「リュグナー、ちょっと待ってよ」
もう何個目になるのか分からないリンゴをかじりながら少女、リーニエは自分についてきている。だがその足取りはのんびりとしたもの。まるで散歩でもしているかのような気軽さ。
「リーニエ、我々は謁見の時間に遅れてしまっている。それを分かっているのですか」
「それはそうだけど。そんなに急いでも仕方ないよ。アウラ様も許してくれるって」
皮肉を込めた言葉もどこ吹く風。マイペースなリーニエの姿に呆れるしかない。大魔族であり、この国の主であるアウラ様に対する不敬とも取られかねない発言。神官である自分からすれば見逃すことはできないもの。だがその例外ともいえるのが目の前のリーニエ。
(いくら言っても無駄ではあるが……やはりアウラ様の寵愛を受けているのが大きいか)
もはやお約束となりつつあるリーニエとのやり取りをしながら改めてそう実感する。事実、この程度の遅刻であれば咎められはするだろうが、罰せられることはないだろう。そう、リーニエに限っては。寵愛、と言い換えてもいいほどリーニエはアウラ様に特別扱いされている。魔族の中では若輩でありながらもアウラ様の側近となれるほどの実力を持つ存在。しかし、それだけではない関係性が二人の間にはあった。
(信徒の中では親子ではと勘繰る者もいるが……やはりあり得ぬな。そもそも私達にはそんな感情はない)
家族。人間共にとっては重要な概念らしいが自分たち魔族にはそんなものは存在しない。子育ての習慣もなく、産み落とされればほとんどの時間を天涯孤独に過ごすのが当たり前。自分より上の魔族に従い、群れを形成することはあったとしても、本質的に個で完結している。
にもかかわらず、リーニエはそれを感じさせないような振る舞いを見せている。その行動原理はアウラ様に起因している。その在りようは人間で言う母を慕う娘のようだ、と言っている信徒は一人や二人ではない。
「? どうかした、リュグナー? リュグナーもリンゴ食べる?」
「いえ、遠慮します。ただ相変わらず変わっているなと思っただけです」
「そうかなー?」
見当違いの勘違いの結果、リンゴをこちらに差し出してくるリーニエに呆れるしかない。だが仕方ない。自分もアウラ様に仕え、リーニエと関わりだしてからまだ二十年足らず。対してリーニエはそれより前、アウラ様が人間共に隷属させられていた頃からの付き合い。生まれ落ちてから間もなく、生活を共にしていたらしい。人間のいう家族とは言わずとも、私たちが抱く忠誠とは違う感情があるのかもしれない。
曰く、生まれてから一度も人間を食べたことがない。
曰く、生まれてからずっと魔力を制限し、欺きながら生きている。
曰く、魔族でありながら勇者の名を冠する偽物の剣を振るっている。
『例外』のリーニエ。
それが彼女の二つ名。主であるアウラ様の『天秤』と対照的な呼び名。魔族はもちろん、人間から見ても異常な存在。
「リュグナー、さっきから何ぼーっとしてるの? もう着いちゃってるよ?」
「……ええ、分かっています。行きますよ、リーニエ」
知らず思考にふけってしまっていたのか。もう目の前には鐘の代わりに天秤が置かれている、巨大な教会を模した城。魔族国家フリージアにおける君主が君臨する場所。それを前にすることで無駄な思考を停止する。隣にいる魔族らしからぬ少女についても同じ。魔族にとっては強さが全て。それ以外は些事に過ぎない。リュグナーはそう自らに言い聞かせながら、謁見へと向かうのだった――――
そこは一種の異界だった。
人間が女神を信仰する教会を模した空間。それを示すように女神に祈りを捧げるための造りが、厳かさが満ちている。人間でいう神聖さ、というものがここには満ちているのだろう。だが魔族にとってはそうではない。
恐怖と支配。
そう形容してもいいほどの魔力がこの空間には満ちている。魔力を感知できるものであれば体が震え、膝をついてしまうほどの濃密な魔力が渦巻いている。自らに向けられたものではないと分かっていても息を飲んでしまう。魔族という生き物であれば避けられない本能。それを抑えながらその魔力の主へと視線を向ける。
そのお方は深紅のローブを纏い、玉座に君臨していた。何も知らない者が見れば、薄紫の髪をお下げにした小柄な女性にしか見えない容姿。人間と大きく違うのはローブによって隠れてしまっているものの、確かに存在する大きな二本の角。その胸元には国家の名を冠するフリージアの花のアクセサリ。ローブを頭から被っているにもかかわらず見て取れる気怠さ。同時に厳かさを内包している矛盾。
それがこの国の頂点にある大魔族、『天秤』のアウラの姿。
「アウラ様――」
すぐさま頭を垂れ、謁見に遅れてしまった非礼を詫びんとするも
「さっさと離せ! 俺は何もしてない! 嵌められたんだ!」
そんな雑音によって遮られてしまう。見ればそこには無様に後ろ手に縛られ、捕らえられてしまっている惨めな人間の男の姿。アウラ様に目を奪われていたため、視界に入っていなかったが、見ればそれだけではない。その場には何人かの神官と多くの信徒の姿。その光景によってようやく事態が飲み込めた。どうやら自分たちが謁見に遅れてしまったため、先に裁判が行われていたらしい。
(しかし、何度見ても理解ができない光景だな。こんなことに一体何の意味があるのか……)
務めて態度には出さないようにしながら裁判という名の茶番を眺める。魔族である自分からすれば理解できない、裁判という概念。人間共の定めた戒律を破った者を裁くためのもの。人間共にとっては重要な概念であるらしい。その証拠に神官も、信徒たちも、態度も表情も何もかも真剣そのもの。唯一の例外は隣にいるリーニエぐらいか。流石にリンゴをかじるのは控えているのか、それとももうなくなってしまったのか。その代わりにあくびをしているその自由さはある意味賞賛に値する。
そんな中、裁判は進行され捕まっている男の罪状が読み上げられていく。盗みに殺し。魔族にとっては日常茶飯事であり、何の感慨もわかない事柄の羅列だが人間の法に照らし合わせれば死罪を免れない罪の数々。どうやら人間の国の罪人がここに逃れてきたらしい。魔族の国であれば罪から逃れられると思ったのだろう。
(馬鹿な人間だ……大人しくしていれば良かったものを)
外の人間の国のことは分からないが、ここにいる限りアウラ様が定める教典に逆らわなければ捕まることなどなかっただろうに。本能を抑えきれない、という点においては人間も魔族も変わらないのだろう。しかし、それは許されない。
「……それでぇ? お前は罪を認めるの? 認めないの?」
目の前の、文字通り天秤を持つあのお方の前では。
「……っ!? み、認めるわけがないだろう! 魔族の分際で人間を裁くつもりか!? 大体何の証拠もないのに裁判もくそもあるか!」
蛇に睨まれた蛙以下。頬杖を突きながらのアウラ様の言葉に反論できることだけはあの人間を賞賛すべきかもしれない。そのアウラ様を侮辱する言葉を前にして思わず手を出したい衝動に駆られるも寸でのところで押さえる。そう、この場を支配しているのはアウラ様。何人たりともそれを汚すことは許されない。リーニエに至ってはその手に剣を握っていたが、ギリギリ思いとどまったらしい。
見れば男はまだ罵詈雑言を撒き散らしている。魔族に従う必要はない、と。己の潔白を訴えながらその場にいる信徒たちを先導しようとするも誰一人それに耳を貸す者はいない。当然だ。信徒の半数は魔族。人間の言うことに耳を傾けるものなどいるはずもない。もう半分の人間たちもそれは同じ。何故なら
「そう……じゃあもういいわ。『私に従いなさい』」
人間たちにとっての神はアウラ様に他ならないのだから。
心底どうでもよさげな声と共に、アウラ様はその手にある物をかざす。それは天秤だった。見た目はどこにでもある天秤そのもの。だがそれは罪人にとっては断頭台に等しい呪具だった。
瞬間、男の胸元から光の玉が生まれ出る。それはその男の魂。本来見えるはずのない物が見えるのはアウラ様の持つ天秤、魔法の力によるもの。同じようにアウラ様の胸元からも魂が現れる。
『
それがアウラ様の操る魔法。その手に持つ服従の天秤に自身と相手の魂を載せ、魔力量が劣った相手を操る魔法。そこに例外はない。人間も魔族も。五百年を生きるアウラ様の魔力量を超える人間など存在するわけがない。魔族においてもそれは同じ。七崩賢の一人である大魔族のアウラの魔力量を超えるものなど片手を数えるほどしかない。それを示すように天秤はアウラ様の魂を載せた側に大きく傾いている。
かつてはそれにより、抵抗する者の首を落として傀儡としたことで不死の軍勢を率い人類に恐れられた。『断頭台』の二つ名で呼ばれた所以。だが現在においては違う意味においても人間、魔族にさえも恐れられている。何故なら
「命じるわ……『真実を話しなさい』」
天秤のアウラを前にすれば何人たりとも偽ることが許されないのだから。
瞬間、先程までの暴れっぷりが嘘だったかのように捕らわれた男は自らの罪を吐露していく。淡々と傀儡のように。だがその言葉は全て真実。客観的な証拠も、あやふやな他者の証言も必要ない。究極的にはこの裁判の流れすら必要ない。いわばこの裁判すら形式的なものでしかない。言わばこれはアウラ様の力と恐怖を知らしめるための儀式。
「ち、違う……俺は……」
まるで悪夢から覚めたように罪人はぶつぶつと言葉にならない独り言を呟いている。無様なことこの上ない。もっともこれからさらに醜悪な様を晒すことになるとも知らずに。あのまま傀儡であった方が幸せだったろう。
「……え?」
それは誰の声だったのか。罪人はそれが自身の声だと気づいていない。それも無理はない。何故なら唐突に罪人は解放されてしまったのだから。その証拠に縛られていた手は解かれ、自分を抑えていた神官たちはその場を離れていく。一体何故。罪人はただ目の前の状況に流されていく。奪われたはずの自我。それがあることの安堵。だがそれはすぐさま消え去ってしまう。
無造作に目の前に置かれた短剣によって。
「――――」
その時の罪人の姿はまさに道化だった。目の前に置かれた短剣。何故そんなものが自分に渡されたのか。同時にこれを使えば逃げられるかもしれない。そんな甘い思考。罪人が敬虔な信徒であったならその瞬間、気づけただろう。
「――『自害なさい』」
それがアウラ教における、死刑宣告であることに――――
「お疲れ様でした、アウラ様」
「遅れてごめんなさい、アウラ様。でもちゃんと神官として働いてたんだよ?」
褒めて褒めてと言わんばかりのリーニエを横目に改めて首を垂れる。この場にはアウラ様と自分、リーニエしかいない。他の神官や信徒たちは罪人の後始末をした後、退室していった。もう神官として振舞う必要はないことに若干の安堵を感じる。欺くことが常である魔族の自分であっても、神官を演じるというのは思いのほか気を遣ってしまうらしい。
「そう。おかげでこっちは予定にない裁判をする羽目になったわ。いい迷惑」
もう必要ないとばかりに被っていたフードを外すアウラ様。その言葉通り、普段以上に気怠げな姿に内心緊張するも肝心のリーニエには全く皮肉が通じていないのか上機嫌になっている。
「もういいわぁ……それで? 謁見するほどの用って何なのかしら、リュグナー?」
そんなリーニエの様子に毒気を抜かれたのか、それとも呆れたのか。恐らくはその両方だろうと察するのも束の間。その矛先は自分へと向けられる。その眼光がつまらない用事なら許さないと告げている。知らず背中に悪寒が走る。側近とはいえ、対応を誤ればただでは済まない。そう察するに余りある重圧。
「はい。グラナト伯爵領との和平交渉の件です。三日後、私とリーニエが和睦の使者として向かう予定で宜しかったのでしょうか?」
それを感じ取りながらも平静を装いながら口を開く。それは先日アウラ様によって下された命令。隣接する敵国でもあるグラナト伯爵領と和平交渉を行うというもの。それ自体は大きな問題ではない。勇者の死後、魔族や魔物が活発に動くようになり、人間たちの住む北側の諸外国が疲弊し苦慮しているのは周知の事実。
「そうよ。何か問題がある?」
「いえ、ただ……本当に和睦に応じられるおつもりですか? 人間共を欺き、虚を突く好機では……と」
一拍置きながらそう進言する。そう、それは紛れもない好機だった。表立って我が国は他の国と敵対はしていないが、人間たちが魔族の国など認めるわけがない。その証拠に常にその兵力はこちらに向けられている。本格的な戦闘には至ってはいないが、小さないざこざは絶えない。こちらから侵攻していないのもあるが、グラナト伯爵領にはかつての大魔法使いであるフランメの張った防護結界が張り巡らされている。それがある限り、魔族である自分たちが攻め入ることができないでいた。しかし、それを打開できる機会が訪れた。
「私たちが使者を偽り、結界を解除すれば可能です。先日のスパイの件もあり、向こうはこちらには強く出られないはず……」
リーニエはともかく、自分であれば使者として人間を欺き、結界を解除する術を手にすることも難しくないはず。加えて先日、人間側のスパイがこちらに侵入しているのが発見されたばかりでもある。だがその時の対応こそがまさにアウラ様の深謀遠慮だった。
(まさかここまで見越しておられたとは……)
先の裁判同様、スパイはアウラ様の
それらの情報を得た後、スパイの人間は先程の罪人同様処刑される。当然の流れ。だがそれは違った。あろうことかアウラ様はそのままスパイを放免されてしまった。さらに自由意思を残したまま。さしもの私も二重の意味で呆気にとられるしかなかった。その後間もなく、グラナト側から和平交渉の話が持ち上がったことによって。
アウラ様は仰った。無理に攻め入る必要などない、と。現状を維持するだけで人間たちは勝手にこちらに擦り寄ってくると。人口の半分が人間であるこの国を攻めるには相手には大義名分がない。かといってこちらに攻め入ってくるほどの戦力の余力もない。人間の国同士の縄張り争いもある。それ以上に人間は忘れる生き物だ、と。勇者の死後、人々が徐々にその存在を忘れていくように。魔族の恐ろしささえその例外ではない。
「力押しなんて馬鹿のすることよ? 私たちがどうして言葉を話すか忘れたの? 人間を欺くためよ」
いつかと同じ言葉が告げられる。私たち魔族を象徴するような台詞。
「出過ぎた発言でした。お許し下さい、アウラ様」
心の底から信望を捧げながら謝罪する。人間を欺くことにかけてこの方の右に出るものは魔族にもいないに違いない。アウラ様にとっては屈辱以外の何物でもなく、侮辱にあたるのだろうが魔族の誰よりも人間と時間を共にしたアウラ様だからこその策略。その復讐と雪辱を晴らすために。長寿であることこそ自分たちの武器。
「……もっとも、力押しでも負ける気は毛頭ないけど。言うまでもないけど、先走って余計な事をしないように。いいわね?」
「仰せのままに、勇者がいない人間共など何の脅威にもなりません」
「そうそう。リュグナーは難しく考えすぎだよ?」
リーニエの言葉に賛同するわけではないが、自分は人間共を過大評価していたのかもしれない。かつて魔王様が滅ぼされたのは勇者とその一行の力があったからこそ。それが失われた今、過度に人間を警戒することこそ人間たちの思う壺ともいえるだろう。
「――――ええ、もう勇者はいない、私を止められる人間なんていないわ」
淡々と、それ以外には意味はないとばかりに告げるアウラ様の姿に、魔族の王の器を見る。このお方に仕え、研鑽し、力となることが魔族としての自分の本能であり、リーニエにはできないであろう役割。
リュグナーはその名の通り、人間を欺くことを画策しながら謁見の間を後にする。リーニエもまた、何かを思い出したかのように腰にある剣を見つめながら去っていく。
誰もいなくなった城。その玉座の上で。
「――――ヒンメルはもういないじゃない」
ぽつりと、誰にも聞こえることない独り言が響き渡った――――