000
この作り話はノンフィクションです。
001
球磨川雪は、どこにでもいるような、そこら中にありふれた、いわゆる普通の女子である。少々捻くれた性格の兄を持っているが、その兄とも関係は良好だ。
生まれた瞬間から『元気』を凝縮したかのような性格で、幼い頃には度々一人でどこかに隠れて家族を焦らせ、見つかればまた別のところに隠れるなどして、かなり元気に遊び回っていた。
とにかく動くことが好きだったようで、兄が目を離せば勝手に家の中のもので遊ぶことも多かった。
要するに、雪は割と自由奔放な娘だったのだ。
そんな雪ではあったが、最愛の兄──球磨川禊の言うことだけは、どんなことでもよく聞いていた。例えそれが、どんなに無茶なことであったとしても。
とはいっても、別に禊が無茶なお願いをしたわけではない。ただ、頼まれればやっていたということだけは確かであった。実際にやったことといえば、精々家の掃除とか、留守番くらいのものである。どちらも2歳の雪には荷が重いものだったが、無事に言いつけを守っていた。
雪は言葉を覚えるのも、発し始めるのも、一人で歩き始めるのも早かった。夜泣きはしなかったし、駄々はこねなかったし、普段の生活中にわがままを言うこともなかったので、両親は雪のことを『利口な子』程度の認識に留めていた。
また両親は、雪の存在によって禊に兄としての自覚が芽生え、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、まともになった(ように見える)ということも喜んでいた。それはそれとして、箱庭総合病院には連れて行ったのだが。
箱庭総合病院では担当医である人吉瞳と禊が、個室の中で個人面談をするという形式だったため、その間雪は暇を持て余していた。意外にやんちゃだった雪は長時間の待機時間に痺れを切らし、勝手に病院内をうろつき始めてしまった。
その結果、雪は病院内の託児施設にたどり着く。今にして思えば──考えても無駄なことではあるが──雪はこの選択を、後悔することになった。
002
小学校に入学した雪は以前にも増して元気に遊ぶようになり、学校から帰ってくるとすぐに外に遊びに行くことが増えた。男女問わず、多くの友人がいたために付き合いも多かったためだ。
友人との付き合いが多くなった分、段々と禊にくっついて回ることは少なくなった。あくまでも以前に比べて少なくなっただけであり、かなりの頻度でくっついて回っていたのだが。それでも週に約350回ほどだったのが週に35回くらいにまで減ったのだから、大きな変化であると言える。
禊にくっついて回る頻度が減ったのは、遊びや学業だけが原因ではない。というかむしろ、それらは大した理由ではなかった。遊びは長くとも3時間程度だったし、学業はなぜかやたらと得意だったためにそこまでの時間はかからなかった。
主な原因は習い事として剣道を始めたことだ。昔からよく長めの棒を持っては振り回していたため、両親や禊が雪に向いているのではないかと考え、小学校入学という節目に始めさせたのだ。
ここであらかじめ記しておくことにするが、雪は勉学の才能に溢れている天才少女だったとか、運動神経がずば抜けて良いアスリート少女だったとか、そういったことは一切ない。
幼稚園の運動会の徒競走では四人中三着という結果だったし、友達とドロケイをしたりすれば中盤くらいには必ずと言っていいほど捕まっていた。サッカーもお世辞には上手いとは言えなかったし、なんなら球技全般はてんでダメだった。
ただまあ、理由が説明できないわけではない。そこまで運動神経がよくなかった雪が、剣道だけはやたらと上手かったことの理由は。
無理矢理にでも説明しようと思えば出来るのだが……しかしいかんせん正確性に欠ける。それでも強いて言うのであれば、雪は目が良かった。人より何倍も。
剣道という武道は、実践と同じくらいに見取り稽古がものを言う。故に、目が良い雪にとって、剣道という武道はまさしく適所であった。本人の気性にも、剣道の特徴はピッタリ合致したようである。
そこからは早かった。雪はすっかり剣道にのめり込み、友達と遊ぶ回数が減った。そのせいで付き合いの浅い友達とは縁が切れたが、関係が悪化したというわけではなかった。禊にくっついてくる頻度も目に見えて減った。禊は妹が自分と同じようにならなかったことに心底安堵し、関わり合うことを避けるようになった。
剣道の才能を開花させた雪は毎日毎日道場へと足を運び、自分よりも長く剣道をやっている有段者の先生方に稽古を付けてもらい、フラフラになりながらも日々成長を続けていった。
小学生女子の稽古量とは思えない、厳しすぎる稽古を受けに嬉々として道場へと雪が毎日通ったことには、当然彼女なりのモチベーションが関係していた。
そのモチベーションとは至って単純。『勝利への渇望』と『褒めてもらいたい』という、至って普通の人間らしい感情によるものである。
今まで何かで勝ったことがない。だから勝ちたい。勝って褒められたい。努力しているところを見せれば、きっとみんな褒めてくれるはず。努力して勝てば、みんな喜んでくれるはず。みんなが嬉しいと、自分も嬉しい。そんな可愛らしい理由が、雪の原動力だった。
その原動力は減ることなく、雪の体を動かし続けた。稽古の途中に怪我をしたことがあった。しかし雪は、先生に褒められたかったので痛みを堪えて稽古を続けた。目論見通り、先生は稽古終わりに『頑張って偉い』と雪の頭を力強く乱雑に撫でた。
雪はその怪我を引きずったまま稽古を続け、日に日に痛みは増していったがそれを誰かに言うことは無かった。誰かに褒められるためなら、その程度の痛みは我慢できた。
そして小学三年生の頃。雪は県の大会の小学生女子の部で見事に優勝を飾り、初めてその首に金色のメダルをかけた。それまでの努力が実を結んだことを実感した雪は、道場の仲間たちと集合写真を撮る時、思い切り泣いた。
それを見た仲間たちや先生方は、それぞれ笑ったり涙をこぼしたり、多種多様な反応を見せていた。それは当然禊も同じことで、家に帰って来た妹から大会の結果を聞いて、まるで自分のことのように喜び、雪のことを抱きしめながら頭を撫でた。雪は感激のあまり、もう一度泣いた。
それから雪は一層剣道にのめり込むようになり、四年生の時には再び県大会で優勝、五年生の時には県の選抜の代表に選ばれ、他県の選手たちと鎬を削り、辛勝と惜敗を繰り返した。
六年生になった頃には他県の強豪の道場相手にも勝てるようになり、その頃からは男子相手だろうが女子相手だろうが、誰を相手にしても一度も試合で負けなくなった。
あまりにも強すぎたため、全国の私立中学からスポーツ推薦での入学を希望されたが、家の近所にあったそこそこの規模の剣道部がある私立中学に入学した。家の近くにあるとはいってもその中学は全寮制だったため、親元を離れて一人暮らしすることになったのだが。
そして雪は、中学校の剣道部に入部した。
003
中学に進学したからといって何かが変わるかといえば、そういうわけでもなく。普段通りに勉強し、普段通りに稽古に励み、普段通りに生きている。人によってはそういうのを『飼い殺し』と表現するのかもしれないけれど、しかし雪は活き活きとして生きていた。
入学してから部内戦ではただの一度も負けず、なんなら対外試合でも大概負け知らず。中学一年生、事実上の小学七年生は、入学一ヶ月にして剣道部のエースに躍り出た。
県の強化錬成会では30試合全てで勝ち越したため、個人で表彰を受けた。ただ、チームとしては負けることも多かった。春の県大会ではチームの大将に据えられ、雪は全勝した。ただ、チームは準決勝で負けたためにベスト4だった。
団体戦ではそこそこな結果しか残せなかったものの、個人戦ではまさに天衣無縫。飾り気などなく、奇を衒った戦術もない、王道の剣道で相手を薙ぎ倒す様は、まるで美しい組み手を見ているかのような、ある種の神聖ささえ感じさせるものだった。
結果的に雪は全国大会の中学生女子個人の部で優勝を飾り、通っていた中学校の名声を高めることとなった。学校のスーパースターとしてホームページにも掲載され、剣道専門の掲示板では雪の話題で持ちきりとなった。
大会の結果報告のために道場を訪れた際には、恩師が人目も憚らず男泣きを繰り広げたため、雪もつられて泣いてしまうという事態が発生。稽古が一時中断となり、道場は上を下への大騒ぎとなった。
雪は喜んだ。みんな、みんな嬉しそうだったからだ。道場の先生方、後輩達、そして家族。近頃顔を合わせていない禊も、この時ばかりはいの一番にお祝いのメールを送ってしまったほどである。雪は当然、そのメールを見て泣いて喜んだ。今でもそのメールは、雪の携帯電話に保存されて残っている。
雪にとって、剣道はまさしく人生だった。剣道のおかげで人生は豊かになり、剣道のおかげで広い人脈を持てた。可愛い後輩達ができたのも剣道のおかげ、頼れる先輩方に出会えたのも剣道のおかげ。
そして何より、剣道で結果を残せば、お兄ちゃんが褒めてくれる。最近何故か距離を取りたがるお兄ちゃんが褒めてくれる。勝つことにこだわれば、あのお兄ちゃんが褒めてくれる。それが何より嬉しくって、楽しくって、雪は剣道を頑張ってきたのだ。
ただし雪は褒められることだけが目的ではなく、剣道自体も大好きだった。努力すればするほど実を結ぶ。研鑽すればするほど花が咲く。鍛錬すればするほど糧となる。雪からすれば、こんなに楽しいことは他になかった。
それはまさしく猪突猛進。進めば進むほど雪が放つ光は強くなり、また同時に、誰も追いつけないほど輝かしい存在となっていった。後ろめたいことや後ろ暗いことなど何もない。ただ純粋に、雪は前だけを向いて、自分の好きな剣道をとことん突き詰めた。
ただ、前だけを見て。
前だけを見て。
前だけを見ていたから。
──後ろ指を指されていることに気が付かなかった。