第八十七話 「故郷」
「早く早く、アウラ様!」
「そんなに慌てなくても逃げやしないわよ」
興奮し、気が逸っているのか。リーニエはこちらを急かしながら先へ先へと進んでいく。それを諫めるも焼け石に水。だが無理もない。リーニエにとってはこの半年楽しみにしていた行事でもあるのだから。
今、私たちは中央へと戻ってきていた。私たちの村への帰り道の最中。
(あの
あの薄情者のエルフのせい。それがなければさっさと会いに行ってもよかったのだが、そうはいかない。あまりに早く帰ってしまうと、まだ事情を知らないあのエルフと接触してしまう危険がある。それは避けなくてはならない。今の私にとっては人間共でも大陸魔法協会でもなく、あのエルフが一番の脅威なのだから。
(そうなっても負ける気は毛頭ないけど……戦うのは最終手段。逃げるが勝ちね)
その手に天秤を顕現させながら思考する。想定する。この五十年、ただそれだけを見越して鍛錬を積んできた。五十年前の雪辱を晴らすために。今の私はもうかつてとは違う。服従から解放され、天秤も扱える。あいつの魔力の偽装も知っている。死の軍勢に勝るとも劣らない従者もいる。魔法使いの前衛として勇者に育てられた例外が。切り札もある。勝算は十分ある。
だがそれは最終手段だ。奇しくもつい先ほどレルネンに言ったことでもある。馬鹿正直に戦う必要なんてない。そんなのは愚か者がすることだ。五十年前のように、逃げ延びればいい。それが私にとっては勝ちなのだ。相手を欺き、騙すのが私たちの在り方なのだから。
(そもそもあのエルフが約束通りやって来てたらの話だけど……)
天秤をしまい、ローブを被り直しながらそもそもの、前提の話に戻ってしまう。アイゼンはああ言っていたが、五十年間手紙の一つも寄こさなかったあのエルフのことだ。やって来なかった可能性もある。そうなればこれまでの全てが取り越し苦労になってしまう。私はもちろんだが、ヒンメルにとっては五十年分か。アイゼンではないが、罪な女になるのだろう。もっとも当の本人は罪だとは思っていないだろうが。そもそもこれはヒンメルの自業自得でもある。
(あいつ、ちゃんと言えたのかしら……?)
そう、全てはあいつが格好をつけてしまったから。五十年前に贈った指輪の花言葉の意味を伝えていれば、王都に残ってほしいと告げていればこんなことにはなっていなかったのだから。それを散々私が指摘する始末。普段は即断即決、行動力の塊のくせに、自分のことになると途端に駄目になってしまう。ある意味あいつらしいと言えばらしいのかもしれないが。それは無理だとしても、約束した通り、私の事情だけは伝えてもらわなくては。三日三晩泣き喚かれることになっても知ったことではない。
(友達、ね……)
思い出すのはヒンメルが口にしていたふざけた命令、いやお願いか。何度考えても怖気が走る。呪いでもかけられた気がする。ヒンメルであれなのだ。あのエルフとなんて百年どころか、千年経ってもできる気がしない。まだゼーリエの方がマシだろう。こればっかりはヒンメルの奴があいつを口説き落とせるかにかかっている。私にできることは何もない。そもそもする気もない。
ただ歩き続ける。飛行魔法は使っていない。人間に見つかると面倒なことになるのもあるが、知らずあの時に倣っていたのかもしれない。ちょうど半年前、ヒンメルと一緒に旅だと称して村へと向かった時の。あいつに言わせれば冒険か。杖をついている誰かさんがいないので、あの時よりもずっと早く進める。リーニエに引っ張られているのか。いや、私も知らず早足になってしまっているのだろう。これではリーニエのことを言えないかもしれない。
見慣れた光景が、山道が見えてくる。飽きるほど通った帰り道。たった半年ぶりなのに、随分久しぶりな気がする。矛盾した感覚。
もう一度自分の身なりを整える。水浴びは済ませた。服も新調している。アクセサリもちゃんと身に着けている。何もおかしいところはないはず。知らず高揚している自分がいる。それを悟られないように平静を装う。だがきっとあいつには見抜かれてしまうのだろう。そういうことには本当に目ざとい奴だ。
もっとも、村にあいつがいるとは限らない。まだ王都にいる可能性だってある。それでも先にこっちに寄ってきた。ただ何となく、あいつならここで待っている気がしたから。約束したこの場所に。
「ただいま! 今帰ったよ!」
私よりも遥かに早く、以前と同じようにリーニエが先に村に辿り着く。それを遠目に見ながらゆっくりとその後に続く。ただいま、という言葉と共に。習慣になってしまったもの。
「っ! リーニエなの……?」
少しの間の後、驚いた様子でリリーが出迎えてくれている。半年前と変わらない姿。もっとももう子供ではないので、容姿がそうそう変わることはないが。いきなり帰ってきたことで驚いてしまったのだろう。ヒンメルのように帰ることを手紙で伝えたりはしていないので当然か。
「うん。ただいまリリー! またちょっと老けた?」
「相変わらずね……ええ、元気よ。久しぶりね。元気にしてた?」
「もちろん! たったの半年だもん。あ、そうだ! 見て見てリリー! ヒンメルの剣が二本になったんだよ? アイゼンがくれたの!」
「そう……良かったわね。リーニエ、その剣は大事にしないと駄目よ。それはヒンメル様の……」
何を喋っているのかは聞こえないが、大体想像はつく。リーニエがその両手にある剣を見せびらかしているからだ。きっとそれがしたくて仕方なかったのだろう。本当に同い年とは思えないような有様。きっと人間と魔族の違いだけではないだろう。
「久しぶりね、リリー」
リーニエに少し遅れながらそう挨拶する。久しぶり、と人間に倣いながら。だが半分は私自身の感覚でもある。しかし
「姉さん……一緒だったんですね」
「? ええ……何かおかしい? それとももう来ないと思ってたってわけ?」
「そんなことは……おかえりなさい、姉さん。お元気そうで何よりです」
「あんたもね。村の連中も変わりない?」
「はい……姉さんは今日、どうしてここに……?」
何か、いつもと違う。そうだ。いつもならこっちが呆れるぐらい、穏やかな笑みで出迎えてくれるのにそれがない。笑みは浮かべているが、どこか後ろ暗さを感じさせる雰囲気がある。一体何なのか。もう悪戯で叱られるような歳でもないだろうに。そもそもそれはシュトロの専売特許だったはず。
「妙なこと聞くのね? いつでも戻ってこいと言ってたのはあんたたちでしょ? リーニエがどうしてもって言うから寄ったのよ」
「アウラ様、嘘はいけないんだよ。アウラ様も楽しみにしてたのに」
「嘘は言ってないわ」
いつでも戻って来ていいと言っていたはずだが、嘘だったのだろうか。それとも解放された私たちに危害を加えられるかもしれないと恐れているのか。いや、それはないだろう。他の人間たちはともかく、この村の連中に限って。ヒンメルほどではないにしても、こっちが心配になるほどのお人好しばかりなのだから。
そして最近はお決まりになりつつあるリーニエとのやり取り。あの生臭坊主に倣った嘘のつき方。嘘を言わずに相手を欺く方法。もっともリリーにはお見通しだろうが。
「それはもういいわ。ヒンメルに会いに来たのよ。ここにいる? それともまだ王都かしら?」
戯れはこのぐらいでいいだろう。そうリリーに尋ねる。ヒンメルはどこにいるのか。ここにいるなら話が早いが、まだ王都だろうか。どっちにしてもあいつがどこにいるかは分かるはず。なのに
「姉さん……まだ、ご存知ないんですか……?」
リリーはその答えを口にすることなく、逆に問いかけてくる。知らないのか、と。一体何のことを言っているのか。私は知っていると思っているのか。
「? 何のことよ……?」
だがいくら考えても思い当たる節がない。できるのは首を傾げながら聞き返すことだけ。隣にいるリーニエもそれは同じ。
「リリー……ここから先は僕が」
そんな中、いつの間にかやってきていたシュトロがリリーの肩を抱きながら、代わって私に向き合ってくる。リリーはそのまま顔を俯けたまま。見たことのないような姿。いや、違う。私はそれを見たことがある。あれはいつだったか。
「シュトロ……? 一体何なのよ……?」
それが思い出せず、ただオウム返しのように聞き返すしかない。二人して一体何なのか。まるで私だけが何かに置いて行かれてしまったかのような違和感。それは
「姉さん……勇者様、ヒンメル様はここにはおられません。一月ほど前に、亡くなられたんです」
ヒンメルがここにはいないからだったらしい。
「……? そう。いないのね。なら今は王都に」
そうか。それでリリーはこんなに意気消沈しているのか。大袈裟な子だ。そんなことを気にするなんて。確かにここにいないのは残念だが、順番が前後しただけだ。王都にいるのだろう。ならここで今日は泊まって、明日王都に会いに行けば
「……違うんです、姉さん。ヒンメル様は、もう」
なのに、それは違うのだとシュトロは言う。分からない。何が違うのか。いや、分かっている。分からない振りをしている。何で。騙すために。誰を。決まってる。
「何言ってるのよ……? つくならもっとマシな嘘をつきなさい」
動悸がする。眩暈がする。立ち眩みがする。
そうだ。二人は私を騙しているのだ。嘘をついている。いつも嘘をついている私への悪戯だろう。でもやはりこの子たちは致命的に嘘をつくのに向いていない。もっとマシな嘘をつけばいいものを。これでは嘘だとすぐにバレてしまうだろうに。
「ヒンメルなのよ……? あいつが簡単に死ぬわけないじゃない。ついさっきまでいたのよ」
ヒンメルが死んだなんて、そんな嘘をつくなんて。だって殺しても死なないような奴だ。いくら老いぼれていても勇者なのだ。
ついこの間、一緒に旅をしたのだ。食事をしたのだ。話をしたのだ。
「約束したのよ。また会いに来るって。あいつが約束破るわけないじゃない。だってあいつは」
約束を、したのだ。また会うと。会いに行くと。あいつは約束を破ったりしない。私は約束を破ったりしない。だって、あいつは私の────
「……姉さん、これを」
ただ立ち尽くしている私に、シュトロが何かを手渡してくる。それに吸い寄せられるように受け取る。知らず震えている手で。
「なによ、これ……?」
「……ハイター様からの手紙です。王都よりも先にここへ来られたら渡すように、と」
シュトロの説明を聞きながら、ただ何も考えずに手紙の封を切る。ハイターが私に。一体何を。私がここに来ることが分かっていたのか。それとも。
そのまま手紙の内容に目を通す。なのに、それが頭に入ってこない。文字が読めなくなってしまったように。何度も何度も読み返す。でも、何度読み返してもそれは変わらなかった。そこにはこう綴られていた。
それが、嘘偽りない真実であると私に突きつけてくる。何故なら私は知っていたから。それが、人間が死んだ時に使われる言葉であることを。僧侶であるハイターが、絶対に嘘では使わない言葉。ようやく思い出した。今のリリーの姿が、かつて村長が死んだ時と同じであることを。
「嘘よ……」
嘘であってほしい。騙してほしい。でも、誰も私を騙していない。その全てが物語っていた。
────ヒンメルは、もういないのだと。
勇者ヒンメルの死から一月後。
中央諸国グレーゼ森林にある故郷にて。