「あいつも報われないわね。もしかして、左の薬指に指輪をする意味も知らないんじゃないの?」
誰かが私に話しかけてくる。分からない。言葉が分からない獣になった気分だ。いや、そうであるならどれだけ良かったか。
(痛い……)
ただ痛かった。体ではなく、心が。これを私は知っている。ハイターの、アイゼンの家を訪れてからの日々。そこでただ待ち続ける中、ずっと感じていた物。でもこれは、その比ではない。
(怖い……)
それは悪意だった。それが怖い。思わずここから逃げ出したくなるほどに。こんなことは初めてだった。今までも怖くなることはたくさんあった。でもこれは違う。明確に、私だけに向けられた悪意。知らなかった。それがこんなにも恐ろしい物だったなんて。ましてそれが
「言葉で伝えればよかったのにねぇ……いいえ、言葉にしてもあんたには伝わらなかったでしょうね。五十年間、手紙の一つも寄越さない薄情者だものね。来るはずのない手紙を待ってるあいつも愚か者だけど。お似合いね」
目の前の魔族によるものだなんて。
天秤の、女神の真似事しているアウラが告げてくる。追い立ててくる。追及してくる。まるで裁判のように。無慈悲に、執拗に。そこに公平性などない。ただ私を陥れるための、辱めるための行為。
なのにそれに反論できない。言い返せない。それは心の底では理解していたからだ。こいつの言っていることが正しいのだと。それを私は自ら証明してしまっている。
何もない左手。何度見ても変わらない。そこに着けていなくてはならなかった物がない。それが何だったのか。私は知らなかったのだ。知ろうとしなかったのだ。
無知。それが私の罪。葬送以上に、今の私に相応しい言葉。
「どうしたの? ずっと黙秘ってわけ? それとも言葉を忘れたの?」
それを与えんとする天秤の名を騙っている魔族。その顔は喜悦に満ちている。待ち望んだ獲物を前にして、甚振っている獣そのもの。なのに、それが違って見える。追い詰められたからか。それとも、逆に冷静になったからか。
それは違和感だった。ここに来てからずっと感じていた物。こいつを前にすると、怯んでしまう。尻込みしてしまう。魔力でもない。嫌悪がある。それはこいつが魔族だからだと思っていた。でも違う。これはもっと違う物だ。まるでそう。鏡に映る自分を見ているかのような。そんなあり得ない思考は
「────あんた、本当にヒンメルのこと覚えてるの?」
アウラの取るに足らない、たった一言で断ち切られてしまった。
「……当たり前でしょ」
それに思わず反応してしまう。黙秘を貫き通すことができない。それほどまでにこちらの感情を逆撫でするもの。何故こいつはここまで私の感情を揺さぶってくるのか。ただの魔族ではあり得ない。もし仮に、こいつが悪意を持っているとしてもあり得ないほどに。
「あいつの顔は? 声は? もう忘れてるんじゃない?」
先程までの癇に障る笑みは消え、アウラは純粋にこちらを問いかけてくる。それに思わず体が震える。先ほどまでの恐怖によるものではない。耐えがたい、怒りによって。
「馬鹿にするな。全部覚えてる。私は忘れたりしない。お前たちと一緒にするな」
ただ反論する。もはや語るまでもない。それは私へのこれ以上にない侮辱だ。例え無知だと断ぜられようと、それだけは認められない。
私は覚えている。忘れたりはしない。みんなが忘れたとしても、私だけは。
それが私の役目であり約束だ。
フォル爺との出会いで知った。ヒンメルのことを知るきっかけ。みんなの記憶を、未来に連れていく。そのために。
私はエルフだ。みんなよりもずっと長生きだ。だからこそそれが私にではできる。殺した人間のことを、いなくなったもののことを覚えておけない魔族とは、お前とは違う。そんな私の悪意に
「……愚かね。いずれ私たちは思い出せなくなるわ。あいつの顔も、声も、眼差しも。それは決まっていることよ」
アウラはただ、淡々と答えるだけ。いや、それはまるで独り言だった。その瞳は私を見ていない。何かを思い出しているかのよう。およそこいつらしくない振る舞い。それもまた嘘なのか。
でもそれに目を奪われる。その言葉に、姿に。かつての記憶が蘇る。まだ幼かった頃。師の遺言を渡した時。
『悲しくないの?』
きっと悲しむだろうと思っていたあの人に問いかけた。その時のあいつの顔。雰囲気。それが重なる。それはまるで────
「どうして、そんなことが」
「考えたこともなかったって顔ね。エルフってのはみんなそうなのかしら。いいえ、あんただけね。これは、あの老害からの受け売りなのよ」
「老害……?」
それを振り払うように問い返す。見ればアウラは不敵な笑みを浮かべながらそう明かしてくる。さっきまでのはまるで幻、見間違いであったかのように。それを確かめる暇もなく、新たな言葉が、事実が明かされる。私が知らない、知りたくない事実が。それは
「ゼーリエよ。神話の頃から生きているとされる、生ける魔導書。あんたにとっては師匠だったかしら?」
奇しくも、先ほど私が見た、幻想してしまった存在だった。まさかその名を、こいつから聞かされることになるなんて。それもこの短期間で、グラナトも含めれば二度も。しかも私とあいつの関係までこいつは知っているらしい。
「あいつは私の師匠じゃない」
「似たようなものでしょ。孫弟子のくせに。あいつも同じことを言ってたわよ。師弟は似るものね?」
それを否定するも、きっとそれも織り込み済みだったのだろう。待ってましたとばかりにそうからかわれてしまう。恐らくはゼーリエもそうだったのだろう。同時に目の当たりにする。こいつが、師弟という言葉を理解していることを。ただの声真似だけでは説明できないやり取り。何よりも
「あいつを知ってるのか」
「ええ。初めて会ったのは五十年以上前かしら。つい最近も命乞いしてきたばかりでね。まんまと騙されてくれたわ。いい気味ね」
「…………」
ゼーリエと対峙して、こいつが生き残っていること。それこそが私にとっては信じられない、あり得ないことだった。
あいつは魔族を嫌悪、見下している。よもすれば私や
だけどそれは嘘ではないのだろう。他ならぬ、グラナト伯爵からも聞かされていたこと。あいつがこいつを見逃し、手を出していない。ならこいつは本当に、ゼーリエを騙したというのか。どんな言葉を発すればそんな命乞いができるのか。天地がひっくり返ってしまったのか。
「そうか。お前は、あいつの真似をしていたのか」
事ここに至って確信する。こいつがあいつの真似をしているのだと。その所作も、語り口も、在り方も。このやりにくさも、嫌悪も当然だ。私はあいつが嫌い、苦手なのだから。
だとしても、やっぱり理解できない。あの人が、そんならしくないことを口にするなんて。ましてやそれをこいつに漏らすなんて。嘘だとしても信じられない。私よりもずっと長生きしているあいつが、忘れることを恐れているなんて。
「まさか。頼まれたってそんなこと御免よ。怖気が走るわ。そう見えるのなら、あんたが勝手に騙されてるだけよ」
そんな私の見立ては、こいつにとっても心外だったらしい。心底嫌そうな顔をしながらそう吐き捨ててくる。その一点においては共感してやってもいい。それはただのイメージの問題だったのだ。そしてそれは、何よりも私にとっては致命的だ。何故ならそれは
「流石のあいつも呆れてたわよ。あんたがヒンメルと五十年後の再会の約束をしたことにね。エルフの子供でも分かることだって。きっとお説教されるわね」
先程までの、悪意への恐怖ではない。魔法使いとしての私にとって。そんな私の内心を知ることなく、尚もアウラは悪意を向けてくる。ゼーリエすらも利用しながら。もしかしたら、こいつにとっては私はエルフの子供のようなものなのかもしれない。ゼーリエから見た私のように。
まずい。それは、決して抱いてはならないものだ。何とかしなければ。
「そうね、そういえば聞き忘れてたわ」
それを覆す、克服する糸口を必死に探し求めるも
「────ヒンメルは、最後に何か言い残してた?」
そんな、何でもないような声色の質問に、心臓を鷲掴みにされてしまった。
「…………覚えてない」
ただ嘘をつく。何も考えず。魔族のように。悪意なく。息を吐くように。人でなしどころではない。これでは魔族以下だ。
嘘だ。私は覚えている。忘れたりしていない。ただ思い出したくないだけだ。認めたくないだけだ。子供のように。ただいつものように。流星を見て、お酒を飲んで、喋って、笑って、別れただけだったのに。
それが最後の別れに、言葉になるなんて、思っていなかった。ただそれだけ。なのに
「────どうしてそんな嘘つくの?」
その嘘を、こいつは決して許さない。許してくれない。
「さっきと言ってることが違うわよ? もう少しマシな嘘をついたらどう? 子供じゃあるまいし」
天秤の傾きは覆せない。ただそれは重みを増していく。載せられる秤はどこまでも平等だった。残酷なほどに。まるで嘘を見抜く目を持っているかのように。
「……知っていても、お前に教える義理もない」
そう言い返すのが精一杯だった。今、自分がどんな顔をしているのか分からない。もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。知らない振りをしても、蘇ってくる。あの夜の記憶。私にとっての後悔。
ヒンメルならきっと、思い出してもいいと言ってくれるのに。今の私には、それができない。でも、思い出してくる。そうだ。私はあの時、何かをお願いされた。あれは何だったのか。
「ふふっ、それもそうねぇ。聞いた私が馬鹿だったわ」
鼻を鳴らし、心底下らないとばかりに私を見下ろしながらアウラは詰問を終える。自分の質問が無駄であることを悟ったのか。それとも飽きたのか。もしかしたら、何かを期待していたのか。だが
「これ以上詰問しても時間の無駄ね。なら、もう一つの裁判に移ろうかしら」
「もう一つの……?」
この下らない、悪夢のような裁判ごっこを、まだアウラは続けるつもりらしい。もう一つ、ということはいくつもあるのか。ならこいつは、どれだけこの時のために準備していたのか。知らず背筋が凍りつく。息を飲む。その執念は、執着は一体どこからくるのか。
「あんた、これまで殺した魔族のことをどう思ってるの?」
「……またその質問か。気持ちが悪い。あの魔族といい、師弟の真似事でもしてるの?」
だがその新しい裁判とやらも、どうやらネタ切れ、二番煎じだったらしい。そこまで私を忘れっぽいと思っているのか。裁判ごっこだけではなく、師弟ごっこのつもりなのか。
「リュグナーよ。覚えておきなさい。でもそうね、もう十分よ。あいつにも同じことを聞かれたってわけね。私の愉しみを横取りするなんて、後でお仕置きね」
それはアウラにとっても予想外のことだったらしい。そういえばそんなことをあの魔族も言っていた。間違いない。こいつらは主従なのだ。それが似てしまうのは、人間も魔族も変わらないのか。だとするなら、こいつらはその質問で、私を裁くことができると思っていたということか。だとしても分からない。そんな質問に一体何の意味が
「あんたが考えてることを当ててやりましょうか? 何とも思っていない。私たちが人間を殺しても何とも思っていないのと同じ。そうでしょう?」
あるのか、そう思考するのを先読みされたように、アウラの意地の悪い笑みが目に入る。間違いない。こいつには最初からそれが分かっていたのだ。なのにわざわざそれを聞いてきている。天秤が聞いて呆れる。何が裁判ごっこだ。これはごっこ遊びですらない。
「そんなに睨まなくても取って食ったりしないわ。あんたは食べても不味そうだもの」
魔族らしからぬ、そんなふざけたことをのたまってくるほどに、こいつは愉しんでいる。油断と驕り。そう形容しておかしくない、魔族にとっての悪癖であり弱点。なのに、それが違ったものに見えてくる。それは余裕だった。自分の方が圧倒的に優勢だという自負。自信。生ける魔導書や魔王が持ち得る、絶対的強者のみが持つもの。
「ああ、ごめんなさい。質問を言い間違えてたわ。あんたが、あんまりにも人でなしだから」
それが嘘か本当なのか。自分が騙されているのか、いないのか。目の前のこいつが魔族なのかどうかすら、今の私には分からなくなってくる。できるのは、ただこの悪辣なごっこ遊びに付き合わされることだけ。だがそれすらも
「────あんたは、これまで殺した人間たちのことをどう思ってるの?」
私には敵わなかった。
「何を言ってる……?」
「そのままの意味よ。あんたがこれまで奪ってきた人間の命のことをどう思ってるのかって聞いてるのよ」
オウム返しのように、ただ聞き返すしかない。一体私は何度同じことを繰り返すのか。魔族のように、言葉が理解できないからではない。私は、こいつが何を言っているのか分からない。何を言おうとしているのか。
「ふざけるな。私はお前たちとは違う。私は人間を殺したことなんてない。一緒にするな」
それはただの言い間違いだ。人間と魔族の。百歩譲ったとしても、魔族が正しい。あいつらを殺したことに罪なんてないが、あるとすれば魔族の方だ。私は人間を手にかけたことなんてない。エルフであっても。私は魔族殺しではあっても人食いでは、人殺しではない。一緒くたにされるなんて吐き気がする。例え私が無知であったとしても。なのに
「ふぅん……そう。あんたはそう思うのね。それとも気づいていないのかしら。やっぱり無知ね」
それすら見越していたような、こいつの言動に、目を奪われてしまう。嫌な予感がする。知らず自分が蜘蛛の巣に引っかかってしまっているかのような。
────この時の私はまだ気づいていなかったのだ。その糸を吐き出しているのが、他ならぬ私自身だということを。
「論より証拠。証人を呼んでいるわ。待たせたわね。入ってらっしゃい。フランメ」
「…………え?」
それは誰の声だったのか。自分が声を漏らしていることすら気づけていない。ただその名に反応してしまった。こんなところで、耳にすることなどあり得ない幻聴を。嘘にすらならない、意味のない嘘。
その合図と同時に、絶大な魔力が現れる。アウラの背後から。まるで最初からそこにいたかのように。アウラの物ではない。それを超える、もう一つの魔力が。
「お前は……」
そこには一匹の魔族がいた。見間違えるはずがない。何故ならそいつはかつて、私たちが封印した魔族だったのだから。
「久しいのう、フリーレン。八十年振りかのう」
『腐敗の賢老』クヴァール。
それがフランメの名を騙る、八十年振りの二人目の大魔族との再会。そして第二の裁判における、葬送の罪を知る証人の一人が招喚された瞬間だった────