どうしてもチベット編が終わる日までに投稿したかったので。
月夜、一面の青い花に穏やかな風が吹く。あたしはかすんだ目と鈍くなった指先で、碑を掘っている。
あたし達の広めた文字は、長い時を経て今も様々な場所で使われて、モンゴル中に広まった。あたしはその学者として多言語からの翻訳や、各地での教育をこれまで続けてきた。もちろん、デキーが今も運営してる尼僧院で何度も文字を教えて、町の活気も見守って、問題があれば解決に手を貸したりもした。
モンゴル中、時には隣国まで足を運んで働く中で、救世主の...ラクシャーシーの碑を彫って各地に置いていった。その甲斐はあって、今はラクシャーシーについて悪鬼羅刹なんて言う人はほとんどいない。あの時代を知っている人が少なくなっただけかもしれないけど...。
あたしも、もうすぐいなくなるそんな人間の一人。どうやら老いて逝くみたい...。
きっと今日がその日だ。
体はだんだんと力が入らなくなっていくし、目のかすみもひどくなっていく。あたしを見舞いに来た人とはひと通り会っていって、最後は一人でいさせて欲しいと頼み込んで。この花畑、ヘルカとあたしの、あたしたちの一番の思い出が思い出せる場所までなんとかたどり着いた。
死ぬまでの間にここに来て彫っているのは、ラクシャーシーの碑...じゃない。彫っているのは、ヘルカとの、あたしたちの思い出。優しい性格だったこと、本当にバター茶が好きだったこと、青い花が大好きで育てていたこと。もう、婉曲な表現を使ったりもしない。あたしの目に映っていたこと、あたしの思っていたことをただ記していく。
これは誰かに見られなくたっていい。ううん、誰にも見られなければいい。あたしが居なくなっても、ヘルカの人生がどこかに刻み付けられていてほしい。もっと早くにやっておけばよかった、こんな時になって欲が出てきて、必死に手を動かすことにならないように。
「...できた」
持ってきた石に彫れることは余りにも少ない。さらに削って何とか残しておきたいことを全て彫ることができた。これで、ここでやりたかったことはやり切った。そう思うと気が抜けてますます力が入らなくなっていく。
「ヘルカちゃん...」
あたしの目の前で青い花が揺れる。何度か2人で、何度も何度も1人で見たその景色は今も昔も変わらない。変わらないままでいてくれた。変わらずに、ヘルカが傍にいるような気にさせてくれた。
「あたしはヘルカちゃんと同じ場所にいけるかな?」
答えのない問いをつぶやいていると、とうとう目の前が見えなくなっていく。それでもこの景色を最後まで目にとどめておきたい...。
ねえヘルカ、あたし、精一杯生きたよ。あたしたちの記録を、この世界に残せたの。
それに安心して?ラクシャーシーのこと、ヘルカのことを悪く言う人なんてもういないよ。ヘルカのこと...助けられたかな。
あたし...、絶望なんかに負けないで生きたよ...。