日干し煉瓦を打ち付ける雨音も夜半には絶え、時折に何かが崩れ落ちる音がする。
気が付けば何時の間にか眠っていた様で、凍り付いた様な暗闇の貴賓室は、
朝の光を受けてどこか溶けた様な気配を持つ薄闇へと空気を換えていた。
「朝かなー」
そして体を起こそうとして、動けない。
暗闇の中で逡巡、落ち着いて意識を巡らせれば肉体には何の問題も無く、
しかし動けない、ただ、胴体の上に何かが乗っている様な圧迫感がある。
「これは……金縛りッ」
上で猫妹が丸くなっていただけだった。
すわこれこそが1万年間ほとんど関わりの無かった心霊現象かと喜び、
胸躍らせながらアルフセンサーで周囲の霊素の痕跡を調査した私の期待を返せ。
しかし丸い、そして重い。
とりあえず転がして落とそうと手を伸ばせば、すぱんと叩き落される。
やべえ、眠っているから本能100%で対応してきやがるこの地上最強生物。
そもそも獣神権能以前に、人間サイズの猫科って普通に猛獣だってばさ。
動けない、と言うか無理に動いたら私の命の保証が無い。
そして飼い猫が寝床に引き込むお気に入りのボロ布の様な有様で、
猫縛りのままの私の時間は特に何をするでもなく過ぎていく。
家畜化実験と言う物が在る。
20世紀中頃、シベリアの研究所でベリャーエフ博士が
狐の交配を以て行った遺伝に関する研究の事を指す。
雑食、飼育下でも発揮される繁殖能力、穏やかな気性、
精神的な安定、同種族の集団内で序列を作るなどの、
家畜化を可能とする条件を満たすとして、狐の家畜化実験が行われた。
家畜化した生物は、見た目が可愛らしくなり、雄と雌の差が小さくなり、
繁殖期が長くなり、精神が安定しているなどの特徴があげられる。
そして交配の果てに、狐は明るい毛皮で尻尾を丸めて人懐っこい気性を持ち、
繁殖時期の長期化、ストレスホルモンの減少などの特徴を持った狐へと変化し。
家畜化は成功した。
その研究結果は論文として20世紀末に発表され、実験の前後の個体の
遺伝子検査から家畜化に関する遺伝子が判明するなど、遺伝学に大きく貢献する。
そして英国、その様々な研究を知った人類学者のランガム博士は気が付いてしまう。
あれ、もしかして現代人って類人猿を家畜化した生き物なのでは。
その発想は驚愕を以て受け入れられ、さまざまな研究の末に、
生存環境から自分で勝手に家畜化していく生き物が存在すると結論付けられた。
狼の群れの中で生きられなかった弱い個体が人に懐き、
やがて犬へと変化して人類の友と化した様に。
しかしそうなのだろうか、本当に人類に主は居ないのだろうか。
さて、21世紀に至る遺伝子研究の結果、ひとつの事実が判明した。
9500年に1万年追加した過去、人類と接触してそれ以降現在に至るまで
傍に在り続けながらも、一切の遺伝子の変化が無かった生物が存在する。
猫である。
人類に接触した後にそのまま勝手に居座った至高の生物である。
流石に2万近い年月では僅かな変化はあったが、柄が増えたぐらいであって。
そう、もうおわかりであろう。
旧人類と新人類は、猫の家畜として猿から進化した生き物であったのだ。
なので私が、1割猫の下敷きにされる現状も仕方が無い事なのだ。
しかし丸い、そして重い。
かくの如く人類の宿業に身を苛まされていれば、消魂しい足音が朝を祓い、
扉を開き部屋へと乱入してくれば、それは何か黒い。
「お姉さま、外すごいですわよッ」
両手でばんと扉を開いたエミーラが、人類の務めを果たす私を見た。
「おるぁッ」
間髪入れずに転げ落とされる猫。
落下の感覚に即座に意識を覚醒させ、身体を反転させながら
足から床に接地した獣神妹と、ファイティングポーズの黒姫妹。
互いに言葉も無く、即座に開幕した高位素体姉妹のじゃれ合いに、
巻き込まれたら命キケンな匂いがギュンギュンするので気配を消して。
喧騒を背に、板をふゆふゆと酒場厨房へと向かわせる。
「おはーだよー」
厨房に入れば、何か酒場でカチコチに固まった開拓者たちが震えていた。
見れば鯰髭と黒子衆も、酒場の隅で凍てついた神像と化している。
軽く広場に視線を移せば、それはもう見事な白化粧。
「積もったね」
「足首まで埋まるぜ」
夜半に雨音が消えたのは、雪に変わったからだったかと気が付く。
そのまま酒場の有様を店主に聞けば、冷え込みがエゲツ無かったから
夜間に凍えまくっている冷凍開拓者が量産されたとか言いだした。
「毛布を、もう数枚追加で買うべきじゃった」
何か冷凍組に見慣れた面々が混ざっている。
「アルちゃん、とりあえず何か男の子って感じのお願いー」
マル姫が物凄く意味の分からない注文を出し、剣士さんが横で頷く。
「男の子って言われてもだね」
「鶏ガラと野菜の煮出し汁なら結構あるぞ」
店主が出汁の入った鍋を見せてくるから、まあ適当にと大蒜をとる。
大蒜は既に水の中に漬けられていて、似た様な物を作る気だったのかとか。
「男の子って言えば『ウスターソース』か大蒜だよねー」
「何か凄く偏見な気がするが、異存を持つ余裕が無いのじゃー」
大蒜と玉葱の皮を剥き、玉葱の外側の硬い部分は店主に渡し、
それは煮込まれて駆け出し用の賄いになるとか何とか、まあともかく。
作業用ハンドでスライスしつつ、竈に乗せた鍋に果実油をだばー。
大蒜を入れつつ、ついでに
スライス大蒜の色が変わったあたりで玉葱を放り込み、しんなりと炒め。
水で薄めた鶏ガラ出汁投入、ついでに塩胡椒で味を調え、
適当に器によそって、上から乾絡を削り掛ければ。
「はい
以前作った物から芋と乳を抜いて、果実油と玉葱をメインに置いた感じ。
「ぬおおお、温まるのじゃあぁぁ……」
「はー、やっぱ大蒜って男の子だわー」
剣士さんは無言で飲みつつ、少し眉根が下がっていた。
そして解凍されていく面々を見て気が付いたのか、冷凍開拓者がゾンビの様に、
怪談かな、怪談だな、とりあえず賽銭箱を置いて鍋を店主に渡す。
そしてふゆふゆと全てを背後に置いて移動する、だって雪だし、砂漠の雪だし。
そんなレアな光景を見逃さねえぞと、どうせ昼には溶けるだろうしとか。
門を出て見れば、これまた綺麗な銀世界。
軽く板から降りてみれば、くるぶしまでがサクッと埋まる。
年間降水量が少なくても一度の降水は普通に多いから、雪だと積もるのか。
これはもう足跡をと前に進もうとしたら、そのまま倒れた。
うん、足がもう動かない。
とりあえずジタバタと手足を肩と股で動かす感じに、こうジタバタと。
こうして雪の上に出来る扇状の手足の人型を、雪の妖精と言うのだったっけ。
駄目だ、もう動けない。
板か、とりあえず板に凍死体と化すであろう私を掘り起こす様に指令を、
とか最後の力を振り絞って生存の可能性を追求していたら、首根っこ。
剣士さんに板に放り込まれ、そのまま広場の日当たりの良い所に安置された。
そんな冷凍神たる私も昼前には解凍が終わり、雪景色も砂に埋もれて消えて。
まあ何千年ぶりかに、全身で雪を堪能できた冬の砂漠だったとか。