「────ハイター。あんた、今ここで死になさい」
まるでフリージアの裁判のように、そうハイターに命じる。もしこの手に天秤があれば、枷がなければその瞬間、こいつは自害してしまっただろう。女神の魔法で。いや、女神の奴がそれを許すわけもないか。だとすれば舌をかみ切るのか、刃物でその首を切るのか。久しぶりの緊張感。やはりこいつらとの関係はこうでなくてはいけない。ヒンメルに服従させられたばかりの、こいつと出会ったばかりの頃を思い出すような空気感。
「……いやはや。穏やかではありませんね。何故そんなことを。こんな年寄りを食べても美味しいとは思えませんが」
いつものように飄々としているが私の目は誤魔化せない。動揺している。それを悟られまいと振舞っている。欺いている。それでも冷静さを失っていない。年老いてもなお、やはりこいつは勇者一行の僧侶なのだろう。油断ならない。油断と慢心。それこそが魔族の悪癖。それによって私はかつてこいつらに敗れた。もう同じ轍を踏む気はない。
「こっちから願い下げね。誤魔化すんじゃないわよ。言葉通りの意味よ。あんたがここで死ぬなら、フェルンを連れて行ってやってもいいって言ってるの」
それを抑え込みながら再び告げる。取引の内容を。遠回しな言い方を好むこいつに倣って。
「あんたならもう察しはついてるんでしょ。ここで死んだ振りをしろって言ってるのよ」
もう察しているだろうに。それを口にしない生臭坊主に仕方なくその答えを明かす。嘘をつけ。欺けと。魔族のように何も考えず、息を吐くようにではない。明確な悪意を持って。
「何故そんなことを……」
「決まってるでしょ。あんたをフリージアに連れて行くためよ。元々はあんたが私に言ってきたこと。もう忘れたってわけ?」
「まさか……今でも覚えていますよ。女神様ではなく、貴方に仕える司教になるとね。結局貴方には断られてしまいましたが」
往生際が悪く白を切ろうとするハイターに釘を刺す。流石に言い逃れはできないと悟ったのか、それとも本当に忘れていたのか。かつての戯言を口にする。
そう。ヒンメルの死後。フリージアの建国を決意した私にこいつが告げてきた世迷言。こいつらしくない。好んで人助けをするような奴ではない癖に。その領分を、一線を越えたもの。少し考えれば分かるだろうに。勇者一行の僧侶が魔族の国に仕えるなど。断るのも当然だろう。だが
「それを撤回するわ。司教になる必要はないわ。それはシュトロの役目よ。あんたには教典科で働いてもらうわ。人手不足でね。猫の手も借りたいのよ」
今回はそれを利用させてもらう。私の手札に加えるために。あの時とは状況は変わった。建国当初に比べ、フリージアは徐々に安定しつつある。今更こいつに政治を頼るつもりはない。それ以外に利用価値はある。教典の作成や、法に関すること。それはフリージアにとって喉から手が出るほど欲しいものだ。しかしそれもまた、本命ではない。
「だからハイター。あんたは名前を捨てて死になさい。勇者一行であったことも、女神の司教であったことも。それができるなら、あんたの願いを叶えてやっていいわ」
それが死ぬということだ。生物としての生き死にではない。人間だけが持つ、社会的な死を意味するもの。その地位を、財産を捨てろということ。魔族であれば己の魔法を捨てるのと同義。それがこいつをフリージアに連れて行くための条件。いや、あの子を連れて行くための、願いの代価。
これはあの日の、王都での私の処遇を巡る裁判の再現なのだ。あの時は表向きは私の身柄を巡っての裁判だったが、その本質はヒンメルの処遇だった。今私たちが争っているのもそれだ。お互いに口には出さずとも分かっているのだ。これはあの子の未来を決めるためのものであることを。そして私にとっては
「────私に従いなさい。ハイター」
勇者一行の僧侶。ハイターを服従させるための戦い。かつての屈辱を晴らすためのものであるということ。
何の力も持たない、空の天秤を顕現させ突きつける。枷を嵌められている私にとっては何の意味もない行為。だからこそこれ以上にない、私の意思表示。
そう、今の私に魔法は必要ない。こいつらにそれが通用しないのは八十年前から思い知らされている。なら見せてやろう。こいつらが私に教え込んだもので。裁判という名のごっこ遊びを。私がこの八十年間、演じてきた、倣ってきた、本物に勝るとも劣らない偽物を。
命題は単純だ。フリーレンと私。どちらを選ぶのか。来るかも分からないフリーレンと目の前の私。どちらを取るのか。それを迫る。それは五分五分。私も結果は予想できない。ただの賭けだ。しかし私には切り札がある。それを覆し得る重りがある。だが
「……分かりました。貴方に従いましょう。アウラ」
それを乗せるまでもなく、秤は私の側に傾いた。ここに判決は下された。この瞬間、こいつは私に従う従者となったのだ。
「失礼しました。ならこれからは様付けしなくてはいけませんね」
「なら最初の命令ね。様付けは禁止よ」
「なるほど、残念です。破れば一週間口をきいてくれない刑でしょうか」
だというのに減らず口は変わらない。本当に自分の立場が分かっているのか。
「まさか私の戯言がここまで大事になってしまうとは……いやはや参りましたね」
本当に参っているのだろう。本人も戯言だと思っていたらしい。いい気味だ。自業自得でしかない。
「しかし驚かされました。まさかこんな暴挙に出るとは。貴方らしくもない。いえ、まるでかつての貴方のようです」
だがそれには同意するしかない。私自身もそう思っていたのだから。そのきっかけ、理由もまた下らないものでしかない。
「そうね……そういえば忘れてたわ。こんな物が書斎に隠してあったわ。ヒンメルの仕業ね」
「これは……」
そのまま無造作に、隠し持っていた日記を晒す。それが私の、ハイターの目論見を狂わせた盤外の一手だった。ようするに私もこいつも、ヒンメルに振り回される運命なのだ。同じあいつの友達として。種族は違っても、それは変わらないらしい。
「なるほど。ヒンメルらしいですね。気づきませんでした……貴方はこの日記をもう?」
「読んだわ。全部じゃないけどね。読むに堪えない物だったけど」
「そうですか。ならきっとヒンメルも天国で悶えているでしょうね」
少し目を通しただけで全てを察したのだろう。こういうところは勇者一行だ。空恐ろしさを感じるほど。例外はあのエルフぐらいか。違う意味でヒンメルも悶えているに違いない。
「それを読んで馬鹿らしくなったのよ。あいつの真似はもう止めるわ。それはリーニエに任せるわ」
それが理由だ。ヒンメルの真似をするのは一番弟子である、あの子の役目なのだから。それにいつまでも囚われていても、縛られていても仕方ない。服従の魔法を使う私が自分を服従させているなんて、笑い話にもならない。
「私は私のやりたいようにやるわ。魔族らしくね」
それが私の生き方だ。魔族らしく、その本能と性に逆らわず。支配し服従させる。私なりのやり方で。ヒンメルには、いいや、こいつらがしたくてもできなかったことを。私は勇者一行ではないのだから。これはその第一歩だ。そして
「だからハイター。あんたに命じるわ。フリージアであんたは見届けなさい。そしてそれをヒンメルに伝えなさい。それがあんたの役目よ。私の従者としてのね」
これが私の命令であり答え。あの夜。ヒンメルにもう一度会いたくないかと問うてきた、お人好しで人でなしの生臭坊主への。天国とやらを信じているのなら、自分で伝えればいい。言葉通り、見て届けろと。腐っても司教なのだから。そのためにこいつを利用してやろう。従者として。自分のお気に入りが取られて、女神の奴も悔しがるに違いない。
「本当に貴方には敵いませんね。魔法を使わずとも、私たちを従えることができるのですから」
一度大きく目を見開いた後、どこか安堵したかのように零すハイター。魔法を使わずに、か。確かにそうだ。それは魔族にはできない、私だからこそできること。奇しくもかつてこいつが口にしていた戯言でもある。嘘から出た真。偽物が本物になる。ヒンメルの願いの形。
「しかしそうなると、フェルンにどう説明したものですかね。実はフェルンにはまだ話していないのですよ」
「格好をつけてたわけね。ヒンメルならそうしたからかしら。らしくないことをするからこんな目に遭うのよ」
「あなたにそう言われては返す言葉もありませんね」
一段落し、ようやくそのことに気づいたのか。今度は違う意味でハイターは途方に暮れている。まさに自業自得だろう。ヒンメルの真似をして格好をつけるからだ。そもそもそれ自体が間違っている。こいつはヒンメルではないのだから。そんならしくないことをするから私に服従させられるのだ。もっとも
「その心配は必要ないわ……もういいわよ」
裁判が始まる前から、私が勝つことはもう決まっていたのだが。
「…………」
合図とともに、ゆっくりとまるで茂みからウサギがこちらを覗くかのように。その子は部屋にやってくる。縮こまりながら、罰が悪そうに俯きながら。まるで悪い子をしてしまった子供のように。この場合は夜更かしと盗み聞きだろうか。もっともそれを誑かした私も共犯なのだが。
「フェルン……? いつからそこに」
フェルンがそこにはいた。もう寝てしまっていたはずのフェルンが。さしものハイターも虚を突かれたのか。口を開けたまま固まってしまっている。出会ってから一度も見たことのないような情けない姿。
「最初からよ。あんたも焼きが回ったわね。どう? 自分が謀られる気分は?」
「……参りました。完敗です。私が生臭坊主と言われる理由がようやく分かった気がします」
「気づくのが八十年遅いわよ」
それに溜飲を下ろしながら、さらに煽る。今どんな気持ちかと。散々人を謀ってきた自分が謀られる気分は。魔族に騙される人間の気持ちをようやく理解したのだろう。こいつが私にフェルンを押し付けようとしていることは分かり切っていた。ならそれを利用させてもらった。ただそれだけ。何よりもこいつらは回りくどいのだ。無駄なことばかりしている。不合理に生きている。こんなにも相手の思惑を察せられる癖に。それを表に出そうとしない。
「フェルン。言いたいことがあるなら伝えなさい。言葉にしてね。嘘をつく必要はないわ。私の前ではね」
居たたまれなさから、服の裾を握りしめたままのフェルンにそう促す。命じる。態度や行動ではなく。贈り物や花言葉ではなく。自らの言葉で。嘘をつくための鳴き真似ではない。本来の役割のために。
「────私は、ハイター様と一緒にいたいです」
震えながら、それでもしっかりと。ハイターの目を見ながらフェルンはそれを口にする。昨日私が聞いたものと同じ言葉を。たったそれだけ。子供らしくない。大人の振りをし続けたこの子がする、たった一度だけの子供のような我儘。
「
たったそれだけだ。子供でも分かること。かつてヒンメルが私を拾ったように。そんなことのために、こんなに振り回されたのだ。一緒にいたいくせに、そうできないでいる。本当に人間は無駄なことばかりする。暇なのだろう。好きにすればいいだろうに。それが恥ずかしいから、格好をつける。本当にいい迷惑だ。
「……まさか私の方が面倒を見られることになるとは。やはり貴方はお母さんですね」
「私はお母さんじゃないわ」
フェルンならともかく、こんな老いぼれた子供なんてお断りだ。そもそもこいつに面倒を見られるつもりもない。私よりも先に死ぬくせに何を偉そうなことを言っているのか。
「格好悪くなってしまいましたが、仕方ありません。ではフェルン。一緒に行くとしましょう。
とうとう観念したのか。ハイターはその手でフェルンの頭を撫でながらそう告げる。散々こちらを振り回してくれたが、これで終わりではない。むしろこれからだろう。やることは山積みだ。
「はい。よろしくお願いします。アウラ様」
「そう。いい迷惑ね」
いつもの口癖を漏らしながら、アウラたちはそのまま晩酌を再開する。夜更かしをしたフェルンを加えながら。振りではなく、少しだけ大人になったお祝いのように────
余談だが。翌朝、自分を起こしてくれなかったことに拗ねるリーニエによって、フェルンたちは四苦八苦する羽目になるのだった────