「あ、もうこんな時間か」
読み終わった本を閉じながらようやく気付く。時計を見ればもうお昼を回っている。私がエルフであることを抜きにしても本当に時間の流れが早い。それもひとえにこの場所、多くの魔導書が収められている書斎のせいだ。ここ数日はそれを満喫させてもらっている。まさに宝の山。
「ここで百年ぐらい暮らしちゃおうかな」
本当に百年滞在してもし足りないほど。アウラの監視をしなければならない苦行を差し引いてもお釣りがくるくらい。あいつの使っている魔法に倣うわけではないが、ここはまさに宝物庫だ。
なのにみんなその価値が分かっていない。ヒンメルたちもそうだ。何度言っても分かってもらえない。どうしてこのあくなき探求心を理解してくれないのか。だがそれも仕方ないことなのかもしれない。僅かな可能性に挑んだ偉大な魔法使いがいたからこそ歴史的な発見があった。ここにあるのは魔導書だが理屈は同じ。同じ魔法使いであっても、魔族であるあいつには理解できなくて当然だろう。
(本当にやってくれるね、アウラ……)
脳裏に醜悪な笑みを隠しきれていないアウラが浮かんでくる。本当に狡猾な奴だ。まさに魔族だろう。まるで人間を人質にするように、この魔導書たちを盾にして私を脅してくるのだから。卑劣極まりない。こんな高度な駆け引きを仕掛けてくるような奴じゃなかったはずなのに。それによって不条理な譲歩や交渉を強いられている。
その最たるものか利用制限だ。労働の対価だけでなく、制限すらされてしまっている。基本的に一日一時間。それ以上になれば許可が必要になる。まるで子供の遊び時間を制限するようなルール。きっと『お母さん』の真似事だろう。全然似合っていない。私を何だと思っているのか。主従関係すら理解できていないのか。だが何よりも
(まんまと嵌められたってことか……)
私は完全にしてやられてしまった。そのまま改めて書斎を見渡す。そこには見渡す限りの本の山……なのだが、最初とは違っていた。それは魔導書の数。それが明らかに減っていた。
(自分の魔導書だけ持ち出したってことか……まるで盗人だね)
最初ここに入った時にはあったはずの、実用的な魔導書がほとんどなくなってしまっていたのだ。まるで泥棒でも入ったかのようにぽっかりと。
残っているのは私好みの魔法ばかり。恐らくはヒンメルが私のために集めてくれていた物に違いない。やはりヒンメルは私のことをよく分かっているのだろう。たった十年一緒に旅しただけなのに。私よりもずっと。お礼に投げキッスをしてやってもいいぐらい。
それに対して、アウラが集めているのは実用的な魔導書ばかりなのだろう。それが悪いわけではないが、致命的に私とは趣味が違う。魔法は浪漫だ。むしろそれが民間魔法の醍醐味だというのに、それが分かっていないのはやはりあいつが魔族だからなのだろう。本当に趣味が……はとりあえずはいいとして。
おかげで狙っていた服を乾かす魔法が手に入らなかった。それ以外にもいくつも伝説級の魔導書もあったのに。私への嫌がらせに違いない。おのれ。一体どこに隠したのか。家中を探ってみたが見つからなかった。用意周到だ。それを手に入れるためにはあいつに媚びを、命乞いをしなければいけないのか。理不尽だ。
一度深呼吸をした後、改めて部屋を観察する。本当にここはあいつの書斎だったのだろう。その証拠に魔導書だけではなく、聖典や裁判に関する書物も多くある。聖都で裁判官の真似事をしている云々は嘘ではないのだろう。だがそれ以外にも雑多な、植物図鑑から果ては育児書まである始末。一体何に使っているのか。あいつは自分が魔族だと分かっているのか。
「本当に趣味が悪いね……」
ここにやってきてから、口癖になってしまった言葉を漏らしてしまう。最初はあいつの魔法、
その当の本人はここにはいない。朝から何やらヒンメルを連れ出して出かけてしまった。それにいいようにされてしまっているヒンメルには情けなさしかない。あれが魔王を倒した伝説の勇者の姿だとは誰も信じないだろう。だが私には何の関係もない。むしろ好都合だ。何故か今日は簡単に書斎の使用許可も下りた。二人がいない方が魔導書漁り……ではなく、魔法の探求を邪魔されずに済む。時間を気にする必要もない。
(一番趣味が悪いのはヒンメルだろうね……)
煩わしい監視から解放され、新しい魔導書を手に取りながら考える。アウラ達が行っている人間の振り。家族ごっこだったか。魔族としてのあいつの擬態もあるだろうが、一番はヒンメルの仕業だろう。
ヒンメルは明らかにあえてそう振舞っている。『お父さん』を演じながら。アウラをこの村に、人間社会に馴染ませるために。もっとも致命的に似合っていないが。そのための『お母さん』なのだ。しかもあの魔族の子がいることでさらに家族らしくなっている。さしずめあの子は『娘』なのか。本当に趣味が悪い。
いくらたどたどしくとも、十年経てばそれは当たり前になる。魔族は元々人間を真似することでそれを捕食する動物だ。経験を積めばそれは本物に近づいていく。中身ではなく外側が、ではあるが。
そうなれば手を出すことは難しい。歴戦の戦士や魔法使いでも子供の魔族を躊躇いなく葬れる者はそうはいない。かつてのヒンメルですらそうであったように。それが親子の振りをしているのなら尚のこと。それがアウラ達を守るためのヒンメルの策だったに違いない。もっとも、私には通用しなかったわけだが。結局なし崩し的に様子見をすることになってしまった。かつてと同じように。
『フリーレン、僕たちには言葉がある。どうせこの村には滞在するんだ。様子を見ようじゃないか』
(私たちには言葉がある……か。皮肉だね)
いつかのヒンメルの言葉が、光景が蘇る。ついこの間だったはずなのに。言葉があるからこそ騙されてしまう。欺かれてしまう。進化したはずの、人類の弱点。魔族にはないもの。あいつらは嘘しかつかない。いや、嘘をついているとも思っていない。だがもし、魔族が嘘をつけないものがあるとするならば。
(魔族は魔法で嘘はつけない……分かって言ったんだとしたら大したものだけど)
何気なくヒンメルが口にしていた言葉。それはきっと真理なのだろう。本当に何でもないことのように核心をついてくる奴だ。それがきっと勇者、ヒンメルなのだろう。そのまま目についたその本を手に取る。
『命懸けで宝物庫の扉を閉じる魔法』
目下私が四苦八苦させられている忌々しい魔法だがそれは別だ。
問題は、アウラがこの宝物庫の魔法を使えているということ。それに尽きる。
魔法はイメージだ。魔族も、人類もそれは変わらない。魔法使いである限り、逃れられない真理。
それはつまり、アウラはここを宝、価値がある物だとイメージしていることに他ならないのだから。
この書庫だけならまだ分かる。あいつ自身が言っていたように、ここはあいつの部屋。魔族にとっては人類の魔法なんて価値のないもののはずだが、それでも自分の物を匿っている場所。使えたとしてもおかしくはない。
だがこの家その物までその範囲を含めることができていた。魔族にとって価値があるのは魔法だけ。例外として魔族が魅了される宝剣などもあるが、この家には当てはまらない。ここを根城だと思っているからなのか。いや、そうだとしても腑に落ちない。
それをアウラ自身も気づけていない。魔族にとって魔法は誇りであり、あって当然のもの。そんな発想が出てこないに違いない。私の魔力の偽装に思い至れないように。同じようにヒンメルもそれに気づけていない。普段なら気持ち悪いぐらいに察しがいいくせに。自分に関係することだからか。それとも家に入れてもらうために命乞いするのに必死だったからか。私もそれをわざわざ教える気もない。少なくとも、今はまだ。
(宝でも何でもない、か。魔族のくせに嘘が下手だね、あいつは)
魔導書のことをそう言っていたアウラ。だがそれは真っ赤な嘘だったのだろう。魔族のくせに嘘が下手な奴だ。それは間違いなくあったはずの魔導書が、今はなくなってしまっているから。
『花畑を出す魔法』
その魔導書もなくなっている。その魔導書がここにあったことを私は気づいていた。きっとヒンメルが間違えて集めた物なのだろうと。後で私はもう覚えてるよ、とヒンメルに教えてあげようと思っていたのに。
でも違っていたのだ。明らかに実用的ではないが、あの魔導書はあいつの物だったのだ。
私を陥れるための工作が裏目に出てしまっている。きっとあいつにとっても予想外だったに違いない。
そのままここにはない魔導書に導かれるように、魔法で一輪の花を生み出す。花畑ではなくとも、色褪せることのない美しい蒼い花。ヒンメルがいつか見せてあげたいと言っていた、故郷の花。
(蒼月草……まさかこんな形で見ることになるなんてね)
それを見つめながら、思い出すのは村の外れで見せられた蒼月草の花畑。これはそれを模した物。まさか私が魔族が魔法で出した花を真似する羽目になるなんて。屈辱どころの話ではない。飛行魔法やゾルトラークではない。人類の魔法を。
魔法はイメージだ。それは私にも言えること。だからこそ分かる。理解させられる。私の魔法が、あいつには及ばないことを。この花に限っては。
魔族は魔法に嘘はつけない。それは私も同じだ。魔力で欺けても、魔法そのものを欺くことは出来ない。
その事実に胸がざわつく。今まで感じたことのないような嫌悪感。魔法使いの誇りなんてものは、とうの昔に捨て去ったはずなのに。まだ残っていたのだろうか。私らしくない。一体どうしてしまったのか。こんなところ、
「……誰?」
そこに、人の気配を感じた。いつの間にか、僅かに書斎のドアが開いている。私としたことが、夢中になりすぎていたかもしれない。一体誰が。ヒンメルやアウラだとしたらコソコソする必要なんてないだろう。もしや本当に盗人なのか。一応警戒しながら身を構えるも
私に見つかってしまったからか。まるでこちらを覗き込むように、何かが見え隠れしている。
それは角だった。二本の魔族の角。それに私は見覚えがある。その持ち主はそこから出てこない。きっと隠れているつもりなのだろう。
でもバレバレだった。頭隠して尻隠さず、だったか。この場合は角になるのだろうか。
「────」
それに気づいたのか。それとも我慢できなくなったのか。まるで小動物のように、ひょこっと顔を覗かせてくる。まるで初めて見るおもちゃを前にした子供のように、興味津々に。いや、魔族なら食べたことのない食べ物を見つけたように、なのかもしれない。こちらの様子を窺っている。
それを前にして私はさらに警戒を強める。当たり前だ。私はここに来てから、目の前の魔族に致命的な不覚を取っているのだから。
『お母さん』に『お父さん』
およそ人間を騙すという意味において、こいつを超える魔族はいないだろう。その祖先が物陰から『助けて』と言葉を発したように。油断と慢心を排する。どんな言葉を真似ようと、私が動じることはない。そのまま葬送としての自分に言い聞かせ、言葉を話す魔物と対峙せんとするも
「…………どろぼう?」
「…………」
魔族の悪意のないたった一言によって、葬送のフリーレンは言葉を失ってしまった。
葬送はまだ知らない。目の前の魔族が自らにとっての