ジェーン・ドゥの目が醒めると、時間は既に午後であった。
旅の詩神から紹介された宿に泊まり、軽く身を清めた後に
床に入れば、思うよりも旅の疲れが溜まっていたのかとの有様。
紹介状が功を奏したのか、空調も好調に稼働する良い部屋であり、
それと清潔な寝床が、疲労を表面化させた要因であったのかもしれない。
備え付けの冷蔵庫から飲料水を取り出せば、壁に蜘蛛を見つけた。
「まあ、これぐらいはご愛敬か」
タンクトップとショートパンツの上に、陽除けの外套を羽織る。
軽く身を整えて部屋を出れば、丁度の時間だと宿の主人が告げた。
陽除けの時間が過ぎ、街が動き出す頃合いだと。
奇貨を幸いと、寝坊者は観光を兼ねて食事を求め外に出る。
傾き若干に弱まった陽射しはそれでも強く、街を炙っている。
白い外套が陽を弾くも、熱は籠もり下着との狭間に対流を生んだ。
取り急ぎ、宿で聞いた軽食喫茶に向かう茹で人間。
大通り沿い、宿からあまり離れていない場所にそれは在った。
煉瓦造りで落ち着いた色彩の、年季を感じさせる店。
店頭の立て看板に、シェヘラザードの母菓子と書かれている。
店内に入れば影、そして空調が冷やした空気が女史の身を包む。
「このシェヘラザードの母菓子とはどういう物なのかね」
「ああ、シェヘラザード神にご愛顧頂いた菓子なんですよ」
正確には千夜神がですがと、店主は軽くお道化て訂正した。
「初代が引いていた屋台に、よく食べに来ていたとかで」
まあこの街の老舗はたいてい神々に贔屓されていますがと語り、
流石は聖都だなと、聞いた観光客は素直に感心した。
「はい、
せっかくと注文したジェーンの元に、珈琲と菓子、そして水が並ぶ。
先ずは水を飲み補水して、ゆったりと食事に移った。
香ばしい香りと苦みに中に、仄かに甘みの在る菊苦菜の珈琲は、
カフェインも少なく起き抜けの胃腸にも柔らかい。
そして発酵乳が乗せられ、砕いた
「はあ、随分と食べ易い物だね」
これは近所に在ったら足繫く通うかもしれないと、王国民が感嘆する。
満足して支払いをすれば、店主がジェーンに2枚の札を渡してきた。
現在、旅ちゅーばーアルちゃん様コラボ期間で千夜札を配布していると。
封を開けて中を見れば、2枚とも赤い衣装の巨人が印刷されていた。
「紅玉のアルちゃん様06と09」
―― 赤い 赤い赤いアイツ 紅玉のアイオーン
フレーバーテキストを読むも、何かこう納得がいかない雰囲気が滲む。
千夜物語の持つイメージからかけ離れているせいであろうか。
ともあれ女史は札を懐に入れ、宵が訪れる前に軽く観光と動き出した。
西日を受けながら、道中に豚さん印の麦藁帽子を買う。
「ふむり、やはり安心と信頼のオーク品質だな」
産業革命期に貴重な収入として、農民の生活を支えた豚さん印の麦藁製。
陽射しをしっかりと遮る割に軽やかで、網目も細かく整っている。
良い買い物であったと相好を崩しながら、聖域への参道を歩んだ。
都を縦横に走る人造の大河を渡り、そそり立つ岸壁の狭間。
第一帝国時代から健在の参道を歩めば、石畳の聖域に辿り着く。
右より穴居人の聖域と呼ばれる黒姫大神殿、機械神殿と全竜神殿。
中央に白き猫神の獣神大神殿、その左右には雷音神殿と大河神殿。
左道の極みには千夜大神殿、狐狸神殿と奇獣神殿に挟まれている。
それぞれ神殿の手前には魔神竜像、救済幸福祈願像、太陽の塔。
奥には無敵鉄車、犬狼神像、月輪のアイオーンが聳えていた。
どれも由来に歴史の在る建造物であり、観光名所である。
故に周辺には、土産物屋の屋台が軒を連ねていた。
客引きをあしらい、それでもいつの間にか果実水を買わされ、
プラコップ片手に逃げる様な有様で千夜神殿に駆け込む女史。
影に入り、熱気から解放された瞬間に深く息を吐く。
それでも少し動いたせいか、外套の中の汗は渇くよりも多く。
軽く前を開け、服の中の換気を試みた。
「噎せ返る様な雌の匂い」
「ふぇッ」
そして突然に掛けられた言葉を受け、ジェーン嬢が思わずの叫び。
慌てて周囲を伺えば、神殿の床に正座している赤い巨大単眼海星が居た。
器用に下2本の触腕を曲げて座り、中2本を手の様に擦り合わせている。
「あ、ああ、えっと、これは失礼」
「いえいえ、大変結構で御座いました」
これまで海星に拝まれる経験の無かった女史は困惑の中で無礼を詫び、
大して巨大な海星は、単眼を細めて感謝の寿ぎを述べていた。
「しかしお嬢さんえっちぃ身体ですね、奇獣神殿に仕えませんか」
「え、いや、何が、何を言っているんだねキミはッ」
困惑の中で混乱を増す女性に、奇獣神パイラと名乗った海星は
触腕を蠢かしながら距離を詰め、自らの神殿に取り込もうと策謀し。
通りすがりの猫耳騎士のショベルフックに穿たれ床に沈んだ。
「観光の方ですよね、大丈夫ですか」
千夜猫々騎士団の印章を身に着けた黒髪の猫耳女性が声を掛けながら、
ついでにパイラ神を足で端に寄せれば、毛玉の様な家猫族が集まる。
そして海星がぺしぺしと猫足で叩かれ続ける中。
「あ、いえ、私もぶしつけではあったから」
「パイラ様も、基本的には良い神ではあるのですが」
頭痛を堪える様な猫耳騎士の後ろで、海星が叫んでいる。
自分もザハブの様に可愛い女の子を侍らしたいだけなんだと。
「あー、可愛いは、久々に言われた気がするな」
「本当に、基本的には良い神なんです」
瞳からハイライトの消えたジェーンの前で、猫耳騎士は顔を覆った。
女史は遠くを見つめる内、同居している友人との会話を思い出す。
彼女は極めて豊かな胸の下に、腕を組んで支えながら言っていた。
―― いやねキミ、私の外見も中々に性的魅力が在るとは思うのだよ
しかし関わった男性は、何故か皆がジェーンの方を向くと。
―― 思うに、その無知無知とした太腿肉がイケナイのでは無いか
何を思い出しているのだろうと、女史はさらに遠くへ視線を飛ばした。
そうこうと現実逃避をしている内に、パイラ神は神殿へと輸送され。
気が付けば猫耳騎士と相対するジェーンは、家猫族に囲まれていた。
そして次から次へと、鼻先をゴツゴツとぶつけられている。
「あ、あああ先輩方、その方は観光客ですよッ」
猫耳騎士の制止も聞かず、次々に押し付けられる猫人の顔。
「いくら太腿がえっちぃからって、女性に失礼ですってッ」
「ふ、太腿か、やはり太腿が悪かったのかッ」
混乱と混沌の末に、灰斑の背中に乗せられ運搬されるジェーン・ドゥ。
その横を申し訳無さそうに、猫耳女騎士が並んで歩いていた。
「すいません、先輩方も普段は大人しいのですが」
「ああいや、中々に出来ない経験ではあったよ」
そして猫人の女騎士は、ファソーリヤ・ライラと名乗った。
「千夜物語に居る美貌の猫人、フル・アスワドの末裔なんですよ」
傍系なんですけどねと、軽く笑いながら語った。
黒き毛並みで数多の大神を魅了したと伝えられている伝説の家猫族。
史実ではアルフライラに仕え、その毛並みからライラの名を授かったと。
それ以来、常にライラ一族の誰かが千夜神殿に仕え続けているらしい。
そしてぽてぽてと歩く猫に乗った女性と、猫耳女騎士。
千夜神殿名所、黒曜石の巨大鏡を通過して本殿に向かう。
「そういえば、道中で紹介状を貰ったんだ」
歩みながら紹介状を騎士に渡せば、その内容を見て顔色を変えた。
「そ、総員警戒態せぇーッ」
―― ぎにゃああああぁぁぁ
―― もーふもふもふもふもふもふもふ
「あ、あああ、遅かったああぁ……」
叫ぶと同時、聞こえてきた悲鳴を受けてファソーリヤが膝をつく。
「え、ええと、もっと早く渡すべきだったかな」
「いえ、貴女のせいではありませんから」
崩れ落ちた女騎士に声を掛ける女史の横を、刺又を抱え二足歩行に成った
幾匹かの家猫族が通り過ぎていき、何処か遠くで悲鳴が続いた。
ともあれ観光客には関りの無い話と、騎猫女史たちは本殿に向かう。
黒く、透明感の在る黒曜石タイルが敷き詰められた千夜本殿。
涼し気な空気の中、主不在の高台には招き猫の焼き物が置かれていた。
そして中央に置かれた賽銭箱に、賽銭をするジェーン。
「物語では、家猫族が転がっていたのだが」
流石に創作だったかと零せば、ファソーリヤが苦笑を込めて告げた。
「今でも暑過ぎる日とかは、先輩方がよく転がっていますよ」
ちょっと今は侵入者対策で出払っているだけだと。
そんな事を話しながら、本殿端に設置された土産物店舗に寄った。
「いらっしゃいませ、トレーディング六波羅蜜が人気ですよッ」
店舗では、陽に灼けて褐色肌の黒髪少女がお土産を勧めて来た。
「ふむり、もしや西大陸の方ですかね」
「ええ、天羽楼国には行かずこっちで獣人をやっています」
赤の神国の向こう、いまだ群雄が割拠し戦乱冷め遣らぬ西大陸で、
定期的に生じる難民のほとんどは、社会主義人民天羽楼国に向かう。
そして僅かな例外、神国の下に在っても良しと思う少数派だけが、
東に向かい幾つかの国へと渡り、その地で保護を受けていた。
「西だと、獣人を名乗るだけで結構忌避されたりしますからねえ」
「ああ、私も紛争でそう言う人を良く見たよ」
まあ故郷には帰れないと言うか、もうここが故郷ですと言い切る店員。
あっけらかんと笑う様に、固い物を呑み込んだ様な顔のジェーンが。
「何と言うか楽しそうで何よりか」
「国も神殿も、出来る限りの保護はしているんですけどね」
何とも言えない感想を述べれば、苦々しくファソーリヤが告げた。
ともあれと勧められるまま土産に六波羅蜜猫心像を買い、
かさばるかなと悩めば、住所まで配送をしてくれると言う。
「ストリートの221Bで」
「はい、承りました」
住所を告げ、梱包された心像を預け。
売上ノルマ達成と気炎を上げる店員を苦笑交じりに眺めつつ。
もしや