第一話 「無知」
勇者ヒンメルの死から二十四年後。
中央諸国グレーゼ森林。
(確か、このあたりのはずだけど……)
記憶を頼りに山の中を彷徨っている。もう半日ほどだろうか。たった八十年前でも、やはり一度しか訪れたことのない森の中を探すのは骨だ。わざと人里、道から離れた場所から進んでいるのもある。
もしかしたら、らしくなく、焦っているのもあるかもしれない。飛行魔法を使ってここまでやってきたのも。普段なら魔力の消費を気にして行わないこと。よほどの緊急時でもなければ。いや、今がまさにそれなのだろう。
(クヴァールの封印がどうなっているのか……確かめないと)
それは行商人から聞かされた話、噂だった。腐敗の賢老クヴァールが討伐された。他ならぬ私によって。それを聞かされるなんて何の冗談なのか。
行商人も直接確認したわけではない。人づてに聞いた話。本当に人間はこういう噂話が好きな種族だ。今でも魔王が復活しただの、勇者が魔族に篭絡されただのあり得ない噂話が溢れている。もう少し信憑性のある話にはならないのだろうか。それをいちいち気にしていたらキリがない。
だが今回はそうも言っていられない。あまりにもタイミングが良すぎる。本当にクヴァールの封印は解けかけているのだから。何よりも、どうして私が討伐したことになっているのか。本当にクヴァールの討伐が成し遂げられたのなら、それは称えられるべき偉業だ。誇ることはあれど、隠すことなどない。なのにそれを私のせいにしている。そんな嘘を流す意味がない。何のためにそんなことを。
それを確かめるために、クヴァールの封印場所へと向かっている。記憶を頼りに。本当なら、近くの村に寄っていくのが一番だろう。だがそれを避けていた。それはもう一つ。荒唐無稽だが、だからこそ無視できない噂を聞かされたから。ヒンメルについての。いや、それに連なる、最低に趣味の悪い夢物語。
(間違いない……ここだ)
その煩悶を切り捨てながら、ようやく辿り着く。開かれた森の一角。間違いない。八十年前と全く変わっていない。違うのは、そこに封印されていた、巨大な石像がなくなってしまっていることだけ。
(クヴァールはやっぱりいない。なら、封印が解かれたのは間違いない。問題はその後どうなったのか……)
何度もその周囲を探索するも、クヴァールの封印は見当たらない。移動させられたわけでもない。おかしな痕跡も見られない。だとすれば、封印が解けたのは間違いない。
問題は誰が封印を解いたのか。自然に解けてしまった可能性もあるが、なら討伐されたなんて噂を流すのは考えにくい。逆にクヴァールを討伐するために、封印が解かれたという噂を流し、討伐に動くだろう。魔力探知に反応はない。当たり前だ。噂が本当なら、クヴァールは数年前に封印から解き放たれているのだから。ここにいるはずもない。魔族どころか、魔物もこの周囲はいない。
なら、どうするべきか。クヴァールを探して討伐する。葬送として。でもどうやって。何の手掛かりもないのに。一人でどうやって。
(何やってるんだろう、私……)
その場に立ち尽くすしかない。何もかもが手遅れなのだ。間に合っていない。気づけていない。
ヒンメルが死んだ時から、何も変われていない。ハイターも、アイゼンも。
ついに、その約束すら守れなかった。
『クヴァールをどうするの? 今はいいけど、八十年もすれば封印が解けるよ。ヒンメルたちも老いぼれちゃってるだろうし』
クヴァールを封印した日の夜。ハイターは酔いつぶれ、その介抱にアイゼンが四苦八苦している。いつもの光景。村で感謝の祭りが行われていた最中。隣に腰かけていたヒンメルにそう問いかけたのを覚えている。
クヴァールは封印できたが、討伐できたわけではない。先延ばしにしただけだ。それを喜んでいる人たちの前で口にするほど私も薄情ではないが。八十年後にそれはまた巡ってくる。その頃にはヒンメルたちは老いぼれてしまっているだろう。なのにどうする気なのか。それに
『そうだね。でも心配ないよ。君がいるからね。この村を見捨てるほど薄情じゃないだろう?』
さも当然のように、自信満々に他人任せにするヒンメル。本当に自信家なのだろう。ご丁寧に私を薄情扱いしている。発破をかけているのだろう。本当に知った風なことを言う奴だ。出会った頃から全く変わらない。
『薄情で悪かったね。でも、私が負けたらどうするの?』
なので少し言い返してやる。そんなに私を頼りにしていいのかと。薄情者である私に。そんな私に
『そんなことはないさ。君は僕が知る中で、最高の魔法使いだからね』
いつかと同じように、いつもと同じように自信満々にヒンメルはそう答える。初めて会った時の誘い文句そのままに。子供のように。聞いているこっちが恥ずかしくなるような、格好をつけた勇者の言葉。
でもそれに私は応えることができなかった。期待を裏切ってしまった。その事実を前に、俯きかけた時。
「────もしや、フリーレン様ですか?」
そんな聞いたことのない女性の声が、背中越しにかけられた。
「……誰? 私のことを知ってるの?」
一度、目元を拭いながら振り返る。どうやら濡れてはいなかったらしい。その前で良かったと安堵すると同時に、警戒しながら向き合う。そこには小柄な老女がいた。見覚えはない。なのに、まるで私を見知っているかのような素振りがある。最近は勇者一行の魔法使いだと知っている者もほとんどなくなったというのに。それに
「はい。お待ちしておりました。小さい頃、勇者様一行がクヴァールを封印された時に村でお会いしました。その時は私も引っ込み思案で直接お話はできませんでしたが」
「そう……」
柔らかい笑みを浮かべながら答えてくれる。なるほど。それなら納得だ。それが本当ならまだこの女性も子供だったはず。気づけるはずもない。本当に人間は老いるのが早いのだから。若干警戒も緩める。問題はないだろう。魔力も感知できない。もっとも八十年でなくとも、覚えていたかどうかは分からないが。だがそれは
「でもこっちは憶えてらっしゃるかもしれません。貴方のスカートを捲った男の子のことです」
「スカート……?」
女性のそんな、一瞬固まってしまうような話によって覆されてしまう。恐らくは、あと百年経っても忘れることはできないであろう出来事。
「……あのクソガキのことだね。まだ生きてたんだ」
「そうです。あの時は夫のシュトロがご迷惑をおかけしました。私はリリーと言います」
クヴァールの封印後、私のスカートを捲ってきた麦わら帽子を被ったクソガキ。まさかまだ生きていたとは。何よりもそれを前にしたヒンメルの醜態の方が記憶に残っている。勇者が子供を殺してやると息巻いていたのは金輪際あの時だけだろう。何を考えていたのか。きっと同じ場面を思い出しているのだろう。女性、リリーも笑みを浮かべている。こうして人間と思い出話をするなんていつ以来だろうか。珍しいこともあるものだ。
「それで、リリーはどうしてこんなところにいるの? 私を待ってたって言ってたけど」
「はい。クヴァールの封印をフリーレン様が確認に来られるのをお待ちしておりました。と言っても、私はヒンメル様の真似をしていただけなのですが」
「ヒンメルの……?」
どうやらリリーは私がここに来るのを待っていたらしい。いや、きっと村人は皆そうだったのだろう。ずっと待たせてしまっていたことに後ろめたさを感じるも、思わず聞き返してしまう。ヒンメル、という言葉に。どうしてそこでヒンメルが出てくるのか。
「いつもクヴァールの封印が解けていないか、ここに確認に来られていたのです。何度も一緒に連れてきて下さりました。いい思い出です」
「そう。相変わらずお人好しだったんだね」
その理由も実にヒンメルらしいものだった。本当にお人好しなんだから。きっと何年かに一度は村の、クヴァールの封印の様子を見に来ていたのだろう。目に浮かぶようだ。だが
「ふふっ、そうですね。でも本当はフリーレン様が来ているか確認されていたんでしょう。よく楽しそうに薄情だと呟かれていました。それが良いのだとも」
「…………そう」
リリーの言葉によって、居たたまれなさの方が勝ってしまう。それはきっとリリーにとっては悪意のない、思い出話なのだろうが、私にとってはそうではない。今の私にとっては余計に。
「私の話はいいよ。それよりもクヴァールだ。討伐されたって聞いたけど、本当なの? 私がしたってことになってるみたいだけど」
それ以上深く考えているとまた引き籠ってしまいかねないので、強引に話題を変える。いや、そちらが本命だ。私がここにやってきた理由でもある。本当なら避けたかったのだが、村に情報収集に向かうしかないと思っていたところだ。幸いにも相手は一人。最悪の事態は避けられるはず。手間も省けた。目の前のリリーなら、事情を知らないなんてことはないだろう。
「……そうですか。やはり姉さんの言う通りでしたね」
「何のこと?」
「いえ、仰る通り、クヴァールが討伐されたというのは嘘なんです。姉さんの指示で、そういう噂を流せば、フリーレン様がやってくるだろうと」
しかしその答えは、私が想像していた以上に悪意に満ちたものだった。あの噂、嘘が他でもない、私を誘き寄せるためのものだったのだと。まるで撒き餌のように。それに思わず言葉を失う。まるでハイターのような手練手管だ。知らない間に掌の上で踊らされているような感覚。
「……まんまと誘き寄せられたってわけか。それで? そのお姉さんとやらがクヴァールを討伐したってこと?」
そのお姉さんとやらも、きっといい性格をしているに違いない。だがお姉さんか。リリーのお姉さんということは、さらに高齢なのか。言葉の節々から、そのお姉さんがクヴァールの封印をどうにかしたのだと感じ取れる。
なら魔法使いなのか。クヴァールを討伐できるとなれば、大魔法使いでもおかしくない。いや、一刻も早くクヴァールをどうにかしてほしくて、私を呼び寄せたのかもしれない。しかしそれは
「いいえ。姉さんは討伐ではなく、従わせました。流石にクヴァールが生きているのが知られると大変なので、村でも私と夫しか知りませんが」
「従わせた……? クヴァールを?」
大きな間違いであることを、ようやく理解した。話が、嚙み合っていない。根本から。前提から。まるでそう。魔族と会話をしているかのように。この場合、私とリリー。どちらが魔族になるのか。
討伐ではなく、従わせた。大魔族であるクヴァールを。あり得ない。それは討伐するよりも不可能なことだ。何故なら魔族は自分よりも魔力の大きい魔族にしか従わないのだから。人類にはできないこと。だとすれば
「……さっきから言ってるお姉さんって、誰のこと?」
まるで当たり前に言っている、リリーのお姉さんとは、一体誰のことなのか。
自分が冷たくなっていくのを感じ取る。内心とは裏腹に。冷徹と称される、私の本性。
「失礼しました。つい癖で……天秤のアウラのことです。フリーレン様にとっては断頭台の方が馴染み深いでしょうか」
それに気づくことなく、リリーは告げる。その名を。あり得ない、魔族の名を。気づけていない。それを姉と呼び、慕っていることの異常さを。だが私は知っている。それを為し得る力を、魔法をあいつは持っているのだから。
「フリーレン様……?」
リリーが私の名を呼んでいる。だがそれは私の耳にはもはや届いていなかった。私は私を作り替える。魔族によって呼ばれている、葬送の私へと。ただ魔族を殺すために魔法を貶めている卑怯者に。
その手に杖を持つ。魔力は既に通っている。その切っ先をリリーへと突きつける。無慈悲に、抵抗する間もなく。
「……え?」
葬送のフリーレンはそのまま、リリーへと不可避の魔法を解き放った────