ヒンメルはもういないじゃない【完結】   作:HAJI

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第八十八話 「雨」

────夢を見る。

 

 

忘れたくても、忘れられない夢を。あの雨の日を。

 

でもきっと、それすらも色褪せていくのだろう。思い出せなくなっていくのだろう。

 

 

それでもきっと私は────

 

 

 

 

降りしきる雨の中、ただ立ち尽くしていた。目の前には墓石がある。その名を刻みつけられた物が。隣にはリーニエがいた。私に倣うように、ただ何も言わずに。

 

赤いローブはもう意味をなしていない。フードは脱ぎ、顔は晒している。打ちつける雨。霞む視界。濡れて重みが増していく髪。冷たくなっていく体。その全てがどうでもよかった。目の前の現実に比べれば。

 

 

「本当に死んだのね……あんた」

 

 

どこか他人事のように独り言、いやヒンメルに話しかけてしまう。あの後、すぐに村を出て王都へとやってきた。人目を憚らず空を飛んで。でもあいつの姿は何処にもなかった。ヒンメルの家にも。どこにも。

 

道行く人々にも声をかけられた。きっと半年ぶりに王都に来たからだろう。でも皆同じことを伝えてきた。リリーと同じように。訃報と呼ばれる物を。

 

何度も何度も。その葬儀も終わってしまったことも。まるで何百年も経った後のように。私だけの時間が止まってしまっていたかのように。そして辿り着いたのがここだった。

 

 

「散々偉そうなこと言っておいて、あんたが約束守れてないじゃない……」

 

 

かつてのヒンメルの言葉を思い出す。自分は魔族じゃないから嘘はつかない、と自信満々に宣言していたのに、本当に自分勝手な奴だ。これではあのエルフのことも言えないに違いない。

 

 

そういえば死んだ後のことばかり考えていたっけ。自分がいなくなった後のことなんて、どうして気にしているのか。何度それを尋ねたのか分からない。それに困ったように笑みを浮かべて答えてくるのがいつものことだった。その顔が、姿が、声が蘇ってくる。今もおかえりと、君は変わらないねといつものように話しかけてくる気がする。でも、それはもうない。これからもずっと。二度と。だからこそあいつはあんな言葉を遺したのだろう。

 

 

『────アウラ、 もし僕が死んだらお墓の周りを花畑にしてほしいんだ。 いいかな?』

 

 

そんな子供のような、ふざけたお願い。いや、遺言だった。

 

 

墓前には供えられた、たくさんの花がある。まるで花畑のよう。雨に濡れても、死んでから一月経ってもこれだけの花が供えられている。多くの人間たちによって。ヒンメルが勇者だった証。なら、もうその願いは叶っている。

 

もっともあいつのことだ。このぐらいでは満足できないのかもしれないが。僕はイケメンだからね、と格好をつけているのが目に浮かぶよう。そうか。きっと流星と同じなのだろう。あいつは他でもない、私に花を供えてほしかった。弔ってほしかったのだろう。自分を覚えていてもらうために。それが遺言の意味。そのままローブから手を差し出す。あいつが一番好きだと言っていた魔法。それを叶えるために。だが

 

 

(ゼーリエの奴も同じだったのかしら……)

 

 

ふと思い出すのはゼーリエのこと。千年前の弟子の遺言に今も縛られているエルフ。いや、神話の頃から生きている奴だ。遺言なんてそれこそ数え切れないほど、覚えていられないほど聞いてきて

 

 

『……いずれ私は思い出せなくなるだろう。あの子の顔も、声も、眼差しも』

 

 

瞬間、背筋が凍った。雨で濡れているからではない。ただ思い出したから。あいつの言葉を。その意味を。何かを憂うかのように、らしくなく寂し気にそう吐露していた生きた魔導書の言葉。忘却という概念。

 

そんなはずはない。だって私はこんなにも覚えている。忘れるはずがない。でもあいつが言っていたことが嘘とは思えない。

 

なら、私はどうすればいいのか。それが避けられないのなら、私は。いや、その答えはもう知っているのだ。他でもない、先人であるあいつがそれを体現している。それに倣うのなら私は────

 

 

知らず手を見つめる。花畑を出す魔法を使おうとしていた手を。それすらも、私は忘れていくのだろうか。いや、違う。もしそれをしてしまったら、私は本当にあいつのことを。そんな思考は

 

 

「もうヒンメルはいないのに、どうしてそんな物に話しかけてるの?」

 

 

リーニエの言葉によって私は現実へと呼び戻されてしまった。

 

 

「────」

 

 

知らずそのままリーニエを見つめてしまう。変わらずそこにいるリーニエ。自分と同じように雨に濡れているが、その表情が困惑を表わしている。その表情と言葉の意味を、私は誰よりも理解している。何故なら目の前にいるリーニエは、かつての私そのものなのだから。

 

そう、それは魔族なら当然の疑問。おかしいのは私の方。昔ならきっと私が言ったはずなのだ。ヒンメルはもういないじゃない、と。何の疑問も持たず、淡々と。

 

当たり前だ。目の前にあるのはただの石だ。埋められているのはただの死体。ただの物でしかない。死んだ物は無に帰る。ただそれだけ。魂すらここにはいないだろう。他ならぬ女神の奴がそれを証明している。そいつの元に行ったのなら、ここに魂が残っているはずもない。天国とやらでもそれは同じだろう。そもそも私はそんな物、欠片も信じていない。なのに

 

 

「……そうね。どうしてかしら」

 

 

どうして私はこんなことをしているのか。雨に濡れながら、こんな無駄なことを。

 

自分でも驚くぐらい、落ち着いていた。以前の自分なら、リーニエの言葉に激昂していたかもしれない。反発したかもしれない。かつてこのアクセサリを失くされてしまった時のように。でも今は違う。それはリーニエに悪意がないのが分かっているから。きっとヒンメルたちもそうだったのだろう。私たちがそれと知らず不快な言動をしても、それを見逃してくれていたように。

 

 

(そうか……私は今、嘘をついてるのね……)

 

 

ようやく分かった。きっと私は今、自分に話しかけていたのだろう。ヒンメルの墓石を通して。自分の記憶の中のあいつに。忘れないために。覚えているために。自分で自分を慰めるように。みっともなく縋りついている。

 

そうか。そのための形見なのだろう。いつでもそれができるように。そのまま、胸元で濡れているアクセサリを手に取る。あいつからもらった贈り物。それは今、形見に変わってしまった。そういう物なのだろう。なら纏っているこのローブも、贈られた服も、本も、家も、銅像も。

 

いつかあいつ自身が言っていた。言葉だけでなく、たくさん物を贈ろう、と。魔族である私にはそれぐらいでちょうどいいと。やりすぎだ。これでは形見だらけで身動きが取れなくなってしまう。本当に、馬鹿な奴。

 

 

「アウラ様……もう帰ろう? そんなことしても意味ないよ」

 

 

私と同じように、形見としての剣を贈られたリーニエはそう私に促してくる。勇者に育てられた魔族。この子も、あいつの形見になるのだろうか。いや、違うか。この子は物じゃない。生きている。そんな子が告げる。ここにいても意味はないと。嘘偽りない真実。なのに、私の足は動かない。まるで歩くことを忘れてしまったように。それは分からなかったから。

 

 

(帰る……? どこへ……?)

 

 

今の自分の帰るべき場所が。あの村が、家が私の帰る場所だった。でもそこにもうあいつはいない。ならそれに意味はない。なら私はどこに行けばいいのか。それが、分からない。それを教えてくれるあいつは、もういないのだから。

 

 

「泣いてるの、アウラ様?」

 

 

そんなことを言われたのは生まれて初めてだった。そうか。今の私は泣いているように見えたらしい。それを確かめるように目元を触ってみるも分からない。もう目元も頬も、雨によって濡れてしまっているのだから。

 

 

「……いいえ、ただの雨よ」

 

 

ならそれはきっと雨に違いない。自分が泣いているかどうかも分からないのは、きっと私が魔族だからなのだろう。

 

 

「先に戻ってなさい、リーニエ。私もすぐ行くわ」

 

 

雨を拭いながら、リーニエにそう命じる。これ以上この子を無駄なことに巻き込むわけにはいかない。何よりも、私は今独りになりたかった。いや、泣いているように見えるこの顔を、これ以上この子に見せたくなかったのかもしれない。

 

 

「……うん」

 

 

しばらくの間の後、リーニエはそのままその場を去っていく。何か言いたげな顔を見せながらも、私の命令に従って。後には私がだけが残された。

 

 

 

それからどれだけの時間が経ったのか。止まない雨が変わらず私を濡らし続ける。まるでもう止むことがないかのように。そういえばこうして独りきりになるのは本当に久しぶりだ。いつもあいつが、リーニエが一緒にいたのだから。それが当たり前になっていたのだろう。それがずっと続くと思っていたのだろう。そんなこと、あるわけがないのに。こんなにも呆気なく、それは終わってしまった。

 

こんなことになるなら、こんな醜態を晒すぐらいなら、昔の方が良かった。リーニエのように、何も感じないでいられたならどれだけ。あいつに変えられてしまったから、こんなことに。ならいっそ

 

 

「……そのままでは風邪を引きますよ、アウラ?」

 

 

聞き馴染みのある声と共に、雨が止んだ。いや、そうじゃない。傘だった。差し出された傘によって私のいる場所だけ雨が遮られている。

 

気づけば隣にあいつがいた。振り向く必要もない。見なくても分かる。その馬鹿げた魔力だけで十分だ。ヒンメルたちほどじゃなくとも、私はこいつと一緒に暮らしてきた腐れ縁の仲なのだから。

 

 

それが私にとってのもう一人の友人である、生臭坊主(ハイター)との半年ぶりの再会だった────

 

 

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