覚えている。あの姿を。あの声を。あの眼差しを。
忘れることはない。みんなが忘れても。私だけは。私だけが。
それでもきっと私は────
『綺麗だな』
四人で王都から見上げた夜空。そこに流れていく
『じゃあ次。五十年後。もっと綺麗に見える場所知ってるから、案内するよ』
少し自慢しながらそう告げる。空気を読みなさいと言われながら。確かに綺麗だが、こんなものではない。街中では見えづらいのだろう。何度も見てきた私だからこそ分かること。とっておきの場所を教えてあげよう。それこそ五十年なんてあっという間だ。
『……ふふっ』
なのに、何が可笑しかったのか。ヒンメルに笑われてしまう。いつものように。旅の中で、何度そうやって笑われたか分からない。癪に障る。なのにそれが嫌いではなかった。だっていつもヒンメルは楽しそうだったから。
『……いや、なんでもない。そうだな、皆で見よう』
それはなんでもない約束。たった十年の、下らない旅路のように。また今度。
それは記憶だ。思い出だ。間違いはない。覚えている。忘れたりしない。でも違ったのだ。今、ようやく気づいた。あの時のやりとりの、本当の意味。
「────だってその頃にはヒンメルは死んでるかもしれないじゃない」
『────ヒンメルはもういないじゃない』
その言葉によって、現実に呼び覚まされる。いや、それによって自分の世界に陥っていたのか。
目の前には一匹の魔族の子供がいた。ただ首を傾げながら、私に問いかけてくる。そこには何の悪意も害意もない。ただ純粋な疑問。なのに、そこに悪意を感じてしまうのは、私のせい。その姿に、何故か断頭台の面影を見る。ただの声真似なのに。
動悸がする。眩暈がする。立ち眩みがする。
それは生まれて初めての感覚だった。気を抜けば、そのまま倒れてしまいそうな、地に足がついていないような浮遊感。それに何とか抗いながら、必死に耐える。
(ヒンメルが、いなくなってたら……?)
反芻するように、何度も思い浮かんでは消えていく。現実感が沸かない。だってそうだ。ヒンメルはまだいるのだから。そんなこと、考えたことがなかった。まるで言葉が理解できない、魔族になってしまったかのように。そんな魔族に突き付けられる。
もし、私がたまたまここに来ていなかったらどうなっていたのか。そんなもしも。
それはあり得た話だ。きっと私がここに寄るよりもずっとあり得たこと。今から四十年後。約束を果たすために、王都へ向かっただろう。そこでヒンメルに再会して、みんなで流星を見に行く。当たり前の未来。でも違ったのだ。
そこにヒンメルがいなくなっている。死んじゃっていることだってあり得たのだ。いや、その可能性の方が高かった。人間の寿命は短いのだから。
ヒンメルだけではない。ハイターだってそうだ。老いぼれて、死んじゃっていてもおかしくない。ドワーフのアイゼンとは違う。二人とも人間なのだから。
「────」
その事実にぞっとする。背中に冷たい汗が、額に嫌な汗が滲んでくる。知らず息を飲みこむ。まるで知らない間に、薄氷の上を歩いていたかのように。一歩間違えれば命取りの綱渡りを、知らずに渡っていた。そう、知らなかった。気づかなかった。なのに
(どうして、みんな教えてくれなかったの?)
そんな疑問が浮かんでくる。どうして、という私の口癖。旅の途中で、何度もみんなに聞いてきた。みんなは私とは違ってたから。不死の軍勢を相手にした時には怒られもした。でも、今回は違う。どうして教えてくれなかったのか。みんな分かっていたはずなのに。自分が死んじゃっているかもしれない。いないかもしれない、と。どうして。そんな中
『人間には寿命がある。私達よりも死に近い場所にいるんだ』
そんな、偉そうに知った風なことを言う、同族の言葉が蘇ってきた。
『人生には重大な決断をしなければならない時がいくつもあるが、あの子達はそれを先送りにできないんだ』
あいつは私のことが嫌いだろうに、柄にもなくそんな師匠のような忠告をしてきたのを覚えている。でも違ったのだ。あれはきっと予言だったのだ。未来視のような魔法ではない。同じエルフの先達としての。
『お前はいつか大きな過ちを犯し、人を知りたいと考えるようになる』
それはきっと
『結局、私はお前に戦いのことしか教えなかった。復讐のための魔法だ』
ヒンメルたちもきっとそうだったのだ。分かっていて、私に教えてくれなかったのだ。意地悪でも何でもない。
それはきっと私が自分で気づけなければ、経験しなければ意味がないことだったから。私が傷つくことになるのを知っていたから。本当に、お人好しの連中だ。
「どうしたの、フリーレン?」
「……ううん。なんでもないよ」
黙り込んでしまった私が不思議だったのか。こちらを覗き込んでくる魔族の子。きっと分からないのだろう。気づけないのだろう。自分の言葉が、私にとってどんな意味を持つのか。悪意がない故に。でもきっと私も同じなのだ。気づけないだけで、これまでもきっとみんなを傷つけて、困らせていたのだから。でもそんな私の嘘を
「────どうしてそんな嘘つくの?」
目の前の魔族は見抜いてくる。許してくれない。先延ばしにさせてくれない。
その瞳に吸い込まれる。鏡のように、私を映し出してくる。魔族よりも嘘つきの私を見抜いてくる、正直者の魔族。
「…………気づけなかったんだ。人間の寿命は短いってわかっていたのに……」
それを前に白状する。言葉にする。後悔。魔族にはできない、人類の言葉の使い方。
人間の寿命の短さ。私にとっては
知らない振りを。気づかない振りをしてきた。考えないようにしてきた。先延ばしにしてきた。
美味しかった料理も。綺麗だった景色も。知っていた街並みも。魔法使いの証も。出会った人々も。
みんなみんななくなってしまう。変わっていってしまう。変わらないのは太陽と月ぐらい。でも仕方ない。私はエルフなんだから。みんなとは違う。分かってはもらえない。あきらめにも似た何か。それなのに
「そうなんだ! 私と一緒だね、フリーレン!」
私もそうなのだと、他でもない魔族の子が私を肯定してきた。
「……え?」
「だって仕方ないもん。人間ってすぐ大きくなるんだから。リリーにもあっという間に背、抜かれちゃったんだから。私の方がお姉さんなのに。シュトロも生意気」
呆気に取られている私をよそに、拗ねた子供のように頬を膨らませながら愚痴をこぼしている。それは紛れもないこいつ自身の言葉、経験だった。人間社会でずっと暮らしていたからこそ感じる、長命種と短命種の差。私もまだ理解できないものを、こいつはもう理解しているのだ。理屈ではなく、本能で。肌で感じることで。
「老いぼれるのも早いんだよ。村長ももう遊んでくれなくなったし。だからフリーレンも今のうちにヒンメルといっぱい遊んでおかないと」
目の前の魔族はそのまま受け止めてくれる。自分もそれが分かるのだと。悪意がない、純粋無垢な存在が故に。魔族という、長命種だからこそか。それでも、短命種との付き合い方をもう知っているという点では、私よりもずっと大人なのかもしれない。
それにただ聞き入ることしかできない。天地がひっくり返るどころではない。何よりも、私が魔族の言葉に耳を傾けていることが。あり得ないこと。騙されてしまっている。なのに
「……私、間違えちゃったのかな?」
目の前の魔族の子は、かつての魔族の子と同じ言葉を漏らしてきた。
「……何のこと?」
そう聞き返す。何を間違えたのか。私を上手く騙すことができなかったからか。私を騙す魔法の言葉が思いつかなかったのか。そもそも何を気にしているのか。それは
「フリーレンが悲しそうだから。ヒンメルなら言わないことだったんでしょ?」
この子が、間違いなくヒンメルの一番弟子であることの証明だった。
そう、この子はヒンメルの真似をしていたのだ。だから私も、この子の言葉に耳を傾けてしまっていた。騙されてしまっていた。
でもこの子にはそう見えなかったのだろう。自分では分からないが、私が悲しそうな顔をしていたから。ヒンメルの真似が上手くできなかったのだと。間違ってしまったのだと。それによって自分に害が及ぶのではないか危惧している。魔族らしい思考。それはきっと魔族としては間違いだったのだろう。それでも
「……ううん、言ってくれてよかったかな」
私にとってはそうではなかったのだ。人類ではないからこそ、親しい者たちではないからこそ。悪意がないからこそ、その言葉が必要だったのだろう。薄情者の私には。それが魔族だったというのは、あまりにもできすぎているが。
だがそれはそれ。これはこれだ。気づけなかった私が悪いのは当然だが、教えてくれなかったヒンメルのせいでもある。どう問い詰めてやろうか。いや、ヒンメルのことだ。馬鹿正直に問い詰めてものらりくらり誤魔化されてしまうに違いない。作戦を練らなければ。ヒンメルだけではない。ハイターとアイゼンも同罪だ。こうなったらアウラも利用してやる。みんな私を騙したことを後悔すればいい。そう気炎を燃やしていると
「なんだ、良かった! フリーレン。そういう時はありがとうって言うんだよ」
そんな、当たり前のことをこの子は教えてくれる。それもきっと真似なのだろう。それが誰の真似かなんて問うまでもない。散々教えられてきたのだから。それでも
「ありがとう」
そう言葉を告げる。声真似ではない、心からの言葉。ここにはいない、みんなにも向けての。
それが生まれて初めてフリーレンが魔族に感謝した瞬間。そして人の心を知りたいと思ったきっかけだった────