宵闇の中、砂混じりの風が石壁を打つ音が響く。
ジェーン・ドゥとアルフリーフは、夜明け前に遺跡を発った。
第一帝国時代、かの大神集う大戦の陣地に使われた場所である。
赤の道中宿場都市からバスで国境を越え、大陸西方に至った。
いまだ砂漠地帯であるそこで外に住む者たちと契約を結ぶ。
イルカディア湖までのツアーガイドである。
そして駱駝に乗り換え、隊列を組み他の客と共に砂を渡った。
かつては軍勢を収めた広大な遺跡は、宿泊所として活用されていた。
耳を澄ませば、砂風の音に混じり遠く駱駝の鼾も聴こえる。
そして夜明け前に、かつての戦地の反対側へと歩を進めた。
旧都イルカーディア跡地、砂中に在る巨大な人造湖。
「道中は急かされて気を取れなかったが、確かにこれは凄いな」
砂を踏み、空を見上げながらジェーンが述べた。
電気角灯の明かりが足元の影を揺らし、墨色の砂へと影が伸びる。
空に輝く星々は、文明の灯に妨げられる事無く満天に広がっていて、
大地には宵闇の中、星明りを受けた砂丘だけが浮かび上がっていた。
「古今変わらず、かつての開拓者たちが見上げた夜空ですね」
第一帝国時代なら、イルドラードでも見れた空だと詩神が謳った。
やがて故イルカーディアに生まれた人造湖の湖畔に辿り着く。
遠く墨を流したような漆黒の湖面は、夜空の星月を映している。
夜明けを待ち、1柱1人の女性が手持無沙汰に会話を重ねた。
「しかし感無量だよ、陣地の聖句も確かに存在していた」
「千夜物語、言及している版は少ないのに良く知っていましたね」
石造りの戦陣遺跡に刻まれた、千夜神の聖歌。
何のために生まれ、何をして生きるのかと人々に問い掛ける言葉。
全てが終わった後に神が謳い、月光の賢者が刻んだと伝えられている。
「父方の言い伝えでね、歌が彫られているとだけは聞いていたんだ」
しみじみと語る人の言葉に、しみじみと頷きながら神が問い掛けた。
「察言観色、ジェーン・Dと言うのは母方の名ですか」
突然に何かねと困惑する様相に、そう思っただけですよと詩神が告げる。
そして、隠す様な事でも無かったかと女史は素直に頷いた。
「同居人を彷彿とさせる唐突さだったから、少し驚いたよ」
「ふむり、ならばもう少しかの安楽椅子探偵に倣いましょうか」
次いでアルフリーフは、サインをお願いできますかと書物を取り出す。
連合王国に名高き探偵小説、怪神二十面相の系譜に連なる怪盗達の、
反作用として生まれた冒険探偵、その足跡を記した書籍の作者名は。
―― ジェーン・H・ワトソン
「バレてたか、どこらへんでわかったのかね」
「バレバレです、スリッパに飴玉を隠す性的倒錯者の相方では」
よりによってそこかねと、ジェーン女史がジト目と化して。
「帰りは、天羽楼国の様子でも伺って帰りますか」
軍に報告する必要が在るのでしょうと、神が笑顔のままで囁いた。
言葉を受け、暫し固まったジェーンはやがて頭を振り、
何かを言おうとして口を噤み、やがて肩を竦め溜息を吐いた。
「路銀を少し貰い、帰ったら旧友に旅の思い出話を語るだけさ」
「脣歯輔車、実に素晴らしき友情ですね」
西大陸の油田権益を統べる天羽楼国を、障害と見做す国は多い。
軍事独裁の批判、民主化への活動、数多の奇麗な言説で以てして、
どこか真綿で首を絞める様に、風説を造りあげている機運が在る。
「雲外曇天、現在の天羽楼は地獄の蓋ですよ」
だが同時に、西大陸に発生し続ける難民の拡散を防ぐ防壁でもあった。
天羽楼が倒れれば、彼らはどこに向かうのか。
少なくとも、神国や獣人系国家は避ける方向性に成るだろう。
未来に想到し、連合王国人は軽く嘆息する。
「かの千夜神が、こんな我らを見たらどう思うのだろうな」
「断言、確実に指差して爆笑します」
目を座らせた神の宣告に、人は少し引く。
繰り返す歴史にツボがハマっているだけだが、その内心は伺い知れず、
端から見たら単純に邪神の言動であり、かの神によく在る事でもある。
千夜物語にて主人公から降ろされている現実は、伊達では無かった。
やがて勿忘草の色に染まった空に軽く茜が差し。
雲霞に拡散された陽光が砂と湖に色彩を加える。
世界が、生命に染まっていく。
「どっと疲れたが、何にせよ夜明けと言う物は安心するね」
ジェーンは知らず硬直していた身体を解す様に首を回し、
アルフリーフは弛緩する空気に笑いながら言葉を紡いだ。
「果実は遠くに落ちず、先祖と似た様な事を言いますね」
何の事かねと問い返す人に、神は肩を竦めて言葉を積み上げる。
「かの一族、嫡男だけが名を継いで他は1代名乗りを許されるのでしたか」
確か彼の血筋は、分裂戦争の時に分家へ婿入りしていましたかと。
「ですよね、ジェーン・ヘイミッシュ・ハジャル・ヒッル・ワトソン」
継がれる名を全て並べられ、終に女史は両手を上げて降参を示した。
「ご先祖様が辿った道筋に、興味が在ったのも本当だよ」
「まったく、ハジャルの血族は今も旅の空に呪われたままですか」
苦笑を滲ませた言葉には、呆れ果てた声色が返る。
「しかし随分と詳しいが、アルフさん、貴女は何者なんだ」
ただのロックンローラーには不釣り合いな言動に疑問を呈せば、
問われた神は悪戯染みた笑顔を浮かべ、そっと告げた。
「青の条約機構、特別顧問の肩書ならば持っていますね」
「そ、そうか、だからこれほどに様々な情勢を注視して」
納得の色を見せたジェーン女史を見て、軽く噴き出す吟遊詩神。
「何と言うか、素直な方ですね貴女は」
早朝の湖面に笑い声が響く中、女神は女性へと軽く歩を進める。
何か間違えたのかと困惑を見せている耳元に、そっと口を近付けて囁いた。
「我が名は大神アフダル、かつてはジャマール・シャムスと名乗っていました」
ジェーン・H・ワトソンの時間が凍り付く。
「秘密ですよ」
陽光に白く輝く砂中の湖に、大神の微笑みが重ねられていた。
あと少し語ろう。
北周りで青と豚人の歓待も受けたジェーン女史は密林に辿り着き、
特に何の問題も無く、連合王国のハブ空港まで帰還を果たした。
荷物の受け取り時に、尋常ならざる美貌の少女と擦れ違ったが、
凄まじく可愛らしい娘だなと、感嘆するだけで何事も無く。
やがて同居人の待つ下宿に戻れば。
何故か単眼の海星が居た。
頭部っぽい上部触腕に布を巻き、左右の触腕に持ったはたきを振りながら
安楽椅子の上で棒飴を齧っている社会不適合者にこき使われている。
神殿とかはどうしたと叫ぶ様に聞けば、妹が神殿の床に正座させて、
働かずに食べるごはんは美味しいですか、などと詰めて来ると涙目で語る。
奇獣神の妹などと言うパワーワードはとにかく。
ともあれ探偵の爆乳に目もくれず、太腿に言い寄り続けるその有様に、
探偵とその助手が太腿か、太腿なのかねと叫んだりはしたが。
今日もまた人の世界は、穏やかに騒がしく奏でられていた。
そして霧の都は今も光化学スモッグで曇り。
「さて世界樹」
月光の如き髪色を持った少女は、バス亭で小さな仮面に語り掛ける。
鮮血の如く赤く染まった茜も霧から薄れ、宵闇が染めていく中。
幾度もバス停をヘッドライトが照らし、テールライトが置き去りにする。
通りを吹き抜ける風が霧を揺らし、やがてバスが来た。
もはや神が偽る事も無く、どこまでも人の世が続いていく。
「次は、どこに行こうか」
故に今日もまた太陽は眠り、事も無く千の夜を繰り返す。
騒がしく奏でられる人の営みを乗せて。