遠き空に僅かと茜が混ざり、太陽が大地に伏す頃合。
たまさか今日は風が強く、砂が巻き上げられていたせいか地平は淀み、
陽光が砂色に遮られ、世界は紅に染まらず薄明を纏う。
そんな薄曇りの誰彼刻、アルフライラは軽く伸びを打った。
「さて、そろそろイルドラードに ――」
それを擬音で表すのならば、ぺしゃりと言うべきであろうか。
あるいは、ぷちりと表現するべきなのかも知れない。
猫の如き、可愛らしく丸まった手であった。
猫の如く、何を見ているかわからない無表情であった。
つまりは、狩猟動物の顔である。
そして白き獣神は、かつてアルフライラと呼ばれていたモノを
自らの下に敷き込みながら板の上で丸くなる。
「ああ、アルちゃんが寝床に引き込むお気にのボロ布状態にッ」
ほろりと流れぬ涙を拭う仕草でマルジャーンが嘆いた。
かの如く、創世神の帰還は今日も物理で防がれている。
それより離れた場所では篝火が焚かれ、薄明が祓われている。
作業を終えた有象無象は宿所に戻り、まだ寝ない者は灯りに寄った。
詩人は歌い、麦酒は売られ、簡単な肴がそこかしこで作られる。
貰い火で湯を沸かした皇女、アイン・アル・ヒッルは、
筒状の沸かし鍋に粉末を放り、中の湯に溶かしこむ。
「高位貴族なのに、手慣れた物じゃな」
その手際にハジャルと男爵が意外と感を見せれば、それには苦笑で返す。
「貴族女が料理をしないなど、御伽噺を信じる齢でもあるまいに」
そして楓糖蜜、楓の樹液を煮詰めた蜜を加えて杯に注ぎ分けた。
「皇族、王族にしろ貴族にしろ、結局は戦う者だからな」
戦時に汗血を流す騎士たちに、労いの1膳も作れぬ令嬢など論外であると。
貴族も高位に成れば成るほど、そのあたりは義務と成ると語る。
「などとは言うが実のところ、宮廷雀の娘などにはたまに居る」
孕み腹以外に能の無い人型の不良債権がと、言外を哂った。
「知らぬや苦手、どころの話では無いのじゃな」
「生まれつき料理が不得手でも、普通は家人が必死に1品程度は叩き込むな」
「辺境育ちの木っ端貴族にはわからない世界だーよ」
騎士爵程度だと料理人を雇えるのは一握りで、自炊が圧倒的多数である。
男爵の嘆息に、昇爵してしまったのだから必要な知識だと皇女が笑った。
気が付けば昼の灼熱も遠のき冷気と変わり、一同は杯の温かさを両手で包む。
「少し呆けた、果実の様な軽い酸味、
「このあたりでは
外に住む者の水場に幾らか生えているそうだと補足。
多種樹木、地中の根の如き様相の枝を持ち、逆しまの樹などとも呼ばれる。
大量に成るその実と若葉は食用に、種からは油がとれ、樹皮は縄や編み籠、
もしくは解熱剤などの薬用に使われ、その樹木からは飲用水がとれる。
そして果肉を乾燥させ粉末状にした物が、目の前の茶を作る素材であった。
軽い柑橘に似た果実の酸味と、ほのかな甘みがある果実茶であるが、
やはりもう少しの甘味が欲しいと、砂糖や蜜を足して飲まれる事が多い。
「砂糖や蜂蜜も良いが、朕は楓糖蜜を好むな」
言いながら足りぬのではないか、どれ足してやろうと、
篝火に照らされる中、男爵の杯に匙を寄せて蜜を注ぐ皇女の姿。
「囲い込むのう」
ハジャルの小声の呟きは、誰にも届かず宵に消える。
篝火の時間とは言え、まだそれなりに人が残っている中で、
帝国の皇女が手ずからの茶を振る舞い、談笑している姿を見せる。
どう考えても周知するためにわざとやっている。
しかし男爵はともかく、自分は何故であろうかとハジャルは疑念を持った。
「して、黒の姫はそのうちに自国へ戻る意志を固めたらしいな」
怪訝の色を僅かも表に出さぬ開拓者の耳に、世間話の様な声色が届く。
「アルのやつはどうじゃろうな、同行しそうではあるの」
同じく、気の無い声色で軽く身内の動向を告げた。
乾燥粉末の割に意外と漂う香気に包まれ、茶会が冷える。
そして互いに果実茶の杯に口を付ける、僅かな間。
「イルカサルアルクから国境を目指すのを薦めよう」
推薦と言いながら、ほぼ強制の意図が見える言葉が静寂を祓った。
「私の母方の領地でな、過去の紛争で男爵とも知己が在る」
故に紹介状が出せると、杯を傾けながら言を足した。
聞き手は静かに言葉の内容を吟味し、改めて口を開く。
「紹介状などより、依頼の方が欲しいどころかのう」
「そう言うのは、既に誰かがイルドラードに出しているだろうさ」
楽し気な声色の返答に、ハジャルは顔を覆い天を仰いだ。
黒き姫神の帰還と、それに伴う黒の神国内の争乱。
いったい帝国内のどれだけの勢力が、それを望んでいるのか。
「何の所縁も無い開拓者が好き勝手をして、帝国の得と成る」
そして逃がさぬとばかり、月長石の悪魔へ釘刺しの言葉。
「などと言う、我らの面子が潰れる状態は避けたい物よな」
帝国は蚊帳の外に出る気は無いと、それはもはや脅迫であった。
「聞かなかった事にしたいのう」
「聞かなかった事にしてえなあ」
男性陣のよく似た言葉が、奇遇にも茶の上に重なる。
滾々と火にかけられた缶鍋は沸き、杯に茶を足しながら時間は過ぎた。
気が付けば灯と星月の夜、静かに茶会も終わりに近付く。
「そう言えば今日は見なかったが、黒の姫は何をしていたのだろうな」
「何か、外に住む者の頭領と岩砂漠に向かってましたね」
皇女の言葉に男爵が応え、場を片付ける開拓者と侍女の耳に、
宵闇に遠くから響く、何とも最近に聞き慣れた声が届いた。
―― お姉さま、たすけてくださいましーッ
そっと聞かなかった事にする茶会参加の面々。
何とも言い難い表情で視線を逸らせば、宵闇の先に体躯の大きな剣士。
白き獣神の首根っこを掴み、無言で獣神神殿仮宿所に向かっている。
中空に吊られた白猫は、真顔で空中に猫鉄拳を繰り出し続け、
何とも言い難い現状に対する抗議を身体で示していた。
「……どの方向を向いてもツッコミ所しか無えッ」
一同の内心を代弁した男爵の叫びが、月下の宵闇に消えた。