勇者ヒンメルの死から二十四年後。
北側諸国グラナト伯爵領。
「待たせてすまなかったな、エーデル嬢。色々と立て込んでいてな」
扉を開け、客室に入室する。こうして長時間客人を待たせるなど、不敬なのだが致し方ない。それだけの案件。それ如何によってはこれからのグラナトの未来に関わってくること。慎重に動かざるを得ない。この領地を治める伯爵としての義務でもある。
「構わんよ、グラナト卿。こうしてもてなしてもらっているからの」
そんなこちらの事情を察しているのか。それとも肝が据わっているのか。そう言いながら客人、エーデル嬢は手に持っていた紅茶の淹れられたカップを下げる。テーブルにはこちらが用意したお菓子の数々。何よりも異質なのはその容姿だった。年の頃は十五、六ほどだろうか。まだ幼さが残る少女。それだけにその口調も目立つ。一見すれば、ここ伯爵家で客人扱いされるには不釣り合いな人物でしかない。
「しかし本当に敬語でなくてよいのか? 後で処刑されてはかなわんぞ」
「そんなことはせん。堅苦しい言葉遣いは無しとしよう。君は恩人なのだからな」
だが彼女はただの少女ではない。敬語についても自分の方から許した形。普通なら許されることではないのだが、ここは人目のない場所。それに加えて儂は、いやグラナトは彼女に恩がある。その方が彼女の心象も良くなるだろうという思惑もある。
それはここ最近起きた大きな出来事。グラナトとフリージアの間でのいざこざに端を発している。敵対国であり、魔族の国でもあるフリージア。その内情を探るために間諜、スパイを送り込んでいたのだが、それが先日、フリージア側に露見してしまったのだ。その時点で争いに、戦争になってもおかしくなかったのだが、フリージア側の反応はこちらの予想を覆すものだった。その間諜を生きたまま、こちらに返してきたのだ。
普通ならあり得ない行動。何らかの罠だとしか思えないもの。フリージアを支配する大魔族、天秤のアウラの服従の魔法であれば、間諜を操ることなど造作もない。いつ裏切り、反旗を翻すか分からない。その対応に苦慮していたのだが、それを払ってくれたのは目の前の少女、エーデルだ。
「重ねて礼を言う。おかげで部下の無実を証明できた。感謝する」
改めて、グラナトを治める伯爵として礼を取る。エーデルは魔法使いであり。精神操作魔法を生業としている一族。大陸魔法協会の三級魔法使いでもある。今回の件についての助力を魔法協会に求めたものの、返事は芳しくなかった。それは今回に限ったものではない。魔法協会は恐らくフリージアと表立って敵対する気がないのだろう。それでも思うところはあったのか。こうしてエーデル嬢を派遣してくれた形。初めはその容姿に面食らってしまったが、その実力は確かだった。
精神魔法で服従させられているかもしれない相手の記憶を読むこと。それがアウラに服従させられた人間の無実を証明する、唯一の方法だ。服従の魔法は支配した相手の記憶を操ることすらできるが、記憶自体を消せるわけではない。第三者であれば、それを読み取ることができる。それが魔法協会でのアウラへの対抗策。流石は魔法協会なだけはあるのだろう。自分たちにはできない発想だ。
エーデル嬢はそんな精神魔法の使い手の中でも優秀なのだろう。あっという間に、送り返されてきた部下の無実を証明してくれた。同時に、フリージアが無事に危害を加えることなく間諜を解放したということすら。そういった意味では課題は山積なのだがそれはそれ。
「それは喜ばしいことじゃ。これで依頼もこなせたということじゃな」
そう、喜ばしいことには違いない。間違いなく今回の件はこちら、グラナト側に非がある。それによって、最悪戦争が起こってもおかしくなかったのだから。だというのに、エーデル嬢には言葉とは裏腹に喜びが見られない。どこか淡々としている。まるでようやく仕事が終わった、もう役目を果たしたとばかりの空気。
「ああ。そのことなのだが……エーデル嬢。その依頼、もうしばらく延長することはできないだろうか」
それにあえて触れず、それでもできるだけ単刀直入に、そう切り出す。それこそが依頼を終えた彼女をこの場に待たせていた理由。これからのグラナトの未来のため。正確にはフリージアに対抗するために。
奴の使う魔法は相手を服従させ、意のままに操る魔法。断頭台よりも、天秤になった今の方が厄介だ。力押しだけであればまだこちらも団結できる。防護結界もある。しかしこちらを懐柔し、和睦を唆してくる今の奴らのやり方はまさに人間のそれだ。経済や宗教といったものすら利用してくる。そのせいで、こちらも二分されかねない状況になりつつある。
その最たるものが猜疑心だ。自分が知らず、アウラに操られているのではないかという疑念。それはまさに毒だ。やがては国として死に至るほどの。その呪いを解くことはできずとも、疑念を晴らすことができるのが目の前の魔法使いだ。ただでさえ、数が減っている魔法使いの中でもさらに希少な、精神魔法の使い手。グラナトからすれば喉から手が出るほど欲しい逸材。だが
「ふむ、やはりそうじゃろうな。残念じゃが、それはできぬ」
それはあっけなく断られてしまう。何の逡巡もなく。まるで最初からそう言われるのが分かっていた、決まっていたかのように。
「……やはり、大陸魔法協会がフリージアと不可侵条約を結んだというのは事実ということか」
だがそれはこちらも同じだった。それは最近流布されている噂。大陸魔法協会とフリージアが不可侵の条約を結んだとされるもの。公にはされていないものの、火のない所に煙は立たない。
大陸魔法協会は優秀な魔法使いを集めておきながら、その意思決定は大魔法使いゼーリエという人知を超えた存在に委ねられている。何を考えているか分からない節もある。全面的に人類の味方とするには怪しすぎる。
「さての。儂のような下っ端にはそんなことは分からぬ。知りたいのなら一級魔法使いの連中に尋ねるといい」
本当に知らないのか。どこかどうでもよさげにエーデル嬢はそんなことを口にしている。三級魔法使いである自分には与り知らぬことだと言わんばかり。一級魔法使いに聞けばいいと。確か、レルネンという老魔法使いがそうだったか。しかし馬鹿正直に問い質しても無駄だろう。それだけの老獪さを兼ね備えているのは感じ取れた。どうしたものかと思考を巡らせるも
「だが、それを抜きにしても儂はもうフリージアには関わらん」
「何故だ?」
それは見当違いであったことを思い知らされることになる。それは組織としてではなく、彼女個人の判断によるものだったのだから。しかしその理由が分からない。何か不敬が、気に障る対応があったか。それとも報酬が不十分だったか。しかしそれは
「恐ろしいからじゃよ。フリージアが、いや天秤のアウラがの。脅されてしまっての」
何よりも単純な、そして理解できない理由によるものだった。
「アウラに脅された? 君がか? 一体いつ……」
思わず顎に手を当てながら動揺するのを隠し切れない。それはエーデル嬢の口にした言葉によるもの。アウラに脅された。たったそれだけ。しかしそれがどういうことなのか、理解ができない。
まさかここに来る前に、アウラに脅されたとでもいうのか、あり得ない。本当にそうであるなら、今回の件は全て無意味になる。エーデルがアウラに操られてしまっているかもしれないのだから。いや、そもそも操られているのなら、それを覚えているのがおかしい。そんな儂の困惑を見かねたのか
「……そうじゃの。見た方が早いじゃろう。伯爵、儂と目を合わせてくれんか」
一度目を閉じ、どこかあきらめたようにエーデル嬢はその場を立ち上がりながらその瞳をこちらに向けてくる。その意味を介さぬまま、それに従うように目を合わせた瞬間、
見たこともない、自分ではない誰かの視界が目の前に広がった────
(これは……?)
どこか夢の中にいるような、不確かな感覚。自分ではない、誰かになってしまったような異物感。その証拠に、目の前には見たことのない景色が、映像が広がっている。そこはまるで教会だった。違うのは、十字架ではなく、天秤が掲げられているということだけ。
(そうか。これは他者の記憶……エーデル嬢の精神魔法か)
そこでようやく気付く。これが他者の、間諜を命じていた部下の記憶であることに。記憶を読み取るだけでなく、他者にそれを見せることもできるとは。それに感心する間もなく、記憶は展開されていく。まるで舞台のように。
今、
『命じるわ……『真実を話しなさい』』
それに思い至る間もなく、命令が下される。服従の天秤によって魂を従わされてしまっている者に、それに抗う術はない。その命令通り、全てを白状していく。自らの正体も目的も、こちらの内情さえも。改めて、それを目の当たりにすることで恐怖する。奴の魔法の恐ろしさに。かつての英傑たちの首を落とし、不死の軍勢とした断頭台の恐ろしさではない。もっと根源的な、支配されることの恐怖を。
だがそれすらも、まだ甘かった。全ての尋問が終わった後。本当なら自害させられ、処刑させられてもおかしくないにも関わらず、それが下されることはない。一体何故。そう思った瞬間
『覗きは感心しないわねぇ……ほどほどにしないと身を滅ぼすわよ?』
アウラと目が合ってしまった────
「────」
瞬間、総毛立つ。体が震える。それまでの視線とは明らかに違う。この記憶の持ち主ではない。それを通して、アウラがこちらに話しかけてきたのだから。
その表情は喜悦に満ちている。まるでこちらの姿が見えているかのように、愉しそうに、妖艶な笑みを浮かべている。天秤のアウラ。奴がそう呼ばれる所以。それに魅入られるように、記憶は遠のいて行った────
「今のは……」
「見ての通りじゃよ。アウラは記憶を読まれるのを分かった上で、こちらに、いや儂に話しかけてきたのじゃ。脅しかの」
思わず今が現実であるかどうかを確かめるように顔を手で押さえながら、そう呟くのが精一杯だった。息を飲むしかない。今の今まで、さっきまで目の前にアウラがいたのではないかと錯覚してしまうほどに。何よりも、その所作だ。
「全てお見通し、ということか……」
エーデルの言うように、最初から全てお見通しだったのだろう。儂らが間諜を放っていることも。その記憶を読むであろうことも。それをするであろう魔法使いの存在も。全てその掌の上であるかのような。それはまるで、女神のようだと。
「全くじゃ。生きた心地がせんかった。もう二度と御免じゃ。正直怖いからもう帰りたい」
思い出したのか。エーデル嬢は紅茶を口にしようと手に持ったカップが震えるのを抑えられていない。無理もない。その恐ろしさは自分の比ではないだろう。他者の記憶を読んでいる中で、自分に向かって話しかけてくる存在がいるなど。恐怖でしかない。二度目はないと脅迫されたに等しい。
それだけではない。精神魔法の恐ろしさをエーデルはあえて儂に見せつけてきたのだ。条件はあるものの、ある意味それはアウラの服従の魔法と同質のものだ。だからこそエーデルは怯えている。その使い手であるからこそ。
「儂にできることはここまでじゃ。すまんがの」
「そうか。すまなかった。君は十分すぎる働きをしてくれた。感謝する」
それを引き留めることなどできるわけもない。臆病だと罵ることも。彼女は賢明なのだ。できるのはただ、感謝と共に、去っていく彼女を見送ることだけだった────
(どうしたものか……)
事後処理を終えた後、私室で椅子に腰かけたまま思案する。これからのことを。正直なところ、八方塞がりに近い。かといって時間が過ぎれば過ぎるほど、こちらが不利になる。この地を治める領主として、魔族と戦う人間として。どうすることが最善なのか。
未曽有の危機。いや、過去にもそれはあった。奇しくも同じく、アウラによって引き起こされた争乱。その再来。先代のグラナト当主もそれに抗った。違うのは、それを救ってくれた者たちはもういないということだけ。そのまま答えのない問題に向き合っていると
「失礼します、グラナト卿。至急お伝えしたいことが」
「何があった?」
それを邪魔するように、執事がやってくる。また何か厄介ごとが起こったのか。こちらはもう手一杯だというのに。そんな内心を悟られぬよう、毅然としながら報告を促すも、すぐにそれは無駄になってしまう。何故なら
「それが、フリーレンと名乗る魔法使いがグラナト卿にお会いしたいと」
この状況を変えられるであろう、唯一の存在がまさに今、再びこの地にやってきたのだから────