聖地を引き払う最中に、雨に見舞われる。
崩れた断崖を降りた所で、持ち上げた板神の下に開拓者たちは潜り、
森人たちは急ぎ簡単に天幕を張り、突然の水難を避けた。
「冬から春にかけて、雨季に入りますからね」
天幕に身を寄せた開拓者に、アスファルが語った。
アルフライラは野晒しである。
陽も沈み障壁に水が弾かれる中、暇な創世神は焜炉で簡単な汁物を作る。
降雨の中で火の使えぬ天幕の状況故に、森人たちの分も大鍋でぐつぐつと。
荷から分捕った干し肉を蕃椒と香菜ごと茹で戻し、乳と乾燥赤茄子を入れた。
塩は干物に使われているので胡椒だけ、あとは大蒜と
少し前に老森人に聞いていたレシピを、だいたいの要領で作り上げた。
冷え込みが厳しいせいか大まかに好評で、作り置きの硬パンとで夕餉である。
汁に浸したパンをもそもそと食べながら、アルフライラは雨の帳を覗き見た。
やがて天幕に寝息が聞こえる夜半過ぎ、弱まった雨は粉雪へと姿を変える。
「隠し雪、と言うほどには積もらない土地なんだっけ」
年を通して気候が安定している高地では、時折に雪は降るが積もる事は少ない。
仮に薄く雪化粧が乗ったとしても、昼過ぎには跡形も無く消えていると聞いた。
それでも折々の雨に、やがて泥に付いた足跡も消えるだろう。
そして翌日に凍て付いた泥を踏み砕きながら、集団は水を辿る。
道中に壊滅した高原森人の都を通り、生存者と荷物を加えながら密林を越え。
創世神が山猫親子に襲われる事3回、ようやくと森人村に帰還した。
越冬時期の難民受け入れに難色を示した現村長も、神々の契約と娘の説得、
神殿茶屋からの、まるで複製したかの様な大量の麦袋の寄付を受け併合を認める。
何故か創世神は、目を逸らして口笛を吹こうとして失敗していた。
ぷすーとか、謎の音が響く。
後はもう、人々の営みである。
やがて宿泊の期限も尽き、開拓者たちは森人村を後にした。
アスファルとその父である村長と泥人、巨人族や山猫族たちが見送りに出て、
山猫森人執事喫茶千夜神殿居酒茶屋に身を寄せた、元高原若長たちの姿も在る。
巨人族の女性は、以前に道案内をしてくれた個体である。
その肩には何故か、何もかもを諦めた表情の森人男性が担がれていた。
再会を祈る軽いやり取りと、別れ。
やがて旅人は渓谷より降り、草原に至れば道行きに人は絶え。
吹き抜ける風が枯草を舞い上げ、空へと散った。
「たまには温泉も良い物だったわねー」
丈の低い草原の道を歩みながら、マルジャーンがしみじみと口にする。
兵士の林檎の残りを齧っていたサフラが、それを受けて頷いた。
「生命の洗濯と言うヤツじゃったな」
ハジャルの結論に、首を捻ったジャマールが異議を唱える。
「天懸地隔、洗濯ではなく酒精で消毒の間違いでは」
先ほどから赤い顔で、ぷるぷるとしていたタサウブが終に爆発した。
「何で平気な顔して戻ってきてるのおおおおぉぉッ」
「はっはっは、まだまだ若いですねタサウブ」
当然の様な顔で一行に合流して、板に腰掛けた吟遊詩神であった。
「何なの、世界樹はどうなるの、緑の民を見守るんじゃなかったのッ」
「これは異な事、私は君の旅路を見届けたいだけの者と言ったでしょう」
からからと笑いながら、そうでしたよね姉さんと問い掛けた詩神に対し、
創世神はその美貌に、花も恥じらうような可憐な笑顔を乗せて口を開いた。
「私の妹は世界樹になったけど、誰かな君」
「麻姑搔痒ッ、可憐な笑顔でごく自然に縁切りされてます」
気付いていたでしょう、絶対に気付いていたでしょうと叫ぶ自称妹。
だって目が合ったしと叫んだ詩神に、他称姉は知らないなあと素で惚ける。
そんな嘆きの声を背に、皆さんはどう思われますと後輩は先達に問うた。
「いやあ、だってアルちゃんの妹だし」
「悪神だしな」
歌姫と剣士が呆れ半分の返答を出し、博士は疲れた声で言葉を紡ぐ。
「まあ、やるかもしれんとは思っておったの」
わたしだけええぇと叫んだ若い開拓者に、詩神が美声でからからと哂った。
人影の無い静かな草原の道を、叫び声が騒々しく奏でられ続け。
「で、気付いておったのか」
間を置き問い直したハジャルに、アルフライラは肩を竦める。
「ほら、やっぱり酷い話だった」
特に是非ともとれぬ言葉。
喧々囂々と声色は草原に響き、吹き抜ける風の音に彩りを乗せた。
気が付けば陽は中天に至り、冬の空気を暖かく解している。
穏やかな日差しに、アルフライラは目を細める。
笑いながら抱きしめられ、旋毛をぐりぐりと押されたのを嫌がったのか、
赤い顔のまま一行の先頭に立ったタサウブの背中が、その視界に。
そして自称妹の詩神が、板に横から腰掛けて五弦を爪弾いた。
「何にせよ、ご足労有難うございました」
終わってみれば森人たちは、見捨てられた民から託された民へと立場を変えた。
改めて緑の大神アフダルの役目は終わり、ただその心に寄り添う者として在る。
「残ったのは輝ける美か、随分と面の皮が厚い名前かな」
「実事求是、とは言えそうですね」
タサウブの旅が終わったら、
遠く神代に聞いた、姉に教わった追悼詩に所縁の名を挙げる。
何でと返り、けらけらと笑う。
それは、雪の上の金剛石が如き煌めき。
豊穣の穀物に注ぐ柔らかな陽光。
穏やかな秋雨、鳥たちを空へと運ぶ風。
やがて訪れる宵闇に在り、人々に寄り添う星々の輝き。
生命を謳歌する緑の女神。
「自由だなあ」
道なりに添う風に足を遊ばせながら、ジャマールは姉に告げた。
「だから姉さんは、こうして風の後ろを歩んでいれば良いのですよ」
そのままに会話を切り、五弦に指を踊らせる。
朗々とした神の歌声が、風に乗り草原を駆け抜ける。
―― その旗から滴る血の雫は この地を守り果てた友の血だ
聖地の湖畔に謳った、古き反逆者の歌。
正しい事も、許されざる事も、お奇麗に取り繕ったそれらをただ罵る歌。
―― そもそも認めて欲しいなど 一度も思った事は無い
道理も摂理も踏み越えて、残った感情だけを言葉にした様な。
―― 今は昔の反逆者 赦しなど端から求めない
古都へと向かう草原の上に、詩神の歌声だけが風と踊っている。
どこまでも遠く、酷い歌詞が美声に乗って世界へと響いて行く。
そして姉は背中にもたれかかる妹の重みに、静かに溜息を吐いた。