それは盤石に見えても、アウラにとっては常に綱渡りの遊戯だった。
それほどまでに、葬送のフリーレンという打ち手と駒は、魔族にとっては天敵だったのだから。その魔力の偽装から戦い方。それを迎え撃つための駒と戦略をこの数年間、準備してきたにも関わらず。ほんの僅かな油断、驕りで盤面を覆されてしまいかねない。
だからこそアウラは、常にフリーレンの平静さを奪うために振舞ってきた。
裁判ごっこも、人形遊びも。そのためのものだ。常に先手を打ち、受けに回らないこと。でなければ、一体どんな手を打ってくるか分からない恐ろしさがフリーレンにはある。
そもそもこの戦いは、勝利条件からして通常とは大きく異なっている。ただ傀儡にさせて服従させるだけなら、アウラにはいくらでもやりようはあった。しかしアウラはそうしなかった。油断と驕り。言い換えれば誇り、意地と呼ばれるもののために。魔族であれ人類であれ、逃れられない性。
これは心を折るための戦い。服従の魔法を使わずに、相手を屈服させるために。負けを認めさせるために。かつての約束を守るために。
だがアウラもまだ見誤ってしまっていた。フリーレンの恐ろしさを。それに時間を、対処の時間を与えてしまうことの恐ろしさを────
────先に動いたのはフリーレンだった。
白銀の髪をしたエルフが、紫の花畑の中を駆ける。一直線に、ただ全速力で。
それによって、その場にいる魔族は機先を制される。リーニエに向かって距離を詰めようと迫ってくるフリーレンによって。
それはまさしく狂気の沙汰だった。魔法使いが、あろうことか、戦士の間合いに自ら突っ込んで行くなど。
打ち手にとっても、駒にとっても想定外の一手。だからこそ、それが生きる。最善手こそ読まれやすい。終盤になればなるほど、それは限られてくる。
千年魔族を騙し続けてきた、フリーレンだからこそ打てる、己が身を囮にしての狂気の一手。
それはリーニエに対しては効果覿面だった。まるで誤作動を起こしてしまった機械のように、その動きが一瞬止まる。命じられたままに、獲物を狩る猟犬。それ故の脆さ。想定外の出来事への対処。フリーレンのあり得ない動きによって。それが何を意味するのか。理解できなかったからこそ。罠なのか。それとも。模倣の魔法の使い手としての未熟さ。
それはクヴァールも同じだった。純粋な魔族である彼からしても、それは理解できない行動だったのだから。賢老であるクヴァールだからこそ。フリーレンの行動の意味を理解しようとしてしまう。慎重さでもある。
二人の魔族は騙される。欺かれる。その僅かな時間を生み出すこと。二人の連携を邪魔することこそが、フリーレンの狙いだったのだから────
(こいつらは人類の強みを持っている魔族だ……なら、その弱みを突けばいい)
生み出した、僅かな時間の隙間を駆けながら思考する。これまでに得た情報とその分析、対処法を。フリージアに来てから、いいやアウラに関わってきてから自分が思うように動けなかった最大の要因。それは相手を魔族だと思って対処していたからなのだと。なら逆のことをすればいい。魔族のように、人類の弱点を突く戦い方を。
その一つが連携。一人一人では敵わなくとも、力を合わせることで格上相手を倒すことができる。かつての私たちが魔王を打倒したように。人類の一番の強みでもある。
それが今のアウラ達にもあるのだ。先のリーニエに合わせる、というクヴァールの言葉がその証拠だ。魔族であればあり得ないものだが、それがあるのだと仮定する。だとすれば二人を同時に相手にしては勝機はない。ならそれを分断する。その仮初の鎖を断ち切ることで。
「────『
支配と対極を意味する、解放の魔法を囮にすることで。
その術式を前にして、例外と腐敗の賢老の動きが止まる。拘束魔法にかかってしまったかのように。まだ魔法を放ってもいないのに。人間よりも遥かに魔力に敏感な魔族だからこそ、その魔法が何であるか反射的に理解してしまう。反応してしまう。何よりも
その矛先が
それが人類の弱みだ。それを私は知っている。自分ではない誰かを守る。魔族には理解できない習性。それを利用する。魔族が人類にそうするように。
その効果は覿面だった。私の魔法と狙いを見抜いたからだろう。リーニエはすぐさまその手にヒンメルの剣を持ちながら、私へと迫ってくる。しかしそこに先ほどまでの動きの流麗さは見られない。魔法使いである私にも分かるほどに、動きが丸見えだ。焦りと油断。結局それが人類にも魔族にも一番効く。
それはクヴァールも同じだった。違うのは、行動がリーニエとは真逆、静観してしまっていること。それは二人の意識の差だ。魔法によって従わされているか否か。その差によって、二人の連携は崩れる。クヴァールにとってアウラは自分を従わせている主人だ。しかしそれはリーニエのような忠誠ではない。魔法の力による服従だ。それを解除する魔法を放つ私を止めるべきか、アウラを守るべきか。その判断に迷いが生じている。
仮初の連携が崩れ去る。まるで砂上の楼閣のように。奇しくも、アウラ自身が言っていたこと。ここフリージアは、あいつの嘘でできている。ならその嘘を暴くことで。それを瓦解させる。
『残念だけど、クヴァールの服従を解いても無駄よ、フリーレン。それでクヴァールがあんたの味方になるわけじゃないもの』
服従の魔法を解除されても問題ない。無駄である。
それが嘘なのだ。わざわざそう振舞うことで、私に解放の魔法の使用を言葉で封じるために。
いくら誤魔化そうと、欺こうと。
私のような、魔法使いの風上にも置けない、魔法を嘘に使う卑怯者以外には。
瞬間、その場にいた二人の魔法使いが、一瞬で吹き飛ばされてしまった────
その衝撃によって、リーニエとクヴァールは何が起こったのか分からず混乱するしかない。当然だ。二人ともまるで見えない力によって紙屑のように吹き飛ばされてしまっている。その威力によって咲き乱れていた花畑も、教会の設備も、フリーレンを中心にして例外なく。後には凄まじい風と、まるで巨大な爆発が起きたかのようなクレーターがあるだけ。二人はそれに息を飲む。その光景にではない。
何が起こったのか、二人には理解できなかったからこそ。それがフリーレンによって引き起こされたのは間違いない。なのに、何の魔力も感じ取れない。反応できない。その見えない力によって壁に押しやられ、身動きを奪われてしまっている今もなお、二人はそれを魔法だと認識できていない。それが何を意味するのか。
アウラもまた例外ではない。ただ目を見開き、それに目を奪われる。ただ戦慄する。つまりそれは
大魔族であるアウラとクヴァールをして、認識できない、遥か高みにある魔法であるということ。
アウラ達は知らなかった。自分たちがそうであるように、フリーレンにもまた、自分だけの魔法を持っているということを。
そこには一人の魔法使いがいた。負傷し、服は乱れている。その衝撃によってか、結んでいた髪が解け、風にたなびいている。何よりも違うのはその眼だった。氷のように冷たいその瞳が、さらに鋭さを増している。それに魔族たちは目を奪われる。金縛りにあってしまったかのように。
それは殺気だった。正真正銘の、魔族の大敵たる葬送のフリーレンの本気。魔族たちは思い知る。思い出す。葬送の二つ名を持つ、魔族の天敵である魔法使いの恐ろしさを。
故にそれに抗う術は天秤にもなかった。魔族であるのなら、魔法使いであるのなら逃れようのない本能。油断と驕り。その隙に、葬送はその杖を差し向ける。
魔族によって生み出された、人を殺す魔法を基に生み出した、対極の魔法。それによって逆に、フリーレンはチェックをかける。逆王手。盤面が覆り、ひっくり返る。魔法の世界では、天地がひっくり返ることがあるように。
それが葬送のフリーレン。確率など意味はない。例えどんなに僅かな勝機でも、それを掴み取る。真の強者は千億に一つの率でも勝ってみせるもの。魔族を葬り去りながら、千年、五体満足で生き延びていることこそが、その証。ただ一つ、例外があったとするならば。
この場には魔族だけではなく、『人間』の魔法使いがいたということだけだった────
「────え?」
知らず、声が漏れていた。完全な詰み。防御も回避も間に合わない。完璧なタイミング。なのに、それが失われてしまっている。
魔法が放てていない。杖がなくなっている。何故。どこに。手が痛い。弾き飛ばされている。どこから。いつの間に。
まとまらない刹那の思考。その計算が終わるよりも早く、ただ目を奪われた。
そこには杖を構えている。魔法使いがいた。アウラの横に控えていた、護衛の一人。その被っていたローブが脱げ、素顔が露わになっている。
(人間の……女の子……?)
それは女の子だった。まだあどけなさが残る、十代の少女。長い髪をした、人間の子供。この場には似つかわしくない、あり得ない存在。エルフや、魔族がひしめき合っているこの場での、唯一の人間。だがそれこそが、何よりも異常だった。
(今のは……この子が……?)
ただのその瞳に魅入られる。澄んだ水面のような、それでも遠くを見るような瞳。その手にある杖が、その子が魔法使いであることを示している。
それが答えだった。先程の魔法が、この子の魔法だったのだと。
いや、それを私は認識できなかった。なら魔法だと認識できないほどの遥か高みの魔法、呪いだったのか。
いいや、違う。これはもっと単純な物だ。そう、ただ見えなかっただけ。あまりにも、その魔法が速すぎて、視認できなかった。
あまりにも単純であるが故に、恐ろしい事実。それを魔法使いとしての本能と反射で理解し、戦慄する。
先のリーニエを前にした死の予感を超える、絶望。それはまさに、死の宣告だった。
『鍛錬を怠るなよ。フリーレン』
それはまさに走馬灯だった。それとも必死にこの状況を打破できる策を探しているのか。脳裏に蘇ってくるのはあの日の光景。らしくなく、師匠のように私を嗜めてきた、あいつの言葉。たった千年で、私たちの時代は終わるのだと、どこか愉し気に語っていたあいつの顔。
『お前を殺す者がいるとすれば、それは魔王か──』
本当に嫌味な奴だ。私を殺す相手なんて。それはきっと忠告だったのだろう。驕るな、慢心するな。それは事実だろう。魔族の王たる魔王。魔族の中であっても、遥か高みにいる魔法使い。目の前にいる、人類最高の魔法使いであるゼーリエであっても、倒すことができない存在。
それは、目の前にいる天秤のアウラもそうだ。こいつは、ある意味では第二の魔王なのだから。私を殺す者がいるとするのなら、それは間違いなくそうだろう。でも違ったのだ。何故なら
『────人間の魔法使いだ』
それは忠告ではなく、生ける魔導書の予言だったのだから。
目の前にいる、私の百分の一ほどしか生きていない小さな魔法使い。それが私に終わりをもたらす者であると。
フリーレンは知らなかった。その少女が、生ける魔導書をして大魔法使いフランメに匹敵する。未だかつて、魔法使いが辿り着いたことのないほどの高みに至れる才を持つ者であることを。
最初からフリーレンは騙されていたのだ。
この戦いの全てが、少女のためのものだったことを。それを預けることができるかどうかを、天秤が見定めるためのものであったことを。
『信頼』
アウラにとってその少女は、己の命を預けるに足る存在だった。リーニエに自らの魔法を託したように。
自らが葬送に欺かれても、敗北しても構わない。自らを囮にした策をしかけるほどに。
フリーレンが防御魔法を展開しなければ、と思考する間もなく、その魔法が放たれる。
天秤に命じられ腐敗の賢老が生み出した、もう一つの魔法。魔法使いなら誰しもが扱える、あって当たり前の
どんな防御の魔法も、使われる前に打ち抜けばいい。そんな子供のような思いつきを、現実にしてしまった魔法。魔法を打ち出す速さを極限までに追及した、先の先の究極系。それが
「────
天秤のアウラの一番弟子。蒼月のフェルンの魔法。
その不可避の魔法が、葬送の千年を打ち貫いた────