第九十四話 「会話」
温かい日差しと草木の匂い。それを感じながら散策を続ける。しっかりと両の足を地面につけ、手に持った杖で辺りを確認しながら。もしそのまま気づかずに傾斜やぬかるみに足を取られてしまえば大変だ。いくら慣れている場所だと言っても油断はできない。人の倍、いや三倍は気をつけても足りないぐらい。自分は他の人と違って目が見えないのだから。
「ふぅ……こんなところかな」
一息つきながら、お気に入りの木の切り株の上に腰かける。収穫は上々。持ってきた袋の中にはたくさんの木の実や山菜が入っている。村の仲間たちの収穫に比べれば僅かだが、少しでも足しになれば。目が見えない自分にできることはどうしても限られているのだから。それでもできることを。養ってもらってばかりではいられない。
「やっぱりここが落ち着くな……」
知らずそう独り、呟いてしまう。今の村での新しい生活からもう二年になろうとしている。みんな優しい人たちだ。生活にも慣れてきた。こうして一人で森を散策できるくらいには。危ないから止めた方がいいと言われることも多かったが、どうしても止めることができなかった。これは数少ない、僕の日課だったから。こうしていると、前の村を思い出すことができるから。何よりも、鮮烈に残っている記憶がある。こうしていれば、もう一度、あの二人に会えるかもしれない。そんな期待。そんな子供のようなことを考えていると
「こんにちわ。いい天気ね」
そんな聞いたことのない、なのに何故か思わず聞き惚れてしまうような女性の声がかけられた。
思わずそのまま身構えてしまう。いきなりこんな山奥で見知らぬ人に声をかけられたのだから。いや、それだけではない。目が見えない自分からすれば、相手がどんな人であるかすぐには見抜けないのもある。女性とはいえ、危害を加えられる危険もある。何よりも知らない人には気を付けなければいけない。そんな当たり前のことを叱ってもらったことが理由。
「もしかして目が見えないの? すごいわ。それでこんなところまで来れるのね」
そんな僕の姿をどう捉えたのか。女性は僕が目が見えないことに気づいたのか、そんなことを言ってくる。どこか興味津々といった風。そんな反応に逆にこっちは毒気が抜かれてしまう。自分が目が見えないことに気づけば、ほとんどの人が気を遣ってくるというのに。
「気に障ったのならごめんなさい。よく変わり者だって言われるの」
ようやくそのことに気づいたのか。女性はまたそんな変なことを言ってくる。どうやら女性自身、そのことに自覚があるらしい。なるほど、確かに変わり者なのかもしれない。もっとも、自分も他人のことは言えないのだが。
「いえ、大丈夫です。慣れてますから」
思わず笑いながらそう答える。気づけば警戒を解いてしまっていた。だが問題ないだろう。こうして会話してみれば、目の前の女性に悪意がないのは一目瞭然だった。目が見えない自分は、その分こうして会話から相手の人となりを見極める。
「そう。良かったわ。少し私とお話しない? 私も何でも答えるわ」
僕が警戒を解いたのを感じ取ったのか。改めて女性はそう話しかけてくる。どうやら僕と話がしたくて、声をかけてきたらしい。それにいつかの光景が蘇る。目の前の女性とは似ても似つかない、天真爛漫が形になったような少女。僕の目のことも何も気にせず、こちらに構ってくれた記憶。
「はい、僕で良ければ。えっと、お姉さんは」
それに倣うように、女性のお誘いに応えるもようやく気付く。まだお互いに名前すら知らなかったことに。これではやはり僕もお姉さんのことは言えない。
「そう言えば自己紹介がまだだったわね。ソリテール。それが私の名前よ。そう呼んでくれて構わないわ」
そんな僕よりも先に女性、ソリテールさんはそう自己紹介してくれる。それが二年前と同じ、山奥で出会った女性との会話の再現だった────
「研究者ですか、凄いなぁ……ソリテールさんは何を研究されているんですか?」
思わず感嘆し、そう尋ねてしまう。会ってからどれだけの時間が経ったのか。それが分からないほど、僕はソリテールさんとの会話に夢中になっていた。打てば響くように、こちらを包み込んでくれるようにソリテールさんは話をしてくれる。聞いてくれる。
研究者。それが自らの職業だと教えてくれたが納得するしかない。その知識量、知性とでもいうのか。今まで出会った人たちとはまるで違う。目が見えないのに、その所作に惹かれてしまう。変わり者だと言われるのも納得だ。研究者や学者には変わり者が多いと言われるのも、こういう人たちだからなのかもしれない。
「私は人の会話の研究をしているの。でも目が見えない人と話すのは初めてだから、とても参考になるわ」
人の会話の研究。それがソリテールさんの研究のテーマらしい。それに納得するしかない。お話を始めてから、本当に色々なことを聞かれた。どこで生まれて、どんな食べ物が好きなのかまで。なんでも会話から習慣や文化、魔法技術を研究するためらしい。そういった意味で、目が見えない人間である自分の話はソリテールさんにとっては興味が惹かれるものだったのだろう。
「研究と言えば聞こえはいいけど、一人遊びみたいなものよ」
趣味のようなものね、とソリテールさんは答えてくれる。言われて何かが胸に落ちた気がした。そうか。この人は一人遊びをしているのか。会話をしていながら感じる違和感もそれのせいだったのだろう。研究者というのは、そういうものなのかもしれない。他でもない自分もそうなのだから。
「確かに、僕もそうかもしれません」
「君も何かしているの?」
「はい……実は、学者を目指していて」
もっともそれはソリテールさんと比べられるような大したものではない。ただの将来の夢。その真似事。かつては冒険者になることが夢だったが、今は違う。あの人に学者も向いているのではないかと言われたことを真に受けている、本当に単純な理由。
「本当? 素敵ね。ぜひそのお話を聞きたいわ」
そんな僕の話が何かの琴線に触れたのか。ソリテールさんはさらに早口になりながら会話をせがんでくる。段々と分かってきた。この人は研究者のようにどこか人間を動物的に捉えているのだろう。言葉の節々にそれが感じられる。僕が目に見えないことに関しても気にすることなく口にしてくるが不快感はない。むしろ気を遣われなくて気楽なほど。悪気が、悪意がない。どこか子供のような無垢さがある。まるでお姉さんやリーニエのように。まさか魔族なのか。いやそれはないだろう。目が見えない自分を騙す理由がない。僕を食べるためなら、騙す必要もないのだから。
そのまま自分が持っている鳥の知識を披露する。あの時のように。ソリテールさんは相槌を打ちながらそれを聞いてくれる。それが心地よかった。目が見えない自分でもできることがあるのだと、学者になるという夢を肯定してもらえた気がした。人間の声を真似する鳥には特に興味を示していた。流石は研究者なのだろう。収斂進化など、僕の知らない言葉をたくさん知っている。それをお互いに教え合う。まるで自分が学者に、研究者の仲間入りができたと勘違いしてしまうように。そのまま話は次第に自分の生い立ちに移っていく。自分にとっては人生が変わってしまった話。
「そう……魔族に二度も襲われたのね」
そのどちらも魔族によってもたらされた。一つは両親とこの目を失ったこと。もう一つは新たな目的を得られたこと。同じ魔族なのに、もたらされた物は全くの真逆だった。今でもそれが信じられないほど。
「でも本当に運がいいのね。目が見えないのにこうして生き延びられたんだから」
ソリテールさんの言葉に思わず言葉を失ってしまう。きっと、以前の自分ならその言葉に傷つき、受け入れることができなかっただろう。運がいいなんて、認めることはできなかった。生き延びられたとしても、両親を亡くして、視力を失った自分のどこが運がいいのかと。
「そうですね……でも、僕は助けてもらっただけなんです」
でも今は違う。時間は巻き戻らないけど、僕はあの人に救ってもらったんだから。
「? 誰に助けてもらったの?」
「信じてもらえないかもしれませんけど……僕は魔族に助けてもらったんです」
きっと信じられないというような顔をしているであろうソリテールさんにそう明かす。二年前から、誰に明かしても信じてもらえなかった御伽噺を。もしかしたらこの人なら信じてくれるのではないか。そんな淡い期待を抱いていたのかもしれない。
「魔族に……?」
「はい。村で別の魔族に襲われる前に、ちょうど今みたいにその人とお話もしてて……目が見えなくて、僕はその人が魔族だって気づけなかったんです」
話しながら思い出す。二年前のことを。今思い返してもまるで夢だったかのような出来事。魔族と話をしていたなんて、誰が信じてくれるだろうか。そもそもどうして魔族が目の見えない自分とそんなことをしていたのか。今なら分かる。きっとあの人はリーニエが魔族だとバレていないかを確認しに来ていたのだろう。まるで子供に振り回される母親のように。
「騙されていたのね。どんな話をしたの?」
「えっと、それは……」
「魔族と会話して生き延びている人間はとても珍しいわ。聞かせてもらえる?」
出会ってから最も興奮した様子でソリテールさんはこちらに迫ってくる。気づけばその手を握られていた。思わずこっちが赤面してしまうほどに。本当にこの人は研究者なのだろう。ただ気にかかったのはその匂いだった。お世辞にも良い匂いとは言えない物。やはり旅をしているとそうなってしまうのだろうか。もっとも女性にそんなことは言えないが。下手をしたら年齢以上に失礼にあたるかもしれない。
それを誤魔化すように、一連の出来事を語っていく。今まで誰も信じてくれなかった話。でもそれを目の前にいる人は聞いてくれる。それがこんなにも嬉しい。会話の研究をしているというのはやはり本当なのだろう。目の見えない自分にとっては、それは生きるための手段でもある。そういった意味でも、ソリテールさんにとっては僕は貴重な研究対象なのだろう。もう少し気を遣った方がいいとは思うが。
「ありがとう。とても興味深いわ……その魔族は何か名乗っていなかった?」
ようやく満足したのか。ソリテールさんはやっと手を放し僕を解放してくれる。それに僕も安堵する。いくら僕が子供だといっても、あんなに女性に密着されたら意識せざるを得ない。もうあと何年かすれば、少年よりも、青年と言われるようになる歳なのだから。
「はい。その人は天秤のアウラだったんです。ソリテールさんは知っていますか?」
「断頭台のアウラなら知っているけど……違うのかしら?」
気を取り直しながらその名を告げる。天秤のアウラ。勇者の死後、さらにその名は有名になっているはずだが、ソリテールさんはまだ知らなかったらしい。でも無理もない。ソリテールさんはここよりも遥かに北からやってきたらしいのだから。
「凄いですよね。南の戦争も調停して……今は中央で活動しているそうです。北側にも来るんじゃないかって噂もあるぐらいで……」
でも、断頭台の頃とは全然変わってしまったのだろう。聖都で裁判を司っていた頃とも違う。今ではまるで女神様のように崇拝する人もいるほどになっている。噂では新興宗教のようなものを興しているらしい。人間たちが知っている魔族とはかけはなれた存在。
「今度会ったらちゃんとお礼を言いたいと思っているんです。リーニエにも」
それでも、自分にとってはそれだけではない。ただあの時のお礼を言いたかった。あの時はそれができなかったのだから。リーニエにも謝らなければ。約束を破ってしまったことを。
「リーニエ? 誰のことかしら?」
「そういえばまだ言っていませんでしたね。アウラさんと一緒にいた女の子の魔族です。二人とも親子みたいに仲が良くて。僕とも友達になってくれたんです」
それはお姉さんのことと同じぐらい、誰にも信じてもらえなかったこと。今でもすぐ思い出せる。自分をお姉さんと呼ばせたがっていた魔族の少女。それが恥ずかしくて、友達でと言った時、本当に嬉しそうに喜んでいた彼女の声。
「魔族と友達に? とても素敵ね。こんな偶然があるなんて。こういうのを、女神の思し召しって言うのかしら」
それを信じてくれたのかは分からない。それでもソリテールさんはそれを否定しないでくれた。素敵だと。僕もそう思う。全ての魔族が悪いわけじゃない。きっと良い魔族もいるのだと。お姉さんには否定されてしまったけど、誰よりもそのお姉さん自身がそれを体現していたのだから。
「アウラは何か君に言い残したかしら?」
変わらずソリテールさんはそんなことを尋ねてくる。人間だけでなく、魔族の会話にも、言葉にも興味があるらしい。ある意味、この人らしいのかもしれない。
「魔族は嘘つきだから気を付けるようにって言われました。変ですよね。自分も魔族なのに僕を心配してそんなこと」
それが最後に聞いたお姉さんの言葉。知らない人に気を付けるようにと。魔族に騙されてしまうからと。自分も魔族なのにそんなことを。まるでお母さんに叱られてしまった気がした。そんな歳ではないと、怒られてしまいそうだけど。そんな他人にするには恥ずかしい話を
「ええ、本当にそうね。私が知っている彼女からは考えられない言葉だわ」
ソリテールさんは、まるでお姉さんと会ったことがあるかのように、自然にそんな言葉を口にした。
「え?」
思わず、そんな声が漏れてしまった。分からない。気づけば手が震えていた。足が震えていた。心臓が脈打っている。汗が滲んでいる。分からない。何でこんなことになっているのか。目が見えていないのに。どうして。
「たくさんお話ししてくれてありがとう。とても参考になったわ。でも残念ね。えっと、こういう時は何て言うんだったかしら……」
そんな僕の姿を見ながらも、全く変わらずソリテールさんはこちらに話しかけてくる。でも違う。本能が警鐘をあげている。まるで蛇に睨まれてしまった蛙のように。知っている。僕はこれを知っている。忘れるはずがない。それが、魔族を前にした人間の反応であることに。そうか。僕は騙されてしまっていたのだ。目の前の、人に擬態した魔族に。なんて
「────言いつけを守らない悪い子にはお仕置きが必要よね?」
そんな母が子を叱るような言葉と共に、どすん、と。大きな音とともに、何かが胸に生えてきた。
それに手で触れる。大きな刃物のようだ。気づけば手が濡れていた。きっと血で濡れてしまったのだろう。
なのに、何も見えない。息もできない。見えないはずなのに、目の前が真っ赤に染まった気がした。
痛くてこわい。なのに声も出せない。なにもできない、おろかなじぶん。でも、おもいだすのは。
(もういちどあって、はなしたかったな)
そんなくだらないことだけだった────
「いけない、最期の言葉を聞き忘れていたわ」
食事を済ませた後、ようやくそのことを思い出す。うっかりしていた。研究で一番大事なことなのにそれを忘れてしまうなんて。
「まあいいわ。それよりももっと面白そうなことを聞けたんだから」
それも仕方ないだろう。思いもよらず、こんな面白そうなことを聞けたのだから。それに比べれば、これの断末魔など取るに足らない物だろう。また似たような個体で試せばいい。目が見えない人間は珍しいがいないわけではない。いないなら自分で作ってもいい。
「少し汚れちゃったわね……着替えと水浴びをしないと」
口を拭った手が真っ赤に染まる。見れば服にも返り血がついてしまっている。流石にこのままではいけない。まともに人間とお話もできない。水浴びをして着替えをしなければ。それでも
「中央ね……五十年振りかしら? 会うのが楽しみだわ、アウラ」
ただ愉しみで仕方がない。あのアウラに会うことが。五十年前に勇者に敗北し、隷属させられてしまったはずの彼女が一体どうなってしまっているのか。マハトのように変わった魔族ではなかったはずなのに。本当に興味深い。
ソリテールは歩きはじめる。まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように。それを心待ちにしながら。
ふと、鳴き声と共に鳥たちが飛び立っていった。教えてもらったはずのその鳥の名前も、教えてくれた少年の名も、彼女はもう覚えていない。忘れてしまっていた。彼女は魔族なのだから────