ヒンメルはもういないじゃない【完結】   作:HAJI

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第七十五話 「自由」

「いただきます!」

「……いただきます」

 

 

いつもと変わらぬ光景。廃屋の住処でリーニエと夕食を共にする。テーブルに載せられた食事も変わらない。いや、昨日よりも豪華になっているぐらいだ。さっきヴィルからもらった食材のおかげだろう。村での食事と遜色ない物。なのにそれが色褪せて見える。食欲が刺激されない。その理由を理解しながらも、フォークで皿の上のリンゴを突き刺し、口に運ぶ。だが結果は同じだった。

 

 

(やっぱり駄目ね……)

 

 

知らず溜息を吐いてしまう。憂鬱な気分になってしまう。そう、こんなことは分かり切っている。この一月で何度も確認したこと。もうリンゴでは人間の代わりにはならないのだと。私は分かっていなかったのだろう。自由になる、服従から解放される。その本当の意味を。

 

そのままふと顔を上げる。そこにはいつものように、いやいつも以上に上機嫌にリンゴを頬張っているリーニエがいた。本当に美味しそうに食べている。食事が進んでいない私とは対照的だ。知らず視線が鋭くなってしまう。言葉にできない、何かどろどろした感情が生まれてくる。きっとそれは羨んでいるのだろう。いや、嫉妬しているのだ。何の制限もなく、衝動のままに欲求を満たしている目の前の魔族に対して。

 

 

「アウラ様? どうかしたの? お腹が減ってないの?」

「……ええ。あんたは気にせず食べなさい」

 

 

そんな私の気配を感じ取ったのか。それとも食事が進んでいないことを気にしていたのか。リーニエはそんなことを聞いてくるも、それを受け流す。知らず腕をかき抱いていた。そう。この子にあたっても仕方ない。この子には何の関係もないことなのだから。これは他でもない、私自身の問題。

 

 

「そういえばヴィルが言ってたわよ。あんたのこと友達だって」

「ほんと!? 良かった!」

 

 

そのまま何でもないことを話し続ける。いつもと変わらない下らない会話。本当ならここにヒンメルやハイターが加わるのでその騒がしさはこの比ではないのだが、その意味ではここ一月は静かになったと言えるだろう。もっともこの子の賑やかさが減ったわけではないのだが。

 

 

(でも本当に危なかったわ……まさか、あそこまで飢えてたなんて……)

 

 

リーニエとやり取りをしながら、先の食人衝動を思い出す。今考えても背筋が凍る。本当に紙一重だった。それを抑えられたのは奇跡に、いや偶然に近い。確かに久しぶりに人間に会うことに油断してしまっていた自分の落ち度もある。だがあんなに激しい衝動は五百年以上生きている私でも生まれて初めてだった。ヒンメルに見つからないために潜伏していた時期に人間を食べることを制限していたことがあったが、多少イライラしたりすることはあれど、あんな風になることはなかった。

 

 

(やっぱり……ずっと服従させられていたせいね)

 

 

その理由が五十年の服従生活にあったことにようやく私は辿り着いた。私はその間、ヒンメルによって服従の枷を嵌められていた。その中でも大きかったのは三箇条だったが、それ以外にも細かな制限があった。その中でも、ある意味三箇条以上に重要な枷となっていたのが暗示による食人衝動の抑制。リンゴを人間だと思い込むことでその衝動を抑えるための物。あまりにも当たり前すぎたため、私はその重要性を本当の意味で理解できていなかったのだ。

 

いわば私は、この五十年間ずっと毎日好きなだけ人間を食べているような状態だったのだと。

 

自由だった頃も好きに人間を食べていたが、それでもそこまでではなかった。当たり前だ。人間を食べるのは相応のリスクがある。それを狩る時に抵抗される危険もあれば、見つかれば討伐される危険もある。長い間保管ができるわけでもない。しかしそれらを全く無視し、気軽に私はそれを口にしていた。リンゴという食材であるが故に。

 

今の私はそれを五十年間続けていたのに、ここ一月絶食になってしまっていたようなもの。そこに本来の好物である人間の子供が目の前に現れたことで、限界を超えてしまったのだろう。

 

 

(何なのよ……それ……?)

 

 

知らず顔を手で覆いながらうなだれるしかない。笑い話だ。ようやく、ようやく五十年待ち焦がれた自由を手にしたというのに、なぜこんなことになっているのか。そう、私は分かっていなかったのだ。自由になるというのが何を意味しているのか。そして今までの服従生活が本当は何を意味していたのか。

 

そう、私は奴隷でありながら家畜だったのだ。自由を差し出す代わりに、安全を保障された生活。外敵に襲われることもなく、飢えることもなく好きなだけ食事をとれる。魔法の鍛錬もできる。生き物としての欲求も満たされている。そのどれもヒンメルに与えられていたという事実。それに慣れてしまっている、飼い慣らされてしまっていた私。

 

そう、今の私は本能を、餌の取り方を忘れてしまっている、野生に戻れなくなっている獣以下でしかない。

 

 

(こんな醜態晒すぐらいなら……いっそあのままだった方が……)

 

 

屈辱、恥辱でしかない。こんなことになるなら、苦しむことになるならあのままの方がずっと良かった。何も考えずとも、人間を襲うことも食べることもなく生きていけたあの生活。あいつがいた世界の方が。あいつの言う通りにしていれば間違いはなかった。なら私は解放されなかった方が

 

 

(っ!? 私、一体何を……!?)

 

 

瞬間、我に返る。あり得ない。今私は一体何を考えていたのか。あり得ない。一体どこまで私は服従させられてしまっていたのか。習慣、いや習性と言えるまでにあいつに染められてしまっていたのか。それに恐ろしさを、恐怖を覚える。こうじゃない。こうじゃなかったはずだ。私が求めていた自由は。いや、そもそも自由とは何なのか。そんな魔族らしくない、まるで人間のような疑問を抱いていると

 

 

「アウラ様……やっぱり村に帰ろうよ」

 

 

それを見抜いたかのようなタイミングで、リーニエはそんなことを私に提案してきた。

 

 

「……どうしたのよ? もう飽きたってわけ?」

「ううん。そうじゃないんだけど……アウラ様、楽しくなさそうだから。リリーも言ってたよ? いつでも帰ってきていいって」

 

 

その内容も、ある意味リーニエらしいものだった。この子は今の状況も正確には理解できていないのだろう。せいぜい私と少し二人旅に出ているぐらいの感覚なのかもしれない。楽しくなさそう、か。この子からも今の私はそう見えているらしい。そういえばあいつは楽しかったとか言っていたか。なら今の私はそうではないのだろう。

 

 

「そんなことないわ。ならあんただけで帰ればいいじゃない」

 

 

それを認めず、否定しながらそうリーニエに促す。そう、今のリーニエならそれができる。そもそもリーニエに私は何の服従の枷も嵌めていない。あるのはヒンメルが残している命令だけ。私が解放されてもこの子への命令は消えない。それはこの子をヒンメルが服従させた時から分かっていること。離れてはならないと言う命令は既にヒンメルによって外されている。リーニエは一人でどこにだって行けるのだ。この子が私に従っているのは服従の魔法ではなく、魔族の本能によるもの。そこには何の強制力もありはしない。だというのに

 

 

「そんなことしないよ。だって私はアウラ様の従者なんだから!」

 

 

自信満々に、当然のようにリーニエはそう宣言してくる。まるでそれが楽しいかのように。いくら魔族の本能だとしてもやりすぎだろう。見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。

 

 

「……そう。好きにすればいいわ」

 

 

それを誤魔化すように目を逸らしながらも、ふと思い出す。それはあの日の、別れ際のヒンメルの言葉。

 

 

『君だって分かってるだろう、アウラ? そんな心配はもういらないって。僕がいなくても、君にはもうリーニエがいるんだから。あの子が君の新しい道標になってくれるよ』

 

 

私が人間を食べたらどうするのかという問いに、ヒンメルはそう答えた。その意味も、私はその時から理解していた。ヒンメルがいなくとも、新たな枷を自分に課せば食人欲求を、問題を解決できることを。その鍵がリーニエであると。

 

 

(本当に癪な奴ね……)

 

 

ヒンメルもこうなることが分かっていたのだろう。きっと五十年前から。それをどうすればいいのかも。本当に先のことばかり考えている奴だ。もっとも私自身も、ヒンメルほど早くはないだろうが、その答えを見つけていた。

 

それはかつてのハイターとのやり取り。聖都に借り出されるようになってから、少し経った頃だったか。

 

 

『どうしてあんたたちは教典や法律で自分を縛ってるわけ? こんな無駄なことしてないで、好きに生きればいいじゃない』

 

 

それは当時の私の単純な疑問だった。教典や法律と言われるルールで人間たちは自分たちを縛っている、制限している。殺してはならない、盗んではならない、騙してはならない。生き物の本能に逆らう行為。矛盾している無駄な行為。何故そんなことをしているのか。自由や平等とやらを謳っているくせに、やっていることは真逆でしかない。

 

 

『私達はそうやって自分を律しているのです。そうしなければ自分たちが身を滅ぼしてしまうことを知っているからです。あなたに分かり易く言うなら……そうですね。自分で自分を服従させているのですよ。今の貴方のようにね。そこが私たちと魔族(あなた)たちの一番の違いかもしれませんね』

 

 

いつものように飄々としながら、それでもどこか憂いを帯びながらハイターはそう答えを口にした。相変わらず遠回しな言い回しをする奴だな、とその時は思っていた。だが今ならその意味が分かる。きっとあいつも、ヒンメルのように分かっていたのだ。私がこの先、それに向き合うことになるのだと。

 

 

『最近思うのです。貴方のその魔法は、もしかしたら魔族を律するために与えられたのではないかと』

 

 

それを導くための言葉を、私に贈っていたのだと。らしくない、聖職者のような真似事をして。

 

 

『ならあんたは酒で身を滅ぼさないように自分を律しなさい』

『はっはっはっ、これは手厳しいですな』

 

 

いつものような癇に障る生臭坊主の笑い声を思い出しながらも、思考を切り替える。

 

 

自らを服従させる。服従の魔法のもう一つの使い方。それを私はヒンメルによって身を以て教えられた。だがそれは私一人ではできない。そのためには天秤に魂を載せる相手が必要。しかしそれにはとてつもないリスクを伴う。それはいわば生殺与奪の権利を他人に委ねるに等しい行為。愚かでしかない。私がそれを委ねられるのはヒンメルかハイター、アイゼンぐらいだろう。今更ハイターたちにそれを頼むなんてあり得ない。何のために解放されたのか分からない。なら、それを頼める相手は一人しかいない。

 

 

「あんた……今、私に従ってて楽しいわけ?」

 

 

知らずかつてのヒンメルと同じ質問をリーニエにしてしまう。そこでようやく悟る。あの時のヒンメルの気持ちを。あいつは不安だったのだろう。自分に従っている相手が、従わせてしまっている相手が自分をどう思っているかが。私も服従の魔法を使っているわけではないが、魔族としてリーニエを服従させている。縛り付けている。自由を奪っているのだから。

 

そう、私は恐れてしまっている。リーニエを。天秤を預けた瞬間に、傾けた瞬間に裏切られてしまうのではないか、従わされてしまうのではないかと。魔族が叛意を抱くなんて珍しいことではない。従っているとはいっても所詮は魔族。隙を見せれば、弱みを見せれば取って代わられることもある。

 

そもそも今私が考えているのは己を服従させる、律する行為。誰かに服従させられるのではなく、自ら。魔族であることを否定するにも等しい行為。それに忌避感を覚える。当たり前だ。これは言わばあのエルフがしていること、魔力の偽装に等しい行為。魔族の誇りを愚弄し、貶める行為。服従させられている間、私は再び服従の魔法(アゼリューゼ)が自由に使えなくなってしまうのだから。自らそれを望むなど。

 

 

「うん、楽しいよ。何かおかしい?」

 

 

そんな私の葛藤を知ることなく、偽ることなくヒンメルと同じ答えをリーニエは口にする。それが真実なのか分からない。命令に従っているふりをして欺いているのかもしれない。魔族なら当たり前。何もおかしくはない。

 

だがそれを確かめる術が自分にはある。服従の魔法(アゼリューゼ)ならそれができる。かつてリーニエにも使ったことがある。生き延びたいだけ。それがあの時のリーニエの答え。ならば今はどうなのか。

 

 

「…………」

 

 

天秤を顕現させ、それを実行しかけるも手が止まる。そうだ、ヒンメルもまたそれを自分に使うことは決してなかった。それは何故だったのか。

 

 

「……そうだったわね。あんたは小さい頃から変わり者だったものね」

「むぅ……」

 

 

それに蓋をしたまま、問題を先送りにすることにする。そう、焦ることはない。時間はいくらでもあるのだから。まだ一月だ。五十年に比べれば、瞬きのような時間だろう。

 

 

「そういえば言い忘れてたわ。明日、私の代わりにあの子、ヴィルに会いに行って頂戴。約束したけど、私は用事があって行けそうにないから」

 

 

今日は自分で洗い物をしようと立ち上がりながらそうリーニエに命令する。忘れるところだった。本当は無視してもいいのだが、仕方ない。同じ轍を踏むわけにはいかないのでその役割をリーニエに与える。同じ醜態を晒す気は毛頭ないが、念には念を。だがそんな私の嘘を

 

 

「……何でそんな嘘をつくの、アウラ様?」

 

 

嘘をつかない魔族であるリーニエは、いとも簡単に見破ってきた。

 

 

「嘘なんかついてないわ……何でそんなこと」

 

 

知らず動揺しながらそう答えるも、自分自身が誰よりも理解していた。自らの矛盾を。昨日リーニエに嘘はつかないと言ったばかりだというのに。嘘をつかずに生きろと命令した私が。

 

 

「だって約束は守らないとダメだってヒンメルが言ってた!」

 

 

今度はそのリーニエに突きつけられる。私の矛盾の根源。それが何であるかを。まるでそう。勇者一行(あいつら)のように。それに倣うように。

 

 

「……うるさいわね。ヒンメルはもういないじゃない」

 

 

知らずそれに憤り、歯を食いしばりながらそう言い返すのが精一杯だった。そう、もうこの場にはヒンメルはいない。ならそんなことを守る必要なんてない。魔族の子供にだって分かる。だというのに何故この子はそれが分からないのか。何で私はそれにこんなに苛立っているのか。

 

 

「…………」

「……リーニエ?」

 

 

だがそんな私を前にしてリーニエは一言も発さず黙り込んだまま。もしや言いすぎてしまったか。いや、この子はそんなことを気にするような子ではない。その証拠にリーニエは立ち尽くしたまま。その目がここではないどこかに焦点を合わせている。無機質さを感じさせる雰囲気。私は知っている。それが魔族としてのリーニエの貌であることを。

 

 

「魔力を持った奴が近づいてきてる。迎え撃つね」

 

 

まるで獲物を見つけた猟犬のように。迅速にその手に勇者の剣を握りながらリーニエは廃屋を飛び出していく。一瞬遅れながらも私もそれに続く。そこで私の魔力探知にも反応がある。それによって悟る。それが何を意味するか。

 

 

「……断頭台のアウラか」

 

 

近づいてくる魔力と共に、そんな声がかけられた。それに合わせるように私の前にリーニエが出る。従者として主人である私を守るように。だがそんなことは私にはどうでも良かった。あるのは違和感と共に湧き上がる懐かしさだけ。何故ならその二つ名で呼ばれるのは、呼ぶのはもはや人間にはいなかったのだから。

 

 

『戦斧のグロース』

 

 

それが目の前にいる魔族の名前。その名の通り、魔法ではなく、武を極めた強者の証である『将軍』の称号を持つ存在。

 

 

何よりも、私にとっては五十年ぶりの自由に生きている同族(わたし)との再会でもあった────

 

 

 

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