覚えている。まるで昨日のことのように。それほどまでにアウラとの出会いは衝撃的だったのだから。
ヒンメルならやりかねない。そう思いはしたものの、どこに魔族と友達になりたいと思う人間がいるのか。しかもそれを実現させるのだから。やはり彼は勇者なのだ。天国に旅立つまで、それは変わることはなかった。いや、そうではない。変えられたのだろう。彼も私も。目の前の彼女によって。
「とりあえずはこれを。私なりにできることはしたつもりです。細かいところは貴方の友人と相談してください」
その雰囲気だけで酔ってしまいそうなので、忘れないうちにそれを手渡す。私にとっての約束を果たすもの。せめてもの罪滅ぼしでもある、一冊の教典を。あの日、彼女をそうさせてしまった私ができる、唯一のこと。
「忘れてなかったのね。安心したわ。本当にこのまま改定しない気かと思ったわ」
「本当はそうしたかったのですが、ヒンメルに怒られてしまいそうですからね。貴方を独り占めするなと」
「人を犬猫扱いするんじゃないわよ」
「おや、貴方は魔族でしょう?」
「口の減らない奴ね」
それを受け取りながら、いつものように返してくれるアウラ。その姿にいつかの光景が蘇る。聖都で彼女を預かった時に、それに焼きもちを焼いて度々その様子を見に来ていた親友の姿。きっと彼女が取られてしまいそうで心配だったのだろう。本当は私もそうしたかったが、止めておこう。そんなことをしたら、きっと天国で見ているヒンメルに嫉妬されてしまう。
「失礼。ですが本当に楽しかったのですよ。昔を思い出せましたから。それだけではありません。フェルンも喜んでいました」
これまでの賑やかで、あっという間だった一月を思い返す。楽しかった。その一言に尽きるだろう。フェルンと二人きりの静かで穏やかな日々に勝るとも劣らないもの。きっとフェルンにとってはそれよりも遥かに価値のある日々だったに違いない。物静かで、子供らしくない。必死に大人になろうと、振りをしているあの子があんなにも子供らしく振舞っていたのだから。まるでそう、かつてヒンメルがいた頃の何でもない日々が蘇ったかのように。
「それで? いいかげん本題に入りなさい。何が目的?」
きっと知らず物思いにふけっていたのだろう。酔わない酒を口にしながら、先程までとは違う鋭い視線を向けながら彼女は問うてくる。単刀直入に。無駄を嫌う彼女らしい。どうやら思い出話はここまで。これから過去ではなく、未来への話をしなければ。
「まずは謝罪を。先の失言のことです」
「失言……? 何のことよ」
一度目を閉じ、意識を切り替えながらそう謝罪する。だが本当に覚えがないのか。アウラはどこか呆気に取られている。いや訝しんでいるのか。何にせよ、彼女にとっては取るに足らない、些細なことだったのかもしれない。それでも
「貴方をフリーレンの代わりのように扱ってしまったことです。私も知らず、ヒンメルと同じ間違いを犯してしまっていました。貴方にとっては耐えがたいものだったでしょう。申し訳ありませんでした」
心からの謝罪を。本当にどれだけ経っても、年老いても私は未熟者なのだろう。こんな間違いを犯すとは。彼女にとってそれがどんな意味を持つのか。私には理解できていたはずなのに。これではヒンメルのことも言えないだろう。
「……ああ、そのこと。まだ気にしてたわけ? すっかり忘れてたわ」
それでようやく思い出したのか。それとも振りをしてくれているのか。私には見抜くことはできない。本当に彼女は嘘つきだからだ。ただの魔族の嘘なら見抜けるだろうが、彼女の嘘を見抜けるのは今はリーニエぐらいだろう。
「貴方らしいですね。そう言ってもらえると助かります。なのでそのまま耳を傾けてもらえれば。そうですね。これは私の懺悔のようなものです」
それに甘えながらもう一つのお願いをする。僧侶である自分の懺悔を聞いてほしいと。恥知らずもいいところの愚かなお願いを。勇者一行の仲間にもできない、アウラにしか頼めないこと。
「……私は女神じゃないわよ」
「そうですか? 聖都では女神様より信仰されていたようでしたが。フリージアでもそうなのでは?」
「そうね。お母さんよりはマシって程度にはね」
そこで女神様が出てくる時点で、彼女は本当に人類のことを理解してしまっているのだろう。人類をもっとも理解している魔族だろうか。そうさせてしまった私たちの功罪でもある。聖都だけではなく、フリージアでもそれは同じなのだろう。偽りの女神のように。いや、私たちにとってはどちらも大した違いはないのだろう。彼女にとってはお母さんの方が煩わしいようだが。
「私はフリーレンにフェルンの魔法の師匠になってもらおうと考えていたのです。いえ、弟子をとってもらおうとね」
彼女なりの返事と厚意に甘えながら吐露する。生臭坊主と揶揄されて当然の自分の行い懺悔を。フェルンのためでありながら、自分のためでもあるその愚行を。
「あの子には魔法の才能がある。きっとフリーレンならあの子を導いてくれると。ただ彼女は気紛れ、弟子を育てるようなタイプではないので、一計を案じる必要はあるでしょうが」
「謀ろうとしてたわけね。本当に性格が悪いわね、あんたは」
「はっはっはっ。誉め言葉として受け取っておきましょう」
彼女にはすぐに見抜かれてしまったのだろう。流石と言うしかない。私の手練手管を知っているだけはある。指摘された通り、私はフリーレンを謀るつもりだったのだから。フリーレンが素直にフェルンを弟子にしてくれるとは思えない。なら一時的にせよ彼女にフェルンの指導をお願いする状況を作り、なし崩し的に断れない状況に持って行くしかない。アウラにそうしたように。もっともアウラにはそんな私の浅はかな目論見は看破されてしまっていたので上手くはいかなかったのだが。
「それはさておき。一番の問題はフリーレンがいつやってくるか分からないことでした。彼女は渡り鳥ですから。明日来るかもしれませんし、五十年後かも知れない。何を隠そう、彼女とはヒンメルの葬儀の後、別れの挨拶を済ましていましてね。次に来るのが墓参りでもおかしくないのです」
「……本当に薄情な奴ね、あのエルフは」
「それが彼女の魅力なのだと、ヒンメルなら言うでしょうね。私もそう思います」
「揃いも揃って物好きな奴らよ、あんたたちは」
そのまま続けて告白する。いや、自白だろうか。今もどこで何をしているか分からない渡り鳥に思いを馳せながら。きっと変わらず巣に魔導書をため込んでいるのだろう。その習性を利用するために、ここの書斎にも魔導書をため込んでいたのだが、どうやら誘き寄せるには足りなかったらしい。
薄情。彼女を表わすのにこれほど的確な言葉はないだろう。ヒンメルもまた事あるごとにそれを口にしていた。懐かしむように、嬉しそうに。何よりもその言葉の意味を理解して口にしている魔族であるアウラ。それが彼女の魅力なのだろう。本当に罪な男だ。
「話が逸れましたね。だから本当に驚いたのですよ。そんな時に、貴方たちがここに来てくれたことに。女神様の思し召しではないかと」
「いい迷惑ね。私は私で勝手に来ただけよ。女神の奴とは何の関係もないわ」
「かもしれません。そのせいで、私も勘違いしてしまったのです。貴方なら、フリーレンの代わりになってくれるのではないかと。恥知らずにもね」
それは本当に女神様の思し召しだったのだろう。いや、アウラの気紛れと言い換えても良い。天啓にも似た何か。それに知らず自分もあてられ、浮かれてしまったのだろう。聖都の民が天秤に惹かれるように。縋るように。これでは信徒失格だ。女神様にも叱られてしまうに違いない。
「そう、勘違いだったのです。貴方はフリーレンではない。ましてやその代わりではない。アウラ。貴方だからこそ、それを託せるのではないかと。この一月の生活でそれが確信できました」
そんな当たり前のことに今更私は気づいたのだ。あまりにも近すぎて、彼女が寄り添ってくれていたからこそ。この一月の生活で。それがどんなに価値があることなのか。何もかもが新鮮で、煌めいて見えるほどに。
「アウラ……フェルンをお願いできませんか」
その瞳を見ながら、彼女に乞う。女神でもなく、魔族でもなく。ただの友人として。私らしくないこと。でもそうしてしまった。まるでかつてのヒンメルのように。今になってようやく分かった。どうしてヒンメルがそんなことをしてしまったのか。
「知っての通り、私はもう長くありません。私はあの子にこれ以上誰かを失うような経験をさせたくないのです」
自らの死期は悟っている。むしろ今までが恵まれていたのだ。なのに、少しでも時間が欲しいと不老の魔導書に縋ってしまうほどに、未練があった。ただ天秤に願う。あの子を託したいと。その国へと連れて行ってほしいと。人間も魔族も平等に生きることができるという楽園へと。ヒンメルの夢の果て。何よりもあの子に私の死を背負わせたくないのだと。
「……あんた、本気なわけ?」
「もちろんです。女神様に誓って。何なら天秤を使って確かめてもらっても構いません」
淡々と、どこか無機質に天秤は問いかけてくる。それに嘘偽りなく答える。本心であると。敬虔な信徒のように。女神ではなく、天秤に誓って。それに量られても構わない。
静寂。時間が止まったかのように感じるほどの。審判の時。咎人のように、ただその判決を待つも
「────お断りよ。魔族に人間の子供が育てられるわけないじゃない」
天秤によってその願いは却下されてしまう。魔族に人間の子供は育てられないと。そんな当たり前の理由。でも分かっていた。天秤がそう答えることを。それが半分本当で半分嘘であることを。天秤ならできただろう。例え真似事でも、あの子を育てることが。だがそれを良しとしなかった。何故なら。そう判決を受け入れんとするもそれは
「────ふふっ」
そんな魔族のような、妖艶な笑みを浮かべているアウラによって止められてしまう。
「アウラ……?」
思わずその光景に目を奪われてしまう。知らず息を飲み、背筋が寒くなるのを感じる。それほどまでに彼女の笑みは異様だった。どこか獲物を前にしたような、嗜虐を感じさせるもの。久しく見ていなかった彼女の姿。いや、自分は知っている。覚えている。それは
「嘘よ。簡単に騙されるんじゃないわよ」
かつて彼女が王都を訪問してきた時。彼女が天秤と呼ばれるようになったきっかけとなった裁判。その際に、初めて服従から解き放たれた時に見せたものと全く同じなのだと。
「あんたもそんな顔するのね。いい気味だわ。忘れたの? 私は
こちらを嘲笑うかのように彼女は告げる。それが天秤なのか断頭台なのか。判別がつかない。その瞳には確かな愉悦と煌めきがある。今までの彼女にはなかったもの。勇者に服従させられ、その死によって失われてしまっていた、失くしてしまっていた牙であり性。彼女が人でも女神でもない。魔族であることの証明。
「……それはどういう」
「そのままの意味よ。あんたの思惑に乗ってやってもいいって言ってるのよ」
分からない。彼女が何を言ってるのか。見抜くことができない。その嘘が。数えきれないほどに聞いてきた、見てきたはずの魔族の嘘に。その答えすら、本当なのか嘘なのか分からない。彼女が何を考えているのか。
「何よ。不満があるわけ?」
「いえ……こう言っては何ですが、断られてしまうとばかり思っていたものですから」
まるで囁くようにこちらを煽ってくるアウラ。それに圧倒されながらも、ただ思ったことを口にする。そう。およそ彼女らしくない答えに。お願いしながらも、本音では分かっていたのだ。断られてしまうのだと。人と魔族の違いを誰よりも理解している彼女だからこそ。何よりも、ヒンメルならそうしただろうから。ヒンメルならきっとフリーレンを信じるだろう。なら、アウラもそれに倣うのだろうと。だがそれは
「そうね……私もそう思ってたわ。少し前まではね」
どうやら私の読み違いだったらしい。いや、それは彼女にとっても同じなのか。チェスであるなら、私たち以外の番外の一手があったかのように。それが一体何なのか。それを確かめるよりも早く
「ただし一つだけ条件があるわ。取引よ、ハイター。それが飲めないならこの話はなしよ」
こちらを指差しながら、愉しそうに口元を釣り上げながら彼女は囁いてくる。かつて冤罪の被告にそうしたように。頭によぎるのは悪魔に魂を売るという言葉。この場合は悪魔ではなく魔族になるのか。なら対価を払わなければならないのだろう。だが彼女にとっては私の魂に価値などないだろう。
「条件、ですか。それは一体」
なら彼女は一体何を望んでいるのか。対価という名の条件。予想だにしていなかった展開に翻弄されながらも、冷静に状況を分析している、俯瞰している自分がいる。久しく忘れてしまっていた、勇者一行の僧侶としての自分。だがそれを以ってしても
「────ハイター。あんた、今ここで死になさい」
天秤であり、断頭台であるアウラからの死の宣告から逃れる術はなかった────