第五十三話 「悪意」
魔王討伐から八年後。中央諸国グレーゼ森林にある村にて。
「…………」
ただ黙々と手にある本を読み進める。魔導書ではなく、裁判に関係する書物。何度も読み返したことがある物。にも関わらず、また新たなことに気づかされる。以前の私では気づくことができなかったのだろう。それは私が変わったことを意味する。ヒンメルならそれは成長だと言うのだろう。私にとってそれは何なのか。まだそれは分からない。ただ思い出すのはあいつに従わされてから間もなくの頃。よくこうしてここで本を借りて読んでいた記憶。魔族からすれば瞬きほどの時間だが、それでも自分にとっては懐かしむほどには濃密な時間だったのは間違いない。そんなことを考えていると
「紅茶でもいかかですか、アウラ様」
「……ありがとう、もらうわ」
横からそうティーカップが差し出されてくる。そこには見慣れた人間、村長の姿があった。それも当然。ここは村長の家。その書斎にお邪魔させてもらってるのだから。勝手にやっているのだから放っておけばいいのに、こうして構ってくるあたり、本当に人間というのは愚か、いや暇なのだろう。それに間を置かずに返せる自分も他人のことは言えないのかもしれない。
「でも様付けは止めて頂戴。調子が狂うわ」
「そうですか? 聖都でも様付けで呼ばれていると聞きましたが?」
「……ええ。いい迷惑だわ」
その現実に辟易するしかない。それは聖都でのこと。あの生臭坊主の口車、もとい策略によって私は定期的に聖都に行き来するようになってしまった。最近では一時的に滞在することもあるほど。その影響もあってか、聖都の人間たちから様付けされることが常になりつつあった。悪夢でしかない。この村でも私はそう呼ばれているが、それとはまったく意味が違う。
聖都の民たちが私を観察する、見る目はある種の忠誠だった。そう、初めて見た裁判の場で感じた空気のそれ。恐らくはそれが信仰なのだろう。私が
「そういえばリーニエはどうしたのですか? 姿が見えませんが?」
「今はリリーが面倒を見てくれてるわ。あの子がいると静かに本も読めないから」
紅茶を口にしながらそう答える。今この場にはリーニエはいない。正確には家に置いてきている。人間風に言えば留守番だったか。ちょうどリリーも家に来ていたので預けてきた形。家にも書斎はあるが、あの子がいてはまともに読書もできない。なのでこうしてたまに抜け出すことが私の日課になりつつある。
「なるほど。子育ても大変ですな……いえ、貴方にとっては部下でしたか」
「
「それはそれは。私たちもアウラ様を頼りにさせてもらっているのでお互い様ですな」
どこかの筋肉馬鹿の助言に従うわけではないが、やはり効果はあるのだろう。ただの言葉の言い換えなのだが、人間たちにとっては全く違うらしい。もっとも目の前の村長は全て理解した上で合わせてくれているだけなのだろうが。
そして人間にとっても月日の流れは本当に早い。少し前まではリーニエと同じぐらいだったはずのリリーとシュトロが今はもう大人になりつつある。特にリリーはそれが顕著だ。リーニエの扱いもだが、魔族である私よりもよっぽど子育てに向いているだろう。それに比べると劣っているがシュトロも変わってきている。まずスカート捲りをしなくなった。何でも、もう卒業したのだとかどうとか。それが逆に気になったのか、自分からスカートを捲り上げて見せる奇行をするリーニエを矯正するのには苦労した。今は何やら村長に教えてもらっているらしい。何でも神父を目指しているのだとか何とか。あんなものの何が楽しいのか分からないが。
村長もその例外ではない。もともと老いぼれていたが、ここ最近はそれがさらに進んでいる。あえては口にしないがそう長くはないだろう。もっとも言うまでもなく、本人はそれを自覚しているのだろうが。本当に人間の寿命は短い。なのにこんなに無駄なことばかりしている暇があるとは。やはり私には理解できない。
「それで、何を調べておられるのですか? 今のアウラ様でも悩むようなことが?」
「……悪意ってものを調べてるのよ。私たち魔族には分からないものだから」
そんな私の沈黙をどう受け取ったのか。村長はそう尋ねてくる。やはり神父というのはこういった連中ばかりなのだろう。それに呆れながらも答えることにする。
悪意。
それが今、私が調べている言葉であり概念。償いや家族に続く、魔族である私には理解できないものだった。
「悪意、ですか……何故それを?」
「裁判を行う時に必ずと言っていいほどその言葉が出てくるのよ。悪意があっただの、なかっただの……意味が分からないわ。どうしてそれのあるなしで量刑が変わるわけ? 結果は同じじゃない」
本当ならそんなもの、気にする必要はないのだがどうしても聖都で裁判に関わる以上それがついて回ってくる。悪意があったか、なかったか。たったそれだけで同じ犯罪でも量刑が変わってくる。そもそも罪の概念が理解できないのは置いておくとしても悪意についてはその比ではない。こうして同じ判例の本を読み返してもやはりその差を理解できない。
「食べるわけでも、本能でもなく相手を傷つける意味が理解できないのよ。何でそんな無駄なことをしているのかしら?」
悪意のある行動。それによる差別とかいう無駄な行動。同じ人間の癖に、生まれがどうだの、住んでいる場所がどうだの、性別がどうだので争っている。意味が分からない。何故そんなことをしているのか。強い者が弱い者を従える。弱い者はそれに従う。ただそれだけのことが何故守れないのか。
「極めつけが神官の連中よ。一番それを守らなければいけない奴らが公平に裁判をしていないんだから。本当に愚かな連中ね」
その最たるものが聖都の神官連中だろう。御大層な女神の教えや教典で平等を謡っているくせに、自分たちは公平な裁きを行っていないのだから。権力争いに買収。それらも悪意によるものらしいが、笑い話だ。まともに天秤で量ることすらできないのだろうか。
「そうですか……それをハイター様には?」
「何度も言ったわよ。でもいつものように笑ってはぐらかされるだけだったわ。流石は生臭坊主ね。あんたならそれが分かる、村長?」
あの生臭坊主には当然指摘したが、のらりくらりとかわされるだけで要領を得なかった。恐らくは私には説明しづらい類のことだったのだろう。それもあって私はここにやってきた。生臭坊主では無理でも、村長なら。そんな単純な理由。
「そうですな……きっとそれは自分ではないものを、違うものを怖がることなのでしょう」
少し思案した後、村長はそう私に伝えてくる。しかしその内容は、やはり私には理解できない物だった。
「怖がる……? 意味が分からないわ。何で怖いものを傷つけるわけ? 矛盾してるわよ」
怖がる。恐怖する、ということなのだろう。それが悪意と関係があるらしい。だが分からない。なら何故その怖いものを傷つけるようなことをするのか。そんなことをすれば自分が危険な目に会いかねないというのに。完全に矛盾している。
「かもしれません。ですがそれが人間なのです。我々は一人一人ではか弱い。だからこそ違うものを排除しようとするのです。個で完結している
人間はか弱い。それは事実だ。魔族に比べれば脆弱すぎる存在。だからこそ人間たちは徒党を組んでいる。群体という生態。私たち魔族にはない習性。それによって悪意が生まれるのだろうか。だとしたら私たちにそれがないのは当たり前だろう。
「でもそれで良かったのかもしれません。もし
どこか遠くを見ながら村長はそう呟いている。まるでそれは独り言だった。言葉通りに受け取るなら、悪意があれば私たち魔族は人間共に負けることはなかったということなのか。理解できない。そんなもののあるなしで、あの戦争の結果が変わるはずもないというのに。
「何よそれ。全然答えになってないわよ」
「ただの戯言です。お気になされずに。ですが悪意が理解できないことは決して悪いことではないと、最近私は思い始めていまして。悪意がない、ということは誰にでも平等、公平であることを意味しています。神官として、天秤のアウラ様には一番相応しいことでしょう」
「……あんた、わざと言ってるでしょう?」
結局村長にも煙に巻かれてしまう。もしかしたら悪意が何なのか、こいつらも分かっていないのかもしれない。悪意がないことが平等になる理由もさっぱりだ。分かるのは天秤という私の二つ名を口にしたかったであろうことだけ。あの生臭坊主とクズ勇者の目論見通り、私の二つ名は断頭台から天秤に上書きされつつある。元々人間共に付けられた二つ名がどうなろうと知ったことではないが、人間たちの変わり身の早さはもはや呆れを通り越して感心してしまう。
「そんなことは。悪意がないということは純粋であることでもありますから。ほら、どうやらその申し子がやってきたようですよ?」
「はぁ?」
「――アウラ様!」
何のこと、と聞く間もなく勢いよくドアが開く音と共にその申し子が襲来する。今日も今日とて元気の塊のような存在。純粋、というのは間違いではないのだろうがそれにも限度があるだろう。全く成長していない。なまじ近くにリリーとシュトロがいるから余計にそう感じてしまう。
「リーニエ? 家で大人しくしているように言ったでしょう? リリーはどうしたわけ?」
「ごめんなさい……姉さん。リーニエがどうしてもって言うから」
後に続くように、慌てながら息も絶え絶えにリリーがやってくる。だが無理もない。いきなりリーニエが走り出せば私はもちろん、ヒンメルでも手に余る。腐っても魔族なのだから。いや、魔族云々はリーニエには関係ないのかもしれないが。そんな私たちの苦労など知る由もなく
「アウラ様! ヒンメルたちが帰ってきた!」
興奮しながらリーニエはそう私に伝えてくる。本人からすれば従者として報告に来たつもりなのだろう。そのせいで留守番するように命じられたことを忘れてしまっている。主としてどうしたものかと頭を悩ませているのだがそれはともかく。どうやらヒンメルが帰って来たらしい。今回は少し長旅になると言っていたがもう終わったのか。そろそろ一月ぐらいになるはず。戻ってくる前には手紙を出すように言っていたがそれもなかった。だが何よりも
「ヒンメル……たち?」
その報告の違和感に思わず首を傾げてしまう。普段なら付かない、余分な物が混じっている。それが一体何を意味するのか
「ちょっと見ない間に大きくなりましたね、リーニエ?」
聞き覚えのある、生臭坊主の声によって間もなく私は身を以て知ることになるのだった。
「そんなに変わってないじゃない」
「ここに来てから五センチ伸びた」
それを誇示するように、背伸びをしているリーニエに呆れるしかない。今私たちは自宅へと戻っていた。あの後、リーニエによって引っ張られるように連れて帰られてしまったからだ。そこには旅から帰ってきたヒンメルたちの姿があった。そのたち、の中の一人が目の前で胡散臭い笑みを浮かべている神父に他ならない。
「それは凄いですね。あと五十年もすればここにいる誰よりも大きくなれますよ」
「その頃には飴坊主は老いぼれて死んでる」
「はっはっはっ! いけませんよ、そんなことを言っては。悪い子には飴はあげません」
「……ハイター大好き」
「仕方がありませんね」
「完全に孫だな」
完全にハイターの掌の上で転がされてしまっているリーニエ。傍から見ればただの詐欺師だろう。もしかしたら逆に自分からリーニエに騙されに行っているのかもしれない。そのままいつものように袖から出てきた飴によって買収されてしまうリーニエ。本当にこいつは神父なのか。わざわざリンゴ味の飴を用意している辺りが本当にこいつらしい。それを見て私と同じように呆れているもう一人の来訪者アイゼン。どうやらこいつも変わりないらしい。
「連れて帰ってくるなら言いなさいよ、ヒンメル……」
「悪かったよ。でもハイターの奴が急に言い出すから……」
「まあまあいいじゃないですか。こんな機会でもないと寄ることがありませんから」
「お邪魔しているとは思えん態度だな」
そんな光景を見つめながらどこか楽し気なヒンメルにそう悪態をつくも、ハイターがそれを擁護し、アイゼンがツッコミを入れる。あのエルフがいないので不完全ではあるが、それが今の勇者一行の姿。私にとっては完全に腐れ縁になりつつある連中との日常だった――――