勇者ヒンメルの死から二十六年後。中央諸国聖都シュトラール郊外。
「ではフリーレン様、ハイター様を宜しくお願いします。私も夕方には戻ってきますので」
「うん、いってらっしゃいフェルン。気を付けてね」
いつものように玄関でフェルンを見送る。最近フェルンは午前中はハイターと過ごし、午後に鍛錬に出かけるようになっている。なので寝坊してしまう私でも見送ることができるようになった。その後ろ姿にどこか感慨深さを感じる。本当に人間の成長はあっという間だ。たった五年なのに、大きくなってしまった。背を追い抜かれてしまったのはいつだっただろう。子を持つ親というのはこういう気持ちなのかもしれない。
「お邪魔するよ、ハイター」
そのまま静かにハイターの部屋に入室する。そこにはいつもとは違う、いや最近は見慣れつつあるベッドに横になっているハイターの姿がある。あの日、倒れてからハイターはこうして過ごすことがほとんどになった。だからこそ、ハイターは残された時間をフェルンと一緒に過ごしている。少しでもあの子に大切な思い出を残すために。
「フリーレンですか。フェルンはどうしました?」
「今鍛錬に出て行ったよ。もう一番岩を打ち抜いたのに、熱心だよね」
「そうですね。あの子もあなたと同じで魔法が好きですから」
「私はほどほどだけどね」
ハイターの軽口に一応反論しておく。本当はフェルンもほどほどなのだが、私のほどほどとはちょっと違うかもしれないのでそういうことにしておこう。どうやら今日は調子は悪くないみたいだ。
「そういうことにしておきましょうか……どれ」
「無理に起きなくていいよ、ハイター。辛いんでしょ?」
「いえ、今日は本当に調子が良いんですよ。それに、何か私に話したいことがあるのでしょう?」
「……よく分かったね」
「何年一緒に暮らしていると思っているんですか?」
ゆっくり体を起こした後、そう告げてくるハイター。やっぱりこいつには敵わない。とっくに私の思惑はバレてしまっていたらしい。一緒に旅をしたのは十年。暮らしたのを合わせれば十五年。たったそれだけで、ハイターは私のことをこんなにも理解している。なら余計な小細工は無用だろう。
そのまま後ろ手に隠していた一冊の本をハイターに差し出す。ハイターは不思議そうにそれを受け取る。まるで初めてそれを目にしたかのように。
「これは……?」
「……その様子じゃ、やっぱりハイターも知らなかったみたいだね。ヒンメルの日記だよ。他にも何冊もある。書斎に隠してあったんだ」
「知りませんでした、そんな物があったとは。ただ、そうですね……確かにヒンメルが何かコソコソしていた気はしますね」
「そう。ヒンメルらしいね」
やはりハイターもその存在を知らなかったらしい。これでこれを隠していた犯人が確定した。もっとも最初から分かり切ってはいたのだが。あんな隠し方をする奴なんて他にはいない。大方処分するのも気が引けて、遊び半分であんなところに隠したに違いない。それが見つかることまでは考慮していなかったのかもしれないが。
「いつこれを見つけたのですか?」
「私が三日三晩泣き喚いた時だから……五年ぐらい前かな」
「そうですか……なら、中身は全て?」
「全部読んだよ。所々抜けてるところもあったけど……大体五十年分かな」
「なるほど……こういう形になるとは私も思っていませんでした。きっとヒンメルもですね」
どこか懐かしむような顔を見せながらハイターはそう呟く。私もそれには同意見だ。意外とマメだったのか。ヒンメルの日記は五十年分ほぼ全て納められていた。自伝ではなく、途中から完全に日記になってしまっていたが。あきらめてしまったのかそれとも。
それを私はこの五年間で読み終えた。いや読み返した。何度も。何度も。
「フリーレン……これを読むことは、あなたにとって、とても辛いことだったでしょう」
きっと、それを察したからなのだろう。私を気遣うように、憂うようにハイターは声をかけてくる。それに目を合わせることができない。合わす顔が、ない。
「うん……そうだね。何度泣いたか、泣きそうになったか、分からない……」
顔を伏せながら、そう吐露する。あの日、日記を見つけた日から何度泣いたか分からない、覚えていない。二人に心配をかけたくなくて、夜中寝静まった時に日記を読むようになった。それでも、読み進めてもそれは変わらなかった。
「初めは嬉しかったんだ。私が知らないヒンメルを知ることができるって……でも、だんだんそれが悲しくなってきて、辛くなってきたんだ……」
最初はただ嬉しかった。これで私が知らないヒンメルを知ることができると。みんなに追いつくことができると。でも違った。私は分かっていなかった。その意味を。それは私がいない時間の重さ。自分がいない時間での、ヒンメルの日常を知ることだったのだから。
ヒンメルは日記の中で、生きていた。笑って、怒って、泣いて、悲しんで、また笑って。でもそこに私はいない。そこにいるのはあいつだった。それが悲しかった。辛かった。羨ましかった。悔しかった。なんでそこにいるのは私ではないのか、と。でも違った。そう、ただ悪いのは私自身。
あの日のヒンメルの言葉を思い出す。王都には残らないのか、とヒンメルは私に聞いてきた。今なら分かる。それがヒンメルなりの精一杯の引き留めだったことを。でもあの時の私はそれに気づかなかった。気づけなかった。もしあの時、それに応えていたらどうなっていただろう。
この日記に綴られているような、何でもない大切な日々を私も過ごすことができたのだろうか。
そんな今更な、自分勝手な後悔。それによって流れる涙を私は止めることができなかった。
本当なら読むのをやめてもよかった。何度ももうやめようと思った。それでも、今日までそれを進めてきた。何故なら
「でも、そうじゃなかった…………一番つらかったのは、ヒンメルだったんだから」
本当に辛かったのは、私なんかじゃなくて、ヒンメルだったのだから。
今日、あの断頭台のアウラと友達になった。いいや、これから友達になりたい。フリーレン、きっと君は信じてくれないだろうね。
アウラが花畑の魔法で花を見せてくれた。白い、本当に綺麗な花だった。小さい頃と旅の中で見せてもらった花畑を思い出せた。今頃一体どこで何をしているのやら。きっと変わらず魔法収集の旅を続けているのだろう。
今日もたくさんの手紙と格闘した。でも相変わらずハイターとアイゼンはマメな奴らだ。フリーレンとは大違いだ。まったく、手紙の一つぐらいよこしても罰は当たらないぞ。でもそれが彼女らしいと言えば彼女らしい。
フリージアのアクセサリをアウラに贈った。親愛の花言葉を込めて。もしそれが通じたら、彼女と友達になれるだろうか。あの時とは違って僕が選ぶことにした。フリーレンのように適当に選ばれたら困ってしまう。でもよりによって鏡蓮華の指輪を選ぶなんて、いかにも彼女らしい。久遠の愛情。きっと、彼女には程遠い花言葉。だから言葉にせずにそれを贈る。もしあの時、言葉にしていれば何か変わっただろうか。いや、きっと彼女には届かなかっただろう。届いた時にはきっともう僕はいない。それは彼女を苦しめてしまうだけなのだから。
僕がフリーレンを好きなことがアウラにバレてしまった。しかもどうでもよさげに。こんな扱いがあるだろうか。そして五十年後の約束のことにも呆れられてしまった。でも仕方ない。僕も分かってる。それがきっと僕のくだらないこだわり、痩せ我慢なんだってことは。本当は今すぐにでも探しに行きたい。会いに行きたい。それでも、僕は彼女と約束したんだ。ならそれを守らないと。たまには顔を見せるとも言っていた。ならきっと大丈夫。百年後にはならない……はず。
あれからもう十年が経った。そろそろイケメンが辛くなってきたのでダンディに移行すべく髭を生やしてみたのに評判がよくない。なんでだ。アウラだけでなくリーニエにもダメだしされてしまった。僕に弟子ができたことを知ったらきっとフリーレンは驚くだろう。しかも女の子で魔族。きっと信じてもらえないだろう。もっとも僕もフリーレンが弟子を取ったなんて聞いても信じないだろうからお互い様かもしれない。
そうか。もうすぐ君と別れてから五十年になるんだね。今会っても君は僕に気づいてくれるだろうか。老人になった僕もイケメンだからきっと大丈夫だろう。最近は体も動きづらくなってきた。君はきっと昔と変わらないままなんだろうね。
本当に静かになってしまった。それが少し寂しい。きっと今までが恵まれていたんだろう。だから我慢しなくては。彼女は自由になって旅立っていったんだから。もう縛られる必要はない。まだ別れてから半年しかたっていないんだから。きっとまた会いに来てくれる。そういえばもうすぐ
――――フリーレン。もう一度、君に会いたい。
それは、五十年間ずっと待ち続けてくれていたヒンメルの旅路だった。忘れてくれてよかったのに、もうこれ以上苦しまなくてもよかったのに。ヒンメルはただずっと待っていてくれた。想ってくれていた。こんな、薄情な私のことを。
それが本当に嬉しかった。でもそれ以上に悲しかった。辛かった。きっとヒンメルはもっと、もっとそうだったはずなのだ。なのにそれを隠し続けた。その想いを五十年間ずっと胸に秘めたまま。旅の中でも、それを私に伝えることはなかった。その時の私には届かないと知っていたから。何よりも、私が苦しむことを分かっていたから。私はずっと守られていたのだ。
誰よりもお人好しで、格好つけてばかりの勇者に。私に久遠の愛を捧げてくれた、私の好きな人。
でもそれだけじゃない。ヒンメルだけじゃない。私はただ、みんなに守られていただけだった。
「ごめん……ハイター……みんな、私のこと、待っててくれたのに……私、気づけなくて……ごめんなさい」
膝の上に、大粒の涙が落ちていく。溢れる涙を止めることができない。それでもただその言葉を伝える。今更でしかない、自分勝手な謝罪の言葉。ハイターも、アイゼンも、みんなみんな私のことを待っていてくれた。なのに私はそれに気づくことができなかった。何度も、何度も気づける機会はあったのに。
怖かった。怒られることが。失望されることが。落胆されることが。本当なら、こんなこと言わなくてよかったのかもしれない。胸にしまっておけば。忘れてしまえば。これまでのように。でも、もうそれはできない。知ってしまったのだから。みんなの心を。だから――
「――――フリーレン、よく頑張りましたね。褒めてあげます」
気づけば、頭の上に手が置かれていた。温かい、確かな人の温もり。何度目になるか分からない、ハイターの優しさ。
「何で……? 私、褒められるようなこと、してない……」
ただ呆然としながらそう答えるしかない。何で褒められるのか。そんな資格は私にはない。ずっとみんなを傷つけて、裏切ってきた私には。
「いいえ、あなたは素晴らしいことを成し遂げたのですよ。フリーレン、あなたは今、私たちに追いついたのですから」
「追いついた……? 私が……?」
なのにそんな私を慈しむようにハイターは教えてくれる。私がみんなに追いついたのだと。分からない。どうしてそんなことになるのか。私はずっとみんなに置いて行かれていた。追いかけようとしていなかった。なのにどうして。
「はい。ヒンメルたちとよく話していたのです。遥かに長い寿命を持つあなたが、私たちの感情に追いつくには同じぐらい時間がかかるのだろうと。十年の旅路であればきっと百年でしょうか」
そう、みんなはずっと分かっていたのだ。私よりも私のことを。きっとフランメもそうだったのだろう。その言葉を思い出す。私が致命的な間違いを犯し、人を知りたいと思うようになると。その時には帰って来いと。その意味が、ようやく分かった気がする。
「だから私は、あなたが追いつくのはきっと私の死後になるだろうと思っていました。でもそれをあなたは覆した。ヒンメルの置き土産とこの五年間、自分と向き合い続けたあなた自身の努力によって」
きっと私のことをヒンメルと同じぐらい、ハイターも分かってくれている。そんなハイターが認めてくれた、褒めてくれた。それがこんなにも嬉しい。今までの私のしてきたことが許されるわけじゃない。それでもきっと。
「――――フリーレン。やはりあなたは優しい子です」
「頭……なでん……なよぉ……」
いつものように撫でてくる手を払いのけることができない。ただできるのは子供のように泣きじゃくること。私を褒めてくれる、たった一人の人間の友達。
それが私が本当の意味で、みんなと同じ時間を歩み始めた瞬間だった――――
「それと私からもあなたに謝らなければならないことがあるのです」
「謝りたいこと?」
何とか泣き止み、平静を装うことができるようになった私にハイターはそんなことを言ってくる。だが皆目見当がつかない。一体何のことなのか。
「……はい。実は私はあなたよりも先にアウラにフェルンを預けようと思っていたのです」
「アウラに……?」
「もちろん、あなたがやってくるのを疑っていたわけではありません。ですがそれとは関係なく、いつ私は倒れてしまうか分からなかった。ちょうどそんな時、アウラたちがここを訪ねてきたのです」
それはフェルンのこと。もう一人前になったフェルンを私はハイターに託されていた。だがそれよりも前に、ハイターはアウラにフェルンを預けようとしていたらしい。なるほど、確かに謝りたくなるのは分かる。だがそれは無用な心配だ。
「なら当然だね。あいつが魔族だっていうのは置いておくとしても、フェルンのことを考えるならハイターのしていることは正しい。私に謝るようなことじゃないよ」
「そう言ってもらえると助かります。でも、結局アウラには断られてしまったのです」
「どうして? 魔法を教えなかったのと同じ理由?」
分からない。確かアウラはフェルンに慕われていたはず。その娘のような存在であるリーニエにも。何だかんだでアウラはハイターと懇意にしていた。断る理由が見当たらない。魔族では人間を育てられないと思ったからなのだろうか。しかし
「いいえ、あなたのせいですよフリーレン。彼女はこう言っていました。『あのエルフの二つ名は知ってるでしょ? どうせあんたのお迎えが近くなったら勝手にやってくるわ』とね」
想像を超える、あんまりな理由をハイターは告げてくる。思わず目を見開いたまま固まってしまう。あまりにも皮肉めいた言葉。
「……何それ。人を勝手に死神扱いしないでよ」
「こんな可愛らしい死神なら大歓迎ですね」
「生臭坊主」
そんな私の反応が面白かったのか、いつものようにからかってくるハイター。前言撤回。やっぱりこいつは優しくなんかない。年老いても、きっと死んでも生臭坊主のままだろう。
「ですがその言葉を、あなたを信じてよかった。フェルンを頼みますよ、フリーレン」
「後でアウラの方が良かったって言っても知らないからね」
なので精一杯の皮肉で返してやる。飄々とそれを受け流されるのは分かっているが仕方ない。
「ではこれはお返ししておきますね」
「ハイターは読まないの?」
「ええ。これを読む資格があるのはあなたと彼女だけでしょうから」
そう言いながらハイターはヒンメルの日記を返してくる。その言葉に返す言葉はない。それは私自身もそう思っているからに他ならない。何故ならこの日記のほとんどが、あいつとヒンメルの日常を綴った物なのだから。
「なのでフリーレン。これを彼女に届けてあげてくれませんか。私からの最後のお願いです」
読まずともそれが分かっているのだろう。ハイターはそう私に託してくる。激しい既視感。つい最近同じようなことがあったばかりな気がする。
「……謀ったなハイター」
「そんなことはありませんよ。こんな物があったなんて、私にとっても嬉しい誤算でしたから。もっともヒンメルにとっては大誤算かもしれませんが」
そうのたまってくるハイターに返す言葉がない。本当にこいつには口では敵わない。そして一番被害を被っているヒンメル。アウラにもこれを読まれることになるというのか。だが同情はしない。自業自得でしかない。
「……ちなみに私が断ったらどうするの?」
「そうなっては仕方ありません。フェルンに預けることになるでしょうね」
「……いい。私が預かっておく」
そのまま本を受け取る以外にない。フェルンにそんなことさせるぐらいなら私がした方がマシだろう。こんなことにフェルンを巻き込む訳にはいかない。仮……ではなく私はフェルンの師匠なのだから。威厳は保たなくては。
「フリーレン、さっきの言葉をヒンメルとアイゼンにも伝えてあげてください。私だけ抜け駆けしたと言われてしまいますからね」
「分かった。アイゼンにはすぐに伝えに行くよ。ヒンメルには……ちょっと時間はかかるかもしれないけど、天国で」
「そうですか。安心しました。ヒンメルと一緒に待っていますよ。もしかしたらそれほど時間はかからないかもしれませんが」
「何のこと?」
「それはお楽しみということで」
「生臭坊主」
最後まで意味深なことを言いながらハイターは私を振り回してくる。それに応じる私。それを懐かしいと感じる私。ならきっと、私は少しは進めているのだろう。これからも私はみんなに置いて行かれるのだろう。それでもかまわない。私には、私にしかできないことがある。みんなの記憶を、記録を未来に連れていく、葬送としての役割が。
翌日、ハイターは旅立っていった。フリーレンとフェルンに見守られながら。親友である勇者ヒンメルの下へと――――
「ありがとうございました、フリーレン様。おかげでちゃんとハイター様を見送ることができました」
「私は借りを返しただけだよ。結局返しきれなかったけど」
その名が刻まれた墓石に大好きだったお酒をかける。きっと我慢していた分、向こうで二人で酒盛りでもしているのだろう。それを知ればきっとアウラに怒られてしまうに違いない。
そのまま花の冠を墓石に被せる。フェルンが花畑を出す魔法で出した蒼月草で作った物。ヒンメルと同じ、ハイターの故郷の花。今の私はそれを覚えている。もう忘れることはない。
「フリーレン様、これからどうされるのですか?」
「そうだね。とりあえずクヴァールっていう魔族を封印した村に。それからアイゼンの所かな」
「アイゼン……戦士アイゼン様ですね」
フェルンの言葉にそう答える。ハイターの言う通りになるのは癪だが仕方ない。こればっかりはどうしようもない。早くアイゼンの所に行きたいがそっちが優先だ。それでも憂鬱になるのは許してほしい。
「……ちょっと聞きたいんだけど、フェルンはアウラに会いたい?」
「アウラ様にですか? もちろんです。頂いた本のお礼もまだですし、リーニエ様にもお会いしたいです」
「そっか……なら仕方ないかな」
さらに憂鬱になる事実。自分では踏ん切りがつかないのでフェルンに後押ししてもらう。うん、やっぱりそうなるか。分かっていた。ならさっさと済ますことにしよう。嫌なことはさっさと済まさなければ。
葬送の旅は続く。新たな仲間と共に。その鞄の中には道標となる日記が。そして左薬指には鏡蓮華の花が輝いていた――――