第七十三話 「退屈」
「退屈ね……」
思わずそう独り言を漏らしてしまう。嘘偽りない本音。それに応える者もこの場にはいない。ただ意味もなく腰掛けている椅子を鳴らしてみるもすぐ止める。時間の無駄だろう。何とはなしに周りに目を向ける。そこには生活感のない、みすぼらしい部屋があるだけ。当然だ。ここは文字通り、廃屋なのだから。
あの日。ヒンメルから解放されてから一月が経とうとしていた。初めの二週間ほどは、当てもなく放浪していた。仕方ないだろう。私には目的地なんてものはなかったのだから。何の前触れもなく突然解放という名のお払い箱にされてしまった私には。
そんなこんなで彷徨っていたのだが、つい二週間ほど前にここ、人里から離れた山奥にある廃屋を見つけ、そこを住処にしている。魔族であれば珍しいことではない。かくいう私もかつては人間共が使っていた古城を住処にしていたこともある。それに比べれば雲泥の差だが、野宿するよりはマシだろう。
そこでようやくここが北部、かつて私が支配していた土地であることに気づいた。妙な偶然もあるものだ。帰巣本能なんて物が私たちにあるとは思えないが。ただ五十年前と何も変わってはいなかった。いや、変わったのは私の方なのかもしれない。
(何やってるのかしら、私……)
何度目になるか分からない溜息を吐きながら、頬杖をつく。やる気が出ない。だらけきっている。だがどうしようもない。私は考えていなかったのだ。服従から解放されたい。ただそれだけを願っていたのに、それから先どうするかなんて当り前のことを。最近はただそれだけを考えている。私は自由になって何がしたかったのか。でもそれが思い浮かんでこない。なのでその逆、服従させられる前はどんな生活をしていたかを思い返すことにした。
もっとも、思い出しても今とそう変わらなかった。魔力の鍛錬をしたり、死者の軍勢を増やしたり、たまにやってくる魔王様の命令に従って村を滅ぼしたり、気紛れで人間を殺したり。気の向くままに。それが自由ということなのだろう。その頃から暇を持て余していたのだと今になって気づくなんて笑い話でしかない。これでは人間たちを馬鹿にできない。
今の生活に違和感を覚えてしまっている自分。いかに人間社会が忙しなかったのか。その時間が濃かったのか。もう一月経ってしまったのか、それともまだ一月しか経っていないのか。それに慣らされてしまった自分の方が魔族として異端になってしまっているのだろう。
あれから一度も人間には会っていない。人里にも降りていない。単純に人間に見つかっては面倒になるからだ。そうなれば人間たちの討伐隊、戦士や魔法使いがやってきてしまう。後れを取るつもりなどないが、油断や慢心は危険だ。見つからないに越したことはない。
何よりも天秤扱いが面倒だ。ここは中央ではなく北部だが、私のことを知っている連中がいる可能性もある。その忠誠よりも厄介な信仰に巻き込まれれば服従させられていた頃と何も変わらない。またそれに利用されてしまう。そう危惧していたのだが、すぐに気づいた。そもそも自分は自由になった。そんな心配はない。もう奴隷でも愛玩動物でもないのだと。人間を恐れる必要などない。逆に支配してやれば、気に入らないなら滅ぼしてやればいい。当然の摂理。それを忘れているなんて。服従させられていた頃の習慣をなくすには一体どれだけ時間がかかるのか。下手をしたら百年かかりかねない。
「…………
そのまま何とはなしにその手に魔力で天秤を顕現させる。かつての仮初ではなく、本物の服従の天秤。結局解放されてから一度も使っていない。いや、使う必要がなかった。少なくとも、今の私には。
死者の軍勢をもう一度作り上げる。
以前の私なら間違いなくそうしていただろう。勇者たちも衰え、力を失っている。それを誰よりも私は知っている。なら今は絶好の好機。だが今の私は知ってしまっている。人間たちの力を、恐ろしさを。そんなことをすればあのエルフが私を殺しに来るだろう。もう一人のエルフ、ゼーリエも黙ってはいない。大陸魔法協会の連中もやってくるに違いない。国、国家という人間の集合体。ゾルトラークすら取り込み、今この瞬間も成長し続けている魔族にとって捕食物でありながら天敵でもある存在。それに私一人で立ち向かえるわけがない。するにしても今はその時ではない。何よりも
『そんなことは君はしないよ。分かってるさ』
そんな誰よりもお人好しの愚か者の言葉が、今も耳に残っているのだから。本当に、癪な奴。
(今頃あいつ、何をしてるのかしら……?)
知らずそんなことを考えてしまう。まだ村に残っているのか。いや、それはないだろう。あいつのことだ。すぐに王都に戻ったに違いない。もしかしたらアイゼンの所にも寄ったかもしれないが。半年ほどで
(断頭台に天秤、ね……)
天秤を眺めながら考える。断頭台に天秤。共に私を示す二つ名。その秤には何も載っていない。どちらにも傾かず、公平なまま。逆に言えば何の力もないということ。何者にもなり切れていない今の私自身のように。
服従させられている頃は間違いなく天秤だったのだろう。だが今、それが揺らいでいる。魔法使いとして、いや魔族として。今の自分はどちらにも傾き得る。躊躇っている。そう、私は理解している。その天秤を傾ける方法を。
断頭台に戻りたいのなら、ただ思うがままに力を振るえばいい。かつてのように。恐れる必要はない。服従の魔法の真価を私はもう理解したのだから。他でもない人間たちによって。それを用いればかつてのような醜態は晒すまい。生きた魔導書に予言されたように、人間共を支配し、次なる魔王に至れるだろう。
なら逆に、このまま天秤でありたいのなら。天秤であり続けるためにはどうすればいいのか。それが今の私には分からない。断頭台とは違って。五十年、そうしていたはずなのに。そのやり方が分からない。
いや、それは嘘だ。私は知っている。その方法を。そのために必要なことも。ヒンメルにも言われたこと。私には、新たな枷が必要なのだと。なのにそれを躊躇ってしまっている。それは
「お待たせ、アウラ様! ごはんができたよ!」
いつもと変わらず、楽しそうに食事を運んでくる我が従者の肩にかかっているのだから────
「いただきます!」
「……いただきます」
思わずこっちが釣られてしまうような声と共にリーニエは食べ始めてしまう。解放されようが何一つ変わらないのはこの子らしいと言えるだろう。いや、解放されたのは私だけで、この子は変わらず私に従わされているのだが。本人は全くそんなこと気にしていないのだろう。見れば分かる。
だが料理の腕はその限りではない。初めの頃とは雲泥の差だ。そういう意味ではヒンメルとの旅は無駄ではなかったのだろう。もっともリンゴが好物なのは変わっていない。その証拠に今もそれに噛り付いている。せっかくの料理の腕が台無しだ。本人曰くリンゴは丸かじりするのが一番美味しいらしい。欠片も理解できないが。そのまま私のために切り揃えられたリンゴをひとかけら口に放り込み、咀嚼する。そのまま飲み込む。ただ確認するように。
(やっぱり駄目ね……食欲は満たされても、根本的な解決にはならない)
食人欲求。それが満たされていないのは変わらない。腹が満たされればさほど気にならないが、やはりそれは消えない。この全身の倦怠感、気だるさもそれが理由だ。当然だろう。もう私は服従させられていないのだから。
『人間を食べてはならない』
『人間を傷つけてはならない』
『勇者から離れすぎてはいけない』
それがヒンメルに課せられた私の三つの枷だった。その内の一つ、離れすぎてはいけないについてはもう外している。一時的なものでもない。今の私はどこにだって行ける。縛られることはない。だが残る二つは違う。それを破れば、行えば私は本当の意味で魔族として自由になったことになるのだろう。同時にそれを忌避している自分がいる。人里から離れたこんな山奥で潜んでいるのもそれが理由だ。村からすぐ旅立ったのも。
何にせよ、今の私の状況はまるで勇者を恐れていたあの頃のよう。それから解放されたというのに、皮肉でしかない。いや、あの頃よりも酷いかもしれない。何をするでもなくここで怠惰に過ごし、その世話を従者であるリーニエにさせているのだから。それはそう、まるで
(もしかして今の私って、昔のあいつと同じなんじゃ……?)
いつかの、勇者という威光に縋りついていた無職だった頃の誰かと同じだった。
「? どうかしたの、アウラ様? おいしくなかった?」
「……いいえ、何でもないわ。いつも通りよ」
「ほんと!? よかった!」
食事に不手際があったのかと勘違いしているリーニエにそう誤魔化す。そう、あいつとは違うはず。そもそもこの子は私の従者なのだ。私の世話をするのは当然だ。何もおかしくはない。そもそも仕事なんて概念は私達にはそぐわない。それに毒されてしまっているだけだろう。ただ、そう。明日からは私も少し動くことにしよう。このままでは体が鈍ってしまう。ただそれだけ。他意はない。
そんな中、ふと気づく。それは目の前に並べられている食事。それ自体に不備はない。なのに違和感がある。考え事ばかりしていてすぐには気づけなかった。それは
「……リーニエ、どこでこんな食材手に入れたの?」
「…………」
それに使われている食材、彩が増していること。それ自体は好ましいこと。だが内容が問題だった。その中に、あり得ない物が混じっている。森の中で取れる山菜や、動物ではない。栽培しなければ手に入れることができない食材が含まれている。実際にそれらをかつて栽培していた私には一目瞭然だった。なのにそれを指摘してもリーニエは黙り込んだまま。微動だにせず、目を逸らしている。
「質問を変えるわ。最近あんたどこに行ってるの?」
「……遊びに」
「何をして遊んでるわけ?」
「…………」
なので質問を変えるも、すぐにリーニエはまた黙り込んでしまう。本当に分かり易い子だ。嘘をついてはいけないので、何も言えないのだろう。ここ最近のこの子の悪い癖。黙り込んでしまうこと自体がもう嘘をついているような物なのだが、もはや言うまい。
「都合が悪くなるとすぐだんまりね……いいわ。怒らないから言いなさい」
「……本当に怒らない?」
このままいつまでもにらめっこしていても時間の無駄なのでそう妥協することにする。それに恐る恐る聞いてくるリーニエ。そんなに私は怒ると怖いのだろうか。ヒンメルたちはこちらが怒っても飄々としているので分からないが、この子にとっては違うのだろう。同じ魔族だから、というのもあるかもしれない。ある意味本能か。
「嘘じゃないわ。あんたに嘘ついても意味ないじゃない」
この子に倣うわけではないが、私もそう事実を告げる。この子に嘘をつく意味などない。同じ魔族なのだから。そもそもその必要はない。生まれて間もない頃からこの子を従えているのだから。
「っ! うん、アウラ様大好き!」
「そう。良かったわね」
怒られる心配がなくなったからか、いつものように目を輝かせているリーニエ。本当に現金な子だ。それに呆れながらも、聞いてもいないことまで白状する我が従者に夜遅くまで付き合わされることになったのだった────
独り、獣道を進んでいく。昨夜、リーニエから聞いた通りに。本当なら飛んで行ってもいいのだが、人目に付く可能性もある。そのまま坂を上り、川を渡る。恐らくこの辺りがあの子の遊び場なのだろう。所々その痕跡が見て取れる。
それを抜けたところに整備された道があった。人間たちが使う道だろう。人里が近いことを意味している。あの子のことだ。夢中になってこんなところまで来てしまったに違いない。
そこからしばらく歩いた先、木々の開けた場所。そこにある平たい岩の上にその人間はいた。
少年だろうか。見た目はリーニエと同じかそれよりも幼いぐらい。何をするでもなくただぼうっと空を見上げている。魔力も何も感じない、ただの人間の子供。違うのは
「……誰かいるんですか?」
その少年には、私はおろか、見上げている空すら見えていなかったということだけ。
それがアウラと盲目の少年、ヴィルの定められた出会いだった────