折からの雨は、塩の砂漠を鏡面に変えた。
ペル・アビヤドからイルドラードに向かうには、冬を避けるのが無難ではあったが、
タサウブのメジャークエストを鑑て、冬の砂漠を越える旅程が立てられる。
南西砂漠、銅の神国に隣接し、港湾都市の向こうに赤の神国を臨む帝国の果て。
破局噴火の末に火口のみが残り、玄武岩溶岩が散見する特異な火山地帯であり、
その地熱は夏を灼熱の地獄に、冬に夏の盛りの如き気温を砂漠に齎していた。
なので大回りに塩の砂漠、平地の火口に隣接する地熱の高い地域を経由し、
夜の極寒を最小限の回数で切り抜けて、イルドラードへと向かう予定だ。
特に急ぐ必要も無いが、イルドラードに戻るアルフライラたち。
情報を受け取り、春先にはイルドラードを離れたいジャマールとタサウブ。
塩の砂漠の先で別れ、港湾の町へと向かう予定の商人とその護衛。
そんな一行は、白一色な塩の砂漠を移動していた。
出掛けに獣神が追撃を掛けてきたが、そこは有志の獣人たちの尊い犠牲に因り、
何とか逃亡を果たし、交易路を南下して辿り着いた土地である。
黒の混ざる礫砂漠を越え、白い塩砂漠の切り出し場を越えて塩の町まであと僅か。
平面に近い塩の砂漠は雨水を受け、果てまで続く巨大な水溜まりを作っている。
つまりは水が消えるまでの僅かな期間は、遠浅の塩湖の様な状態である。
起伏の無い塩の砂漠が受け止めた水は、巨大な鏡として足元に広がっている。
足裏に水音を鳴らしながら、空の色を写し取ったかのような鏡面を歩んだ。
座る事もままならず、速やかに通り過ぎるべき場所ではあるのだが。
既に鏡の地平線の先に、小さく塩の町が見えてきている。
本来ならば、少しの無理をして辿り着くべきなのだろう。
しかし言うまでも無く、板は浮いている。
なので陽が中天に至る頃合、全員が板に腰掛けて陽除けの休息をとっていた。
普段使いより面積を拡大しつつ、それでも狭苦しい場所で持ち主が溜息を吐く。
生やした棒に陽除けの布を引っ掛けて、簡素な屋根を作り板を日陰に入れる。
板から生やした焜炉に鍋を掛け、道中の隊商宿場で作った煮込みを温めた。
今回に煮込まれていたのは、牛肉と茹で卵だ。
挽いて醗酵させた
包む時に乾酪を千切り、煮込みに混ぜて昼食が出来上がる。
「やはりこの、独特の酸っぱ苦さは慣れんのう」
眉を寄せながら、咀嚼したハジャルが述べた。
インジェラは醗酵食品であり、乳酸菌独特の酸味を持っている。
先史でも世界一不味いパンなどと呼ばれ、極めて人を選ぶ食品であった。
「何度も食べていると、その内に美味しく思えてきますよ」
健啖を見せる商人が言えば、眉を寄せている勢から疑心に満ちた視線が集まる。
ちなみに素で食べているのは他に、サフラとジャマールだけである。
その横で焙煎した大麦の粉に、砂糖を加えて作業用ハンドで振る調理神が居た。
出来上がった
「聞いたまま作ったけど、何か麦茶の親戚みたいな飲み物かな」
粉に白濁しとろみが付いているが、素材と工程的にだいたい麦茶糖であった。
「まあ麦茶よりは腹に溜まりそうだし、これはこれで別物ね」
マルジャーンが昼食を流し込みながら述べ、そのままガリガリと氷を齧る。
そして出された空の山羊皮水筒たちに、だばだばと水を詰めるアルフライラ。
山羊皮で作られた水筒は皮が水を通し、気化熱で中の水を冷やす性質を持つ。
砂漠で好まれる皮水筒だが、特に南方では重宝され普及していた。
そんな作業神に礼を言いつつ、影の中で適当に駄弁る一行。
「そう言えば副王都まで足を延ばしたのじゃな、何か目立つ事は在ったかの」
西方の話、特に千夜中略茶屋に関して興味深く聞いていた商人に、
ひとしきり話した後、そちらはどうかとハジャルが話題を振る。
商人はああと頭を掻きながら呻き。
「当然ですが、男爵が随分と中央で嫉妬を受けているみたいですね」
歯に物を挟まった様な言い方をすれば、護衛が言葉を継いだ。
「中央から法衣貴族が来てたんだけどよ、どいつもこいつも胸糞悪かったわ」
商人や護衛なんかそこらの羽虫みたいな扱いだぜと、憤懣やるかた無い。
「何か男爵にも似た様な言い草でさ、たかが男爵って伯爵様とやらがな」
その発言にマルジャーンが、遠い眼をして呆れ声で問い掛けた。
「あんだけの領地持ちに、たかが法衣の伯爵如きが言える事かしら」
よりにもよって副王のお膝元でと繋げば、商人が引き攣り笑いで告げる。
「新しい世代は、実情よりも爵位とかを重要視する方が多いらしいですね」
「建国戦争は遠くになりにけり、じゃなあ」
疲れた声色の商人の発言を、淡々とハジャルが受けて遠い眼をした。
「まあちゃんとしている方も多いですよ、初陣とかにきっちり出る様な」
現皇帝旗下やキレスタール王の治世ではまず見ないですねと、補足。
「つまり、他の選定王の土地は平和ボケしていっておると」
ジャマールが権能で生成した蜜柑をアルフライラが権能で凍結冷却し、
出来上がった冷凍蜜柑を配りつつ、タサウブと一緒に食べながら言葉を出す。
「永劫回帰、孫の世代あたりで内戦でも起こりそうですね」
「わしらはたぶん死んでおるから無関係じゃな」
アルよ頑張れと短命の人間が言い、不老の創世神が頭を抱えた。
そんなまったりとした食後の時間に、やがて陽は傾き南中を越え。
列を為す駱駝の隊商がまったり勢とすれ違い、切り出し場に向かっていく。
空荷の駱駝に、切り出し場で塩板を乗せて各地へと運ぶ塩の隊商である。
「ああ、切り出し場で板を2枚1組に結んでいたのは」
「うむ、背中に引っ掛けて左右に板を吊るすからじゃな」
商人が動いているなら時も頃合だろうと、休息を終えて全員が板から降りる。
陽除けの布や棒を板に仕舞いながら、創世神が詩神を呼んだ。
軽く伸びを打つなり、翳る陽の下で出立の姿勢に移る開拓者たちの中で、
アルフライラは気楽な風に手首を裂き、血流を操作し眼前に纏める。
「ちょ、アルちゃん何してんの」
治るから平気と素で言う少女の頭を、マルジャーンは結構本気でシバいた。
首と手首から煙を吹きながら、創世神はもうしませんと誓う。
纏めた血流は板から取り出した札に纏わりつき、吸収される。
そして出来上がる、赤い刻印が刻まれた神鉄の板。
「私の代理証明、旧神遺物を見かけたら千夜神殿にでも放り込んでおいて」
ぽいとジャマールに投げ渡し、そんな事を言う最後の旧神。
「厄介千万、バレたらナハースが目の色を変えて奪いに来そうなんですが」
妹の愚痴を微笑みで躱し、ふと真顔になり視線を横に流す姉。
その先には商人と護衛が居り、ジャマールの頬が引き攣った。
既にバレている、最低でも黒の神国には漏洩したも同然である。
「ジャマールなら大丈夫ー」
突然に酷い機密を放り投げられた商人たちも顔を青くし、詩神と向き合った。
適当な信頼を放り投げて、アルフライラは貧血の顔のまま横に成る。
俄かに騒がしくなった道中に、砂を渡る風が足元からの湿気を吹き飛ばした。