【まずは成功シーン】
狭霧山の麓、冷え切った空気の中に、天狗の面を被った老人の厳しい声が響き渡った。
「炭治郎。お前に一つ聞く」
元水柱、鬼殺隊の育手の老人・鱗滝左近次は、炭治郎を鋭く見据えた。背負い箱の中には、鬼となってしまった妹・禰豆子が眠っている。
「もしも妹が人を喰ったら、お前はどうする」
唐突な問いに、炭治郎は息を呑んだ。答えに窮し、わずかに思考が止まる。その、コンマ数秒の逡巡が命取りだった。
バチィィィンッ!!!
乾いた音が山間に反響した。鱗滝の容赦のない平手打ちが、炭治郎の頬を跳ね飛ばす。
「判断が遅い!」
炭治郎が痛みで顔を歪める間も与えず、鱗滝は冷徹に言い放った。
「お前はとにかく判断が甘い。先ほどの問いに、なぜ即座に答えられなかった? お前の決意の甘さは、そのまま妹の死に直結すると知れ」
鱗滝は一歩踏み込み、地面に膝をつく炭治郎を上から見下ろす。その威圧感は、吹き付ける夜風よりも冷たい。
「妹が人を喰った時、お前がなすべきことは二つ」
鱗滝の声が、低く重く響く。
「妹を殺し、そしてお前は腹を切れ。鬼となった妹を連れて歩くというのは、そういうことだ。誰にも取り返しのつかない悲劇を生ませぬという、不退転の覚悟が必要なのだ」
炭治郎は呆然としながらも、その言葉の重みを、己の魂に刻み込んだ。
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【もしも判断が早かったら】
狭霧山の冷え切った大気の中、鱗滝左近次は天狗の面越しに、目の前の少年を鋭く射抜いた。
「炭治郎。お前に一つ聞く」
その問いは、これからの過酷な運命を左右する「覚悟」を問うものだった。
「もしも妹が人を喰ったら、お前はどうする」
「はい! 禰豆子の首を落として、俺も腹を切ります!!」
炭治郎はコンマ零秒の即答を見せた。その瞳に微塵も躊躇いも迷いもない。だが、その刹那。
バチィィィンッ!!!
鱗滝からの平手打ちが炭治郎の顔を捉え、雪の上を転がった。頬を押さえ、天狗の面を見上げる炭治郎に、鱗滝はかつてないほどの「情熱」を帯びた怒声を浴びせた。
「諦めが早いッ!!!」
「ええっ!? 諦め!?」
「いいか、炭治郎! お前は兄貴なのだ! この美しくも残酷な世界において、たった一人のこの娘の味方なのだ! それを、そんなに簡単に『殺す』『死ぬ』などと口にしてどうするッ!!」
鱗滝は炭治郎の胸ぐらを両手で掴み上げ、前後に激しく揺さぶった。その声は震えている。あまりの「情」の深さに、面がガタガタと鳴る。
「何があっても守り抜くのが兄貴の役目だろうがッ! この場合の『守る』とは、妹に人間を殺させないことを指すのだ! いいか、『妹には絶対に殺させない。命に代えても、何がなんでも絶対に、人間を殺さない』……! そういう気概はないのかッ!!」
「き、気概はあります! ありますけど、万が一の場合には、責任を取る覚悟を……!」
「そう言う問題ではない!!」
鱗滝の咆哮が山々に木霊した。
「鬼を連れて歩くというのは、理論や道徳を超越した、絶対に離さないという『執念』が大事なのだ! 妹が人を襲いそうになったら、お前がその腕を差し出して噛ませろ! 喉を鳴らしたら、お前の全精力を持って抑え込め! 妹を殺す覚悟を決める前に、まず何がなんでも絶対に人間を殺させないという『足掻き』を覚えろッ!!」
鱗滝の天狗の面の裏から、熱い涙が流れているのを炭治郎は直感した。この師匠、あまりにも情に厚すぎる。
「お前の答えは正しいが……兄としては最低だ! 俺が求めているのは、正論を言う利口者ではない! 泥水を啜ってでも、何としてでも、妹と二人で生き抜こうとする『運命に抗う執念』なのだ!! 分かったかッ!!」
「は、はいッ!! 命に代えても、泥水を啜ってでも、禰豆子には絶対に人間を殺させませんッ!!」
「よし!! それでいい!!」
ガシィッと炭治郎を抱きしめる鱗滝。
結局、判断が早かろうが遅かろうが、殴られてしまう炭治郎なのだった。
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【桃色の柱合会議】
産屋敷邸の庭園には、計算し尽くされた美しさと、それとは対極にある殺伐とした殺気が同居していた。
中央に這いつくばらされた炭治郎は、太い縄で自由を奪われ、砂利の痛みを膝に感じながら必死に声を絞り出した。
「禰豆子は……禰豆子は鬼になって二年間、一度だって人を喰ったことはありません! 禰豆子は鬼と戦えるんです! 鬼殺隊として、人を守るために……っ!」
その必死の訴えを、一陣の荒々しい風が切り裂いた。
風柱・不死川実弥。全身に刻まれた無数の傷跡は、彼が潜り抜けてきた修羅場の数。その双眸には、鬼に対する純粋な、そして底知れない憎悪が宿っている。
「だったら……俺の血を吸うか吸わないか、試してみようじゃねえか」
不死川は挑発的に口角を歪めると、腰の刀を抜いた。白銀の刃が太陽を反射し、炭治郎の瞳を焼く。
「もしこいつが俺の血を吸わなかったら……お前の言い分を、不本意ながらも認めてやるよ。だが、吸っちまったら……その時は、この箱ごと塵にしてやる」
不死川は迷いなく自らの前腕を切り裂いた。
溢れ出すのは、鬼にとって地上で最も甘美な劇薬――「生き血」。
その濃厚な香気は、風に乗って庭園全体に広がり、他の柱たちさえも思わず息を呑むほどの重圧となって禰豆子を襲った。
「…………っ!!」
箱の中から這い出した禰豆子の喉が、大きく鳴った。
竹製の口枷を食いしばり、必死に理性を繋ぎ止めようとする。だが、不死川の血はただの血ではない。非常に特殊な『稀血』であった。
その香気にあてられた鬼は
必死に抗おうとする禰豆子の瞳が、徐々に焦点を失っていく。爛々と輝いていた桃色の瞳は、次第にトロンと潤み始め、頬は熱を帯びたように赤らんだ。そしてついに、極上の酒に酔いしれた『酩酊』の状態が完成した。
「止めろ禰豆子! 耐えるんだ! お前は鬼なんかじゃない……負けるな!!」
炭治郎の叫びが響き渡る。だが、その声は深い酩酊状態に陥った禰豆子の耳には届かない。
禰豆子は、ふらふらとした足取りで不死川に歩み寄った。そして、まるで慈しむように、血の滴るその腕を、柔らかな両手で包み込んだ。
「……あ……」
炭治郎の思考が停止する。
禰豆子は、口枷をわずかにずらし、不死川の腕にこぼれた真紅の滴を、静かにその舌で掬い上げた。
「……ハ、ハハハッ!! 見ろ! 結局はこれだ! どんなに繕おうと、所詮は鬼だァ!!」
不死川の勝ち誇ったような哄笑が、静まり返った庭園に突き刺さる。対極的に、炭治郎の視界からは色が消えていった。
禰豆子が、血を、舐めた……。
その事実は、これまで積み上げてきた全ての努力、義勇や鱗滝が命を懸けて保証した誓約、その全てが瓦解したことを意味していた。
「ああ、禰豆子……もう駄目だ、おしまいだ……」
炭治郎の目から、大粒の涙が白砂へとこぼれ落ちる。膝から力が抜け、首を垂れた。
「……禰豆子を斬って、俺も腹を切ろう。せめて、俺たち二人の命だけで事を収めてもらうんだ。義勇さんや鱗滝さんの命まで巻き込むわけにはいかない……」
絶望の静寂が、庭園を支配した。
柱たちの冷ややかな視線と、血を舐め続ける禰豆子の喉の音だけが、残酷に時を刻んでいた。
白砂の庭に、場違いなほどの甘い沈黙が流れた。
禰豆子は不死川の腕を離さない。口枷の下から覗くその仕草は、飢えた悪鬼のそれとは程遠かった。
トロンとした瞳で不死川を見つめ、滴る血を丁寧に、執拗にねぶり、ピチャピチャと粘性を帯びた水音を庭園に響かせる。
さらに、刀傷の周りを愛おしそうに、まるで接吻でもするかのようにチュッと吸い付き、最後には指先を「ハムッ」と優しく甘噛みし始めた。
それは生血を啜る『悪鬼』ではなく、まるで愛しい恋人を慕い求める『情愛』の様相を呈していた。
「……っ、…………おい、貴様ッ……」
それまで鬼を憎悪の対象としてしか見ていなかった不死川の顔が、みるみるうちに耳まで赤く染まっていく。突きつけた腕から伝わる、禰豆子の柔らかく、そしてあまりに無垢な温もり。
風柱の鬼に対する『憎悪と殺気』が、かつてない速さで瓦解していく。
「キャーッ! 禰豆子ちゃん大胆……! なんて情熱的なの! キュンとしちゃうわ!!」
恋柱・甘露寺蜜璃が、両頬を抑えて身悶えしながら叫んだ。彼女の瞳はハートマークを象り、溢れ出る『恋の予感』に庭園の空気が一気に華やぐ。
「……ふん、下品な……」
木の上では、蛇柱・伊黒小芭内が羽織の襟で口元を隠し、顔を真っ赤にしてそっぽを向いていた。口では平静を装いつつも、目の前のあまりに濃厚な『甘い雰囲気』に動揺を隠せない。
だが、そんな色めき立つ周囲の空気に、ただ一人全く気づいていない男がいた。
「ああ、禰豆子……あんなに、あんなに必死に血を求めて……。もう、おしまいだ。言い訳の余地なんて、どこにもない……」
炭治郎は砂利の上に膝をついたまま、嗚咽を漏らし、絶望の淵を彷徨っていた。彼にとって、禰豆子が人の血を舐めたという事実は、死を以て償うべき大罪以外の何物でもなかったのだ。
「……おい、ガキ」
震える声で不死川が呼びかけた。彼はぶっきらぼうに禰豆子を振りほどくと、皆に背を向け、震える手で刀を鞘に収めた。
「不問だ……」
「……えっ?」
涙で霞んだ瞳を上げた炭治郎に、不死川は背中を向けたまま、吐き捨てるように、しかしどこか早口で言い放った。
「この一件は……不問にしてやる……」
「ど、どういう意味ですか、不死川さん? 禰豆子は今、明らかにあなたの血を……」
「……俺の血は『稀血』なんだよ。こいつの香りにあてられりゃあ、鬼は正気を失って酩酊状態になっちまう。……だが、そんな意識が朦朧とした状態にあっても、お前の妹は……俺を『喰おう』とはしなかった。ただ……その、妙な……甘え方をしただけだ」
不死川は顔を赤くし、声を荒らげて誤魔化す。
「鬼としての本能を、この稀血の支配下にあってさえも見せなかった……。だから、お前の言い分を……認めねえこともねえ、と言ってるんだ。……それだけだッ!!」
「……! ほ、本当ですか、不死川さん!?」
炭治郎の顔がパッと輝いた。地獄の底から一気に天国へ引き上げられたような、輝かしい笑顔。
「ああ、もういい! お前ら、文句ねえな!! 終わりだ、この話は終わりだァッ!!」
柱たちの間にも、先ほどまでの殺伐とした空気は微塵も残っていなかった。お館様も、このあまりに予想外で『平和』な着地点に、穏やかな微笑みを浮かべている。
そんな中、首の根っこまで真っ赤にした不死川は、誰とも目を合わせないように、猛烈な速足でその場を去っていった。
彼が去った後の庭には、満足げに口枷を咥え直し、ふにゃふにゃと幸せそうに揺れる禰豆子と、号泣しながら彼女を抱きしめる炭治郎の姿があった。
結局のところ、最強の『稀血』の持ち主である風柱は、禰豆子のあまりの愛らしさに、己の信念ごと心を奪われてしまったのであった。
おしまい☆