ヒンメルはもういないじゃない【完結】   作:HAJI

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第九十一話 「祝福」

「ん……」

 

 

まどろむ意識。それが徐々に晴れていく。顔を上げれば目の前には積み上げられた本の山。どうやらそのままテーブルに突っ伏して寝てしまっていたらしい。体の節々に鈍い痛みとだるさがある。

 

 

(もう日が昇ってる……昼前かしら……?)

 

 

体を起こし、カーテンの隙間から差し込んでくる陽の光。まだ頭がぼうっとしているが、恐らく昼前ぐらいだろう。最近は珍しくもない。ここ一週間ほどはこんな生活になっている。今私は王都のヒンメルの家にいる。村の家ほどではないが、ここで暮らしていたこともある。勝手は知っている。この部屋も書斎兼、私の部屋のようなものだった。その証拠に部屋には本が溢れている。女神の教典から法律関係、はては魔導書まで。もういらないというのにあいつが持ってくる下らない本ばかり。結局家の書斎に収まり切らない分はここに保管されていた。

 

 

(まさかそれが役に立つなんてね……)

 

 

その本たちを触りながら呆れるしかない。ただの暇つぶし、退屈しのぎだったはずの読書。今私はそれに没頭している。朝から夜遅くまで。時間を潰すためでなく、明確な目的を持って。まさかこんなところでそれが役に立つなんて、きっとあいつでも予想できなかったに違いない。もっともそのせいで引き籠もってしまっているのだが。外に出れば天秤として持て囃されてしまうのも理由だが一番は違う。

 

そうしていれば、それしか考えないで済むから。余計なことを考えないで済む。ただそれだけ。

 

そのまま部屋から出て顔を洗い、髪を整え、服を着替える。考えることもない、ただの習慣。だからこそそれが気にかかる。引っかかる。誰もいない家。ここはこんなにも広かったのだろうか。人一人がいなくなるだけで、こんなにも違うのか。知らずあいつを目で探してしまう。もういないというのに。本当に習慣というのは恐ろしい。その実感が湧かない。今でもまだ、ひょっこり現れるのではないか、と。

 

だがそれが事実なのだと告げてくる。あいつが後生大事にしていた、タンスの中にしまわれていた暗黒竜の角。それがなくなっている。その邪悪なオーラがようやくなくなっていた。あのエルフに返却されたのだろう。あのエルフのことだ。流星よりもそっちが目的だとしてもおかしくない。

 

でもそれ以外は変わっていない。まるで時間が止まってしまったかのように。そのまま。それに違和感を覚えてしまう自分はもう魔族ではなくなっているのかもしれない。何か大きな穴が空いてしまったかのような感覚。でも段々とそれに慣れていくのだろう。私が五十年かけて、人間社会に慣れていったように。それがきっと忘れていくということ。だから私は────

 

 

「お邪魔しますよ。おや、ちょうど良かったですね。おはようございます、アウラ。今日は早起きですね」

 

 

そんな中、ノックと共に来訪者が現れる。いや、不法侵入者か。こっちの返事も聞かずに勝手に入ってくるのだから。もっとも返事をしない私にも問題はあるがそれはともかく。

 

 

「……どこがよ。もう昼前じゃない」

 

 

仕方なく気だるげに目を向ける。そこには不法侵入者が二人いた。ハイターとアイゼン。あの日からずっと毎日ここにやってきている。その手には食材やら何やらが抱えられている。本当に暇な奴らだ。他にやることはないのだろうか。いや、わざわざここに残っているのはこれがこいつらがしたいことだからなのだろう。ようするに、いつものことだ。

 

 

「そんなことはありませんよ。お昼前なんて私たちにとって寝坊でも何でもありませんから。でしょう、アイゼン?」

「当然だな。フリーレンなら褒めてやるところだ」

「あのエルフは一体何者なのよ……」

 

 

起き抜けにまたあのエルフの下らない話を聞かされて辟易するしかない。何であいつと比べられなくてはいけないのか。侮辱でしかない。もしかしたらこいつらのことだ。わざと言っているのかもしれない。ようするに私に発破をかけているのか。これ以上それに乗るのも癪なので話題を変えることにする。

 

 

「リーニエは? 一緒じゃないの?」

「修行に出かけていますよ。熱心ですね。感心しますよ。お昼には戻ってくるかと」

 

 

それは見当たらないリーニエのこと。一緒に出掛けているかと思ったが、どうやら修行らしい。何日か前までは私と一緒に部屋に籠っていたのだが、それが私の邪魔になると思ったのかそれとも退屈だったのか。最近は外に出かけるようになっている。ある意味あの子らしい。

 

 

「あの子は変わらないわね」

 

 

それが少し羨ましくもある。魔族らしさだろうか。変わらないことがきっと魔族の長所なのだろう。魔族にはそんなこと分からないだろうが。しかし

 

 

「そうか。そう見えるか」

「何よ?」

「いや、何でもない」

 

 

いつものように、不愛想なままアイゼンはそんなよく分からないことを言ってくる。こいつも相変わらずだ。変わっていない。ドワーフだからというのもあるだろうが、一番はこいつ自身の性格だろう。再会してからも一言二言喋ることはあっても、ハイターのようにこちらに絡んでくることはない。ただそこにいるだけ。私が話しかければ応えるのだろうが。ハイターとは対照的な在り方。だがそれが不快ではない。むしろその逆だ。それが分かるほど、こいつとも付き合いが長くなってしまっただけ。

 

 

そのまま時間が流れていく。リーニエが帰ってきて、アイゼンがそれを迎え、ハイターがそれをからかう。いつもの日常。それでも、あいつがここにいれば。それを思わずにはいられなかった────

 

 

 

「もう一週間ですか。あっという間ですね」

 

 

夜も更け、リーニエも寝入ってしまった頃。私たちは三人で晩酌をしていた。といっても飲んでいるのは私だけ。ハイターもアイゼンも飲もうとはしなかった。酒を止めているハイターは当然としてアイゼンもというのは珍しい。しかし、何となく察しはついていた。この場そのものがその答えだ。誰も口にしないが、この晩酌そのものがそのためのものだったのだから。

 

 

「これからどうするつもりですか、アウラ?」

 

 

私たちが切り出さないからか、それとも最初からそのつもりだったのか。ハイターがそう切り出してくる。この一週間先送りにしていた、待ってくれていた私のこれからについて。

 

 

「そうね……とりあえず、一度南に戻るわ。留守番も頼んでるし……」

 

 

酔えない酒を口にしながらそう答える。そう、それはここに来る前から決まっていたこと。箱庭のこと。今はレルネンの奴に留守番を依頼しているが、いつまでもそのままにはしておけない。私が始めたことをそのまま放ったらかしにはできない。子供ではないのだから。それに

 

 

「そうですか……でしたらアウラ。良ければその後、聖都に戻ってきませんか?」

 

 

私でも予想だにしていなかった提案を、誘いをハイターは口にしてきた。思わずこっちが目を見開いてしまうほど。

 

そんな私をどう見たのか。ハイターはゆっくりと続けてくる。私がいなくなってからの聖都のことを。どうやら聖都の連中は私がいなくなったことで、ようやく私の利用価値に気づいたらしい。裁判や刑の執行は滞り、私の復帰を求める嘆願が山のようにハイターの元にやってきていたらしい。私という天秤を求める信徒たち。その対応に苦慮していたのはきっとハイターだけではないのだろう。なくなって初めて気づく。今の私にはそれを愚かだと断じることはできない。何よりも

 

 

「そうね……それも悪くないわね」

 

 

それをしてくれるこいつの気遣いに。きっとこいつなりに私を心配しているのだろう。聖都の連中の求めもあるだろうが、きっとそれが本当の理由。ヒンメルほどではないが、こいつも格好をつけているのだろう。いや、恥ずかしがっているだけかもしれないが。こいつらしくもない。

 

それを悪くないと思う自分がいる。きっとそれは私にとっても悪くない誘いだろう。色々面倒なこともあったが、それでも聖都で暮らした生活は私にとってはそういう日々だった。なら。でも

 

 

「でもお断りするわ。神官ごっこはもう飽きたもの。それにあんたの老い先も短いでしょうしね」

 

 

笑みを浮かべながらそれを断る。それに飽きてしまったのもあるが、一番はそれが理由。もう一度あそこに戻っても、すぐにそれは終わってしまうだろう。十年後か、五年後か、一年後か。そうなれば再び私は追い出されることになるだろう。何よりも、これ以上誰かが死ぬのに巻き込まれるのは御免だった。

 

 

「失敬な。あなたのおかげで寿命は延びていますよ。あと二十年は現役です」

「酒は百薬の長じゃなかったのか?」

 

 

そんな私の答えをどう思ったのか。それを見せることなくいつものように飄々としているハイターと突っ込んでいるアイゼン。きっとこいつらのことだ。言わなくてもこっちの都合なんて見通してしまったに違いない。本当にやりづらい奴らだ。

 

 

「ただその代わり、一つお願いがあるわ」

 

 

それに割って入るようにそう告げる。最初から私がこの場で明かそうと思っていたこと。それに幾ばくかの戸惑いと迷いがあったが今はもうない。奇しくもさっきのハイターの提案がそれを後押ししてくれた。それを利用して

 

 

「国を作ろうと思ってるの。それに協力しなさい」

 

 

頼りにしてそうお願いする。あいつがいなくなってからずっと、いやもっと前から考えていた私の夢を。絵空事を。

 

 

「国、ですか……? なるほど。とうとう魔王になる気になったということですか」

「だったらどうする? ここで私を討伐する?」

「まさか。逃げるに決まってるじゃないですか。でしょう、アイゼン?」

「当然だな。俺も怖い。命乞いをしていいか?」

「あんたたちね……」

 

 

そんな私の一世一代の告白をこいつらは全く気にすることなく騒ぎ立てる。本当にこいつらは変わらない。今天秤が使えたならこいつらに真面目に聞くよう命令してやりたいほど。

 

 

「冗談はそのくらいにして頂戴。私が作りたいのは魔族の国だけど、かつての魔王軍のような物じゃないわ」

 

 

溜息を吐き、呆れながらも続ける。私の作りたいもの、その正体を。魔族の国。この世界の人間たちなら真っ先に思い浮かぶであろう魔王軍。だが私が目指すのはそれではない。

 

 

「ハイター、あんたが前に言ってたでしょう? 魔族を集めて友好的な国を作ったらどうかって。ずっと考えてたのよ。どうすればそれができるのか」

 

 

それはかつて、目の前の生臭坊主が口にしていた御伽噺。あり得ないはずのもの。だがそれがずっと私の頭にはこびりついて離れなかった。きっと私自身がそれに惹かれたからに違いない。

 

国を作る。それは服従させられる前から私が抱いていた願望だったのだから。魔王様のように。支配することが魔族としての私の本能なのだろう。しかしそれだけでは魔王様の二の舞になるのは明らかだった。私よりも遥かに強かった魔王様ですら、勇者たちには敵わなかったのだから。ならどうするのか。その答えがそれだ。

 

人間どもを騙す事。友好的に装い、それを支配する。それならば、人間たちはこちらに手を出せない。少なくとも、一致団結はできない。こちらに人間も取り込めばなおのこと。そうすれば私も討伐されることはない。生き延びることができる。魔族としての私も、天秤としての私も満たすことができる答え。

 

 

「そんなことを言ったのか?」

「さて、どうでしたかね」

 

 

当の本人はそんなとぼけた態度を取っている。こいつのことだ。覚えていて知らない振りをしているのかもしれない。どっちにしても、私にとってはその意味は変わらない。

 

 

「人類と魔族の共存……人間と魔族が共に暮らす国。あとは自由と平等かしら? それを謳い文句にね。いかにも人間たちが好きそうでしょう?」

 

 

この五十年間、人間たちに服従させられた私が、今度は人間たちを服従させる。やり返す。子供でも分かるような単純な理屈。違うのはそうと気づかれないように誘き出し、支配すること。人間共が好む()も理解できた。それを用意すれば、虫のように群がってくるだろう。天秤の魔力に聖都の連中が虜になったように。共存という勇者の()であればなおのこと。

 

 

「共存、か。お前……いやお前たちらしいな。だがそれは……」

「普通なら無理でしょうね。でも私にはそれができるわ。私の今の二つ名は知ってるでしょう? 人間も魔族も等しく私には逆らえない。そうなれば共存せざるを得ない。かつての私のようにね」

 

 

中身が空っぽの天秤を顕現させながら告げる。それを成し遂げる力が私にはあることを。それを誰よりもこいつらは知っている。目の当たりにしているのだから。私自身がそれを証明してしまっている。

 

 

「きっかけは偶然だったけど、今それを南で試してるわ。今は人間だけだけど、基本は同じね」

 

 

その応用が今の箱庭だ。神官ではないごっこ遊び。これからは教主ごっこになるのか。例え魔族が加わったとしてもそれは変わらないだろう。きっと人間よりも魔族を支配する方がずっと簡単に違いない。

 

 

「まさか私の戯言がここまで大事になっているとは……いやはや参りましたね」

「俺は帰りたくなってきた……」

「あんたたちは真面目に聞けないわけ?」

 

 

最後まで私をからかわないと気が済まないのか。それとも本当に驚いているのか。ハイターもアイゼンも私の話に呆れてしまっている。ふざけた奴らだ。もっとも笑われなかっただけいいのかもしれない。端から見れば、子供のような戯言でしかないのだから。笑わないでいてくれるのは、同じような夢を抱いていたあいつぐらいだろう。だというのに

 

 

「ですが話は分かりました。私に今度は女神ではなく、貴方に仕える司教になれということですね」

 

 

困ったような笑みを浮かべながら、それでもどこか安心したような空気と共にハイターはそう返事をしてくる。それに少なからず私も驚いてしまう。確かに頼んだのは私だが、こんなにも簡単に了承するなんて思っていなかったから。

 

 

「……本気か、ハイター?」

「私は司教ですよ? 嘘はつきません。それに拾った責任は取らないといけませんから」

「拾ったのはヒンメルでしょ」

「おや、拾われた自覚はあったのですね」

「生臭坊主」

 

 

それはアイゼンも同じだったのだろう。そう問いかけるもハイターは冗談交じりにそう返している。思い出すのはかつての王都でのやり取り。私を捨て猫か犬のように扱ったもの。その責任はヒンメルにあるはずだが、こいつも何故かその責任を感じているらしい。もっとも私からすれば不愉快でしかないが。

 

 

「……勘違いするんじゃないわよ。誰もあんたに偽物の司教になれ、なんて言ってないわ」

「私は本物ですよ?」

「世も末だな」

 

 

勘違いしているハイターにそう指摘するも、全く見当違いの返事をしてくる始末。それに乗っかるアイゼン。分かってやっているのだとしたらこいつらの方が魔族よりもよっぽど嘘つきだろう。

 

 

「あんたは私の国の教典……仕組みを作ってほしいのよ。大体は考えてるけど、私じゃ上手くできないわ。あんたはそういうの得意でしょ?」

 

 

強引にそう話を戻す。私が依頼する内容を。私が国を支配するための指標。女神の教典にあたる物の作成。仕組みと言い換えてもいい。それを作成すべく、この一週間籠って本と睨めっこして原案を書いたものの、やはり芳しくない。いくら五十年間それを読んでいても、魔族である私ではできるのは拙い物になってしまうのだろう。その点、こいつならその心配はない。腐っても聖都の司教を装っているのだから。

 

 

「はて。褒められているのに何故か悪意を感じますね」

「気のせいよ。そんな物私にはないわ」

 

 

どうやら私の言葉にそれを感じたらしいが私には分からない。もしかしたらそれがあるように知らず装っているのかもしれない。

 

 

「……なるほど、分かりました。請け負いましょう。ですが、それなら尚更私がいた方がいいのでは?」

「珍しく察しが悪いのね。あんたがいたら迷惑なのよ。忘れてるかもしれないけど、あんたは一応勇者一行なのよ? 魔族の国の意味がなくなるわ。面倒なことになるのは目に見えてるしね」

 

 

本当にらしくない。いつもならそんなことすぐに気づくだろうに。だからこそ、こいつらは魔王様を討伐した後も表舞台に出ることはなかった。支配する側に回ることもなかった。それを利用されれば、さらなる混乱が起こることが分かっていたから。ここでこいつが私の国の司教にでもなろうものならそれが全て無意味になる。魔族である私がそれをするからこそ意味がある。そんなことが分からないこいつではないだろうに。

 

 

「……ええ、確かにその通りでしょうね。貴方にそれを教えられるとは。歳は取りたくないものです」

 

 

きっと柄にもなく、らしくないことをしようとしたせいだろう。進んで人助けなんてする性格でもないだろうに。さっきの責任云々もそうだろう。こいつなりに、ヒンメルならそうしたことをしようとしたのかもしれない。だが

 

 

「…………」

 

 

もう一人の勇者一行であるはずのアイゼンはずっと黙り込んだまま。そういえば途中からほとんど喋らなくなってしまっていたか。しかしその目が静かに私に訴えかけている。言いたいことがあるかのように。喋り続けるハイターよりも、ある意味こいつは分かり易い。

 

 

「……何よ? 心配しなくてもあんたを巻き込んだりしないわ」

 

 

仕方なくそう聞いてやる。きっと私がハイターを巻き込んだことに思うところがあるのだろう。それとも自分もそれに巻き込まれると危惧しているのか。ハイターに関してはその通りだが、私なりに配慮したつもりだ。そもそもアイゼンにはそれを求めたりはしない。ヒンメルやハイター以上に表舞台に出ることなく、隠居しているような生活をしていた奴なのだから。

 

 

「分かっている。俺では役に立てないからな。だが……」

 

 

アイゼン自身それは分かっているのだろう。ヒンメル以上に政治には向かない奴だ。なのに、何を言おうとしているのか。知らずそれに息を飲む。その空気に。覚えている。こいつがこんな風になった時のことを。それは

 

 

「アウラ。それは本当にお前がしたいことなのか? ヒンメルならそうしたから、そうしているだけじゃないのか」

 

 

初めて会った時のこと。その夜、私を見定める問答をされた記憶。それと同じだった。いや、違う。それは魔族としての私ではなく、『アウラ』としての私に問いかけるものだった。

 

 

「何よ、それ……? あんたがそれを言うわけ……?」

 

 

思わず声が震えていた。知らずその体も。それを悟られまいと抑えながらも動揺を隠しきれない。だってそうだ。ヒンメルならそうしたから。それはこいつらがいつも口癖のように言っていたこと。こいつらにとっては好ましい、正しいこと。だからヒンメルも喜んでくれたのだ。私が天秤になったことを。その選択を。行いを。なのにどうしてそれを否定するようなことを言うのか。他の誰でもない、こいつが。

 

 

「そうだ。これは大事なことだからだ。お前だけじゃない。リーニエのこれからにも関わってくるからだ」

「リーニエの……?」

 

 

そんな私を見つめたまま、アイゼンはそう続けてくる。それは、私も全く気づいていなかった、気づけていなかったことだった。

 

 

「分からないのか。お前がそうするなら、あの子もついていくことになるだろう。あいつはお前の従者で、お前はあいつの主人だからだ」

「それは……」

 

 

アイゼンの問いに答えることができない。いや、考えが追いついていなかった。リーニエのことを。それを忘れていたわけではない。ただ私にとってそれは当たり前すぎて気づけなかっただけ。魔族が人間を襲うように。それが何を意味するかを。あの子は私についてくるだろう。何の疑問のなく。言われるがままに。それを理解することなく。

 

 

「だから聞かせてくれ。お前は何のために国を作ろうとしている? それはリーニエを差し置いてもしなければいけないことなのか?」

 

 

それでいいのか、とアイゼンは問うてくる。私が何のために国を作るのか。私でも理解し切れていない、その理由を。それは本当に私がしたいことなのか、と。ヒンメルに託されたあの子を巻き込んでまでしなければいけないことなのか、と。

 

 

「私は……」

 

 

動悸がする。眩暈がする。立ち眩みがする。

 

 

それに答えることができない。いや、その答えを今の私は持っていないのだろう。でも、今の私にはそれ以外にどうしたらいいのか分からない。だってそうだ。あいつは喜んでくれたのだ。ならそれはきっと。あの生きた魔導書もそうしているのだ。ならそれは正しいはず。なのに、そう言い返せない。なら、私は────

 

 

「アイゼン、アウラ様をいじめちゃダメ!」

 

 

そんな私の迷いをかき消すように、私にとっての例外がその場に飛び込んできた────

 

 

「リーニエ……」

「私はアウラ様に付いて行くよ。どこだって、ずっと一緒なんだから!」

 

 

私を庇うように、守るようにリーニエはそう宣言する。いつから起きていたのか。どこまで私たちの話を理解していたのか分からない。それでもリーニエはそう選択した。魔族として、リーニエとして。それが嘘ではないのだと示すように。欺かないことで。

 

 

「……そうだな。すまなかった、アウラ」

「いいえ、構わないわ……」

 

 

それを前にしてアイゼンは目を閉じながらそう詫びてくる。それは私も同じだった。これはただの先送りだろう。私はこの問いを忘れてはいけない。いつかそれに向き合う時が来る。それが何十年後になるのか、何百年後になるのか。それは分からない。それでも、この子が傍にいるのはきっと変わらないのだろう。

 

 

「ほらほら、湿っぽくなってはいけません。今日は二人の新たな門出なんですから」

「ハイター臭い。離れて」

「あんた、酒を止めたんじゃなかったの」

「もちろんです。なのでいつもの魔法をお願いしますよ、アウラ」

「相変わらずだな」

 

 

それを見計らっていたかのように、ハイターが私とリーニエを抱きしめるように覆いかぶさってくる。その加齢臭によってリーニエは顔をしかめている。その手には何故か酒がある。どうやら我慢できなくなったらしく、いつものように私に魔法をせがんでくる始末。それに呆れながらも微笑んでいるアイゼン。きっとヒンメルの代わりをしたに違いない。

 

 

それがこの夜の終わり。ヒンメルがいなくなっても変わらない、私たちの日常だった────

 

 

 

「じゃあ行ってくるね、アイゼン」

「ああ、気をつけてな」

 

 

出発の日。その手にある二本の剣を見せながらリーニエはそうアイゼンに挨拶している。相変わらずの関係。きっとヒンメルが見れば嫉妬するに違いない。人間で言うならあれが親子なのだろう。当人たちは否定するだろうが。

 

 

「貴方もお気をつけて、アウラ」

「誰に言ってるのよ。さっさと南の連中を黙らせてくるわ。あんたこそ戻ってくる前に死ぬんじゃないわよ」

 

 

心にもないことを言ってくるハイターにそう言い返す。魔族である私にそんな心配は無用だ。ゼーリエの奴に利用されるのは癪だが、私にとってもそれは利用価値がある。私の力を、存在を人間側に思い知らせる。そのためには絶好の機会だろう。大義名分もある。

 

思い出させてやろう。愚かな人間たちに。魔族の恐ろしさを。

後悔させてやろう。勇者がいなくなったことを。

 

力と恐怖。支配の上で欠かせないもの。

 

それを知らしめれば魔族たちも知るだろう。私の存在を。それに従うために、集まってくるに違いない。かつて魔王様に従った私たちのように。

 

人間たちも騙されるだろう。私が人類の味方なのだと。自分たちを庇護してくれる存在なのだと。箱庭の者たちのように。

 

 

だからこそ、心配なのはこいつの方。どこかの誰かのように、約束を守らずにいなくなるなんて赦しはしない。

 

 

「頼もしい限りですね。なら私も期待に応えて、アウラ教の教典を作るとしましょう」

「やはりその名前になったのか」

「知らないわよ」

 

 

そんな私の言葉に、いつものように飄々としながらもどこか嬉しそうにハイターはそう答えてくる。いつか聞いた、ふざけた名称と共に。そういえばそんなことを誰かが言っていた。それは思い出せないが、碌でもないことは間違いない。思い出せたのは

 

 

「そういえば聞いていませんでした。新しい国の名前はどうするのですか、アウラ?」

 

 

私がそれをまだ決めていなかったこと。名前なんてどうでもよかったから。でもきっとそれではいけないのだろう。あいつがいつか言っていたように。私が人間の名前を覚えるようになったように。だからすぐにそれは思い浮かんだ。当たり前だ。それはずっと、私の胸元にあったのだから。それは

 

 

「────親愛の花(フリージア)よ」

 

 

お人好しの、いつも格好をつけていた友達からもらった贈り物、形見なのだから。その意味も知っている。あのエルフとは違って、私はそれを言葉で伝えてもらえたのだから────

 

 




長くなりましたが次話でようやく過去編はラストとなります。お楽しみに。
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