漫画アニメ短編集&救済の物語   作:クリリ☆

60 / 61
ドキドキ文芸部!【リクエスト作品:ここが私の生きる世界②】(救済)

 

  【ドキドキ、部活動!】

 

 結局、俺はそのままなし崩し的に文芸部に入部することになった。と言っても、お堅い文学を嗜むわけでもなく、しばらくはナツキから借りた漫画を一緒に読む日々が続いた。

 

 俺は部室の空いている席に適当に座り、ナツキから借りた『パフェガールズ』という少女漫画を熱心に読み進めていた。筋肉マニアの男が読むにはいささか可愛らしすぎるタイトルだが、いざ読んでみるとこれがなかなかストーリーが凝っていて面白い。

 だが、ナツキ本人はすでに最新巻まで読み終わって暇を持て余しているのか、最近では俺のすぐ隣に座り、俺がページをめくる様子をじっと確認してくることが多くなってきた。

 

 そんな、ある日のことだ。

 

「ライト、ここ座りなさいよ」

 

 部室のドアを開けると、ナツキは教室の一角、壁に背を預けて直接床に座り込んでいた。すぐ横には『パフェガールズ』の本が数冊置かれている。

 

「何をやってるんだお前? いくらでも席が空いてるのに、わざわざ冷たい床に座ることもないだろ」

 

 俺が呆れて声をかけると、ナツキは不満げに唇を尖らせた。

 

「席じゃ遠くて、あんたが今どこを読んでるのか分からないでしょ」

 

「……俺が読んでいるのを、隣で一緒に見る気か?」

 

「そうよ、進捗状況の確認よ! あんたがちゃんと漫画を理解して読んでるか、見張ってあげるの」

 

 などと言い出し、結局それからというもの、俺たちは壁際で床に座って、二人並んで漫画を読むようになってしまった。

 肩と肩が触れ合いそうなほど物理的な距離が近くなって、正直言って全く落ち着かない。時折、隣からナツキの息を飲む声が聞こえてくるのも、健康的な男子高校生の精神衛生上、かなりよろしくなかった。

 

 

 そんな日常が始まってしばらく経った、ある日のこと。部活動の時間の終わりに、モニカが「みんな、ちょっといいかしら?」と部員を集めた。議題は、間近に迫った文化祭の出し物についてだった。

 あちこちから意見が出るかと思いきや、モニカの頭の中にはすでに明確なプランがあったらしい。

 

「私はね、文芸部として『詩の朗読会』を企画したいと思っているの」

 

 学校のアイドルであり、絶対的な部長であるモニカの、まさに鶴の一声。反対する理由もない一同の沈黙を賛成と受け止め、文化祭の出し物はあっさりとそれに決まった。

 そして、その本番に向けた練習として、今日からしばらくの間、各自で毎日オリジナルの詩を一つ作ってきて、放課後にみんなで見せ合うということになった。

 

 ――詩の交換。

 

 ここにきて、いよいよ文芸部らしい本格的な活動が始まるわけだ。しかし、これには正直言って頭を抱えた。これまでプロテインの成分表かアニメの公式サイトのあらすじくらいしかまともな活字を読んだことがない俺に、詩なんて高尚なものが書けるわけがない。

 だが、ふと隣を見ると、お気に入りの少女漫画を大事そうに抱えたナツキの姿が目に入った。

 そうだ、よく考えたらナツキだって毎日部室でカップケーキを食べて、漫画を読んでいるだけだ。彼女も詩の経験値なんてきっと俺と大差はないはずだ。そう勝手に決めつけると、俺の胸の内にあった焦りは少しだけ和らいだ。

 

 

 

  【ドキドキ、詩の発表会!】

 

 そうして迎えた翌日の放課後。

 いよいよ部員同士で詩を発表し合う初日の時間がやってきた。だが、俺は机の上に何も出すことができず、ただ自分の無力さに打ちひしがれていた。昨晩、ノートを開いてペンを握ったものの、頭に浮かぶのは効率的な大胸筋の追い込み方やアニメの神回のことばかり。結局、一行もまともな言葉が紡げないまま朝を迎えるという、最悪の失態を犯してしまったのだ。

 

「え、ライト、もしかして何も書いてこなかったの?」

 

 サヨリが心配そうに覗き込んでくる。モニカやユリもノートを片手に困ったような、だけどどこか優しげな視線を俺に向けていた。

 穴があったら入りたい。そんな俺の無様な様子を見たナツキが、ふふんと鼻で鳴らし、腰に手を当てて自信満々に言った。

 

「なーんだ、しょうがないわね。それじゃまずは私がお手本を見せてあげるわ。しっかり見てなさいよ?」

 

 ナツキはふんっと鼻を鳴らすと、カバンからノートを取り出して、俺の前に自信満々に突き出してきた。

 彼女のノートには、シンプルながらも真っ直ぐな言葉で、こんな詩が綴られていた。

 

 

 

『ワシは飛べる』

 

サルは登れる

コオロギは飛び跳ねられる

ウマは駆けっこできる

フクロウは見つけられる

チーターは走れる

ワシは飛べる

ヒトは努力できる

だけどそれくらい。

 

 

 そこに並んだ言葉を、俺はじっくりと目で追っていく。お堅い文学的な表現や気取った比喩は一切ない。だけど、だからこそ、俺のような文芸初心者にもそのメッセージがストレートに伝わってきた。

 

「なるほど、要はみんな個性が違うのだから、ありのままの自分でいれば良いという訳だな。なかなかやるなナツキ」

 

 俺がその見事な着眼点に素直に感心して思ったままを告げると、ナツキは待ってましたと言わんばかりに、ふいっと顔をそらしながら嬉しそうにはにかんだ。

 

「まあ、こんなもんよ」

 

 すぐにその表情を必死に押し殺し、何でもないことのように腕を組み直すナツキ。だけど、隠しきれないドヤ顔と、少しだけ赤くなった耳が彼女の本音を雄弁に物語っていた。

 

 

「それじゃ、次は誰に発表してもらおうかな?」

 

 モニカがノートを片手に、楽しげに部員たちを見回した。

 視線を向けられたユリは、自分のノートをきゅっと胸元に抱え込み、恥ずかしそうにモジモジと俯いてしまう。そう言えば、昨日文化祭の出し物を決める会議をしていた時も、彼女は「自分の書いたものを人に見せるのは、少し恥ずかしい」というようなことを言っていた。

 

 きっとユリにとっては、静かに本を開いてその世界に没入し、見知らぬ異世界を冒険することこそが、文芸部での心地いい在り方なのだろう。無理に人前に立つのは、まだハードルが高いのかもしれない。

 

「それじゃ、サヨリいいかな?」

 

 モニカが優しく促すと、サヨリは「はーい!」と元気よく手を挙げて自分のノートを開いた。

 そこに綴られたサヨリの詩は、彼女の優しくてどこか無邪気な感性がそのまま文字になったような、不思議な温かさを持った作品だった。

 

 

『親愛なるお日様 へ』

 

ブラインドから差し込む朝の陽ざしで、

きみがさみしかったのがわかるよ。

額にキスをしてくれるとベッドから起き上がれるの。

目をごしごしして眠気をぬぐう。

表に出てあそぼうって誘ってるの?

雨ならいいのにって思ってないか確かめているの?

上をあおぐ。真っ青な空。

ヒミツだけど、わたしもきみを信じてるよ。

きみがいなきゃ、ずっと眠っていられるのにね。

でも怒ってないよ。

あさごはんたべたいな。

 

 

 最後まで読み終えて、俺は素直な驚きを覚えていた。毎朝のように遅刻寸前でドタバタと家を飛び出してくるあのポンコツ娘が、こんな詩を書くなんて想像もしていなかったからだ。

 

「なるほどな。朝起きる時に、お前ってそんなことを思ってたのか。普段の様子からは想像つかないくらい、俺が思ってたより繊細なんだな、サヨリは」

 

 俺なんかは朝が来たら「チッ、朝か。プロテイン摂らなきゃ」くらいにしか思わない。そう考えると、こうして詩を作って互いに見せ合うというのは、普段は見過ごしてしまう心の豊かさや、他人の内面に意識を向けるための、すごく良い機会なのだなあと深く感心してしまった。

 

「ま、まあね……。ライトに読まれるのは、なんかちょっと恥ずかしいけど……」

 

 サヨリはえへへと笑いながらも、いつもより少しだけ歯切れが悪い様子で頭の後ろをかいた。まあ、物心ついた時からの幼馴染に、自分の内面を曝け出した詩を読まれるのだ。恥ずかしくないわけがないのだろう。

 

 だが、こうして二人の詩を続けて読んでいるうちに、俺の頭の中で凝り固まっていた「詩とは高尚でお堅いもの」という既成概念が、みるみるうちに崩れ去っていった。

 ナツキのように直球でもいいし、サヨリのように無邪気でもいい。要するに、正解なんてなくて『今、自分の心に浮かんだこと』をそのまま言葉にすればいいのだ。

 

「何だか、俺も書けそうな気がしてきたよ。ちょっとだけ待っててもらっていいか」

 

 俺がそう言ってカバンから机の上にスケッチブックを取り出すと、四人は驚いたように一瞬目を丸くした。だがすぐに、モニカが「ええ、もちろん! 楽しみに待ってるね」と嬉しそうに微笑んでくれた。

 

 俺はペンを握ると、自分の名前に含まれる漢字や、日頃の生き方から連想した、たった今思い付いた事を、そのままスラスラと迷いなく書き上げていった。これを果たして世間が『詩』と呼んでくれるかは分からないが、まあ、駄目なら駄目で笑い話を一つ提供する事になるだけだ。次をまた書けばいい。

 

 そうして十分ほどの突貫作業で書き上げると、俺は少し緊張しながら、スケッチブックをみんなに見えるように掲げて発表を始めた。

 

 

『転がる石』

 

俺は磊人(ライト)、転がる石だ。

俺は誰にも止められない。

そう言えば『転がる石に苔はつかない』という言葉を聞いたことがある。

これには二つの意味があるらしい。

特にアメリカとイギリスで大きく解釈が違うとか。

革新的なアメリカでは、『動き続けていればいつまでも活動的で若々しくいられる』と解釈され

伝統を重んじるイギリスでは『いつまでも根無し草のままでいると何も身に付かない』と解釈されるらしい。

いわば苔をポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるか。

でも、物事には多面性があるのだから、どっちの解釈でも間違いではないと思う。

 

 

「……どうだ?」

 

 一気に読み終えて、俺はみんなの反応を窺った。

 最初に口を開いたのは、やっぱりナツキだった。彼女はスケッチブックの文字をじっと睨みつけるように読んだ後、呆れたように肩をすくめた。

 

「何だか詩というより、国語の授業やただの用語解説みたいね。あんた、大真面目にことわざの解説書いてどうすんのよ」

 

 手厳しい。だが、ナツキらしい直球の批評に、俺は思わず苦笑いした。

 すると、その言葉を遮るように、すかさずユリが少し身を乗り出して、静かだけど熱のこもった声で反論した。

 

「私は面白いなと思いましたよ。特に、一つの言葉の意味が国や文化によって全く違うという部分に、サラリと知性が感じられて素敵です」

 

「ちょっとユリ、これのどこが知性よ。ただの雑学っていうか、知識をそのまま並べただけでしょ?」

 

 ナツキがムッとしたように言い返す。だが、ユリも今回は一歩も引く気はないようで、ふんわりとした雰囲気に反して強い眼差しをナツキに返した。

 

「ですが、その得た知識を自分自身のアイデンティティ……つまり『転がる石』という言葉に重ね合わせて、ひとつの作品の中に落とし込むのは、まさにその人の知性のなせるわざです。ただの箇条書きとは違います」

 

「それに、苔って何だか汚らしいわ。石は常に磨かれて、一番キレイな状態でいる事が大切よね」

 

「別に、ここで言う苔は比喩表現なのよ。つまり『付加価値』って意味なんだから、苔が付く事こそが石の価値を上げる事なのよ!」

 

「付加価値? むしろ『錆び』でしょ!」

 

 

 ――おいおい、またかよ。

 

 俺の初めての詩を巡って、部室の空気は一瞬にしてパチパチとした火花が散る空間へと逆戻りしてしまった。

 当の作者である俺を完全に置き去りにして、ナツキとユリの第二ラウンドの論戦が始まっていく。サヨリは「あわわ……」と両手をパタパタさせる。

 自分の書いた拙い国語の授業のような詩が、まさかここまでの大激論を巻き起こすとは。

 

 サヨリがどうしていいか分からず、助けを求めるようにオドオドとした視線をモニカへと向けた。白熱しすぎたこの二人の議論を穏便に止められるのは、もう部長であるモニカをおいて他にいない。

 

 「まあまあ、二人ともそこまでにしておきなさい」

 

 モニカがパンと軽く手を叩いて割って入ると、弾かれたようにナツキとユリが言葉を止め、同時に彼女の方を見つめた。二人の視線には、自分の意見のどちらが正しいのかを部長にジャッジしてほしい、という強い意思が込められている。ここでモニカがどちらに軍配を上げるかによって、部内のパワーバランスが大きく左右されかねない状況だ。

 

 緊迫した空気の中、モニカはフッと優しく微笑み、俺のスケッチブックに目を落としながら口を開いた。

 

「私は、苔なんてそもそも、この石の本質には何の関係もないと思うわ。だって、ここでいう苔って、第三者が勝手に価値を決めた、いわば『レッテル貼り』のようなものでしょ?」

 

 ――おお。

 

 予想だにしなかった角度からの言葉に、俺は思わず目を見張った。さすがはモニカ、二人のどちらかに加担するでもなく、新たな独自解釈を述べる事で、場の空気を一変させた。しかも、ただの喧嘩の仲裁に留まらず、俺の拙い詩の内面にある本質を恐ろしいほどの深さで突いてくる。

 

「苔が付いていようがいまいが、その石がどう転がって、何故そこに存在するのかということには、一切関係がないもの。大切なのは、その石が今もそこに在り続けているという事実そのものじゃないかしら」

 

「さすがは文芸部の部長だな。感服したよ。ノリと勢いだけで書いたからさ。俺自身、そこまで深くは考えてなかったよ」

 

 俺が本気で感心してそう告げると、モニカはどこか嬉しそうに、だけどやっぱり少しだけ寂しそうな、不思議な光を瞳に宿して俺を見つめた。

 

「いい、ライトくん。これからも、色々な意見や感想が出てくると思うけど、自分の心に思い付いたことを遠慮なくここに書き留めていってね。言葉にして紡ぎ出したものは、間違いなく、あなたがここに確かに存在しているという『生きた証し』なんだから」

 

「ああ、ありがとう、モニカ」

 

 彼女の言葉は、ただ詩を褒められているという以上に、俺という存在そのものを強く肯定してくれているような、温かさと重みを持っていた。

 モニカの圧倒的な説得力を前にしては、ナツキもユリもそれ以上言葉を続けることはできなかった。お互いに「ふん」と小さく息を吐いて視線を逸らし、それぞれの席へと戻っていく。

 こうして、俺の初めての詩の発表が巻き起こした小さな嵐は、部長の見事な手腕によって、ひとまず穏やかに収まるのだった。

 

 

 

  【ナツキを襲う脅威】

 

 そうして初めての詩の発表会が一段落し、部室の中に少しのんびりとした空気が流れ始めた頃、モニカが俺の席へと歩み寄ってきた。

 

「ねえライトくん、ちょっと図書室の本と入れ替えをしたいから、一緒に来てくれないかしら? 上の棚から重い箱を下ろしたり、少し力がいる作業もあってさ」

 

「ああ、分かった。力仕事ならいくらでも任せてくれ」

 

 俺は快く立ち上がり、部室を出ていこうとするモニカの後に続いた。ただの空き教室とはいえ、一応は学校の図書室とも連携して活動しているんだな、なんてこの時は呑気に考えていた。

 

 静かな廊下に出ると、夕暮れの赤い光が窓から差し込んでいた。あの学校のアイドルであり高嶺の花であるモニカと、こうして肩を並べて歩いているなんて、未だにちょっと信じられない。まるで夢の中の出来事のような、どこか浮足立つような心地よさを感じていた。

 だが、階段を少し下り、人気のない渡り廊下に差し掛かったところで、モニカはふと足を止め、俺の方へと振り返った。

 

「ライトくん。実はね、図書室の整理っていうのは口実でね、本当はあなたと二人だけで話がしたかったの」

 

「えっ……俺と、二人だけで? いやあ、それは光栄だなあ」

 

 想定外のシチュエーションに、俺は思わず頭を掻きながら照れ笑いを浮かべた。しかし、モニカの顔にいつもの余裕や笑顔はなかった。彼女は見たこともないほど、深刻で、暗い影を落とした表情を浮かべていた。

 

「ライトくん。あなたが部活に馴染んで、ナツキやユリにもずいぶん懐かれてるみたいだから、意を決して話すんだけど……。実はあの二人、それぞれとても深刻な悩みを抱えているの」

 

「深刻な悩み……? 一体、何のことだ?」

 

 俺の言葉に、モニカは少しだけ間を置き、何かを躊躇うように視線を落とした後、覚悟を決めたように真っ直ぐ俺の目を捉えて話し出した。

 

「ナツキはね……家で、父親から日常的に虐待を受けているの」

 

「な、何だって!?」

 

「声が大きいよ、ライトくん」

 

「あ……ごめん」

 

 あまりの衝撃的な言葉に、思わず静かな廊下で大声を出してしまった俺を、モニカは人差し指を唇に当てて窘めるように制した。俺は慌てて口を噤んだが、心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。

 

「お父さんから、まともに食事を与えられないことも日常茶飯事で……それだけじゃなく、激しい暴力を振るわれることもあるみたいなの」

 

 モニカのその淡々とした、だけど重い言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏でこれまでのナツキの行動のパズルが一気に組み合わさり、合点がいった。

 そう言えば、俺が初めて部室に入ったあの日、ナツキは俺のことをやたらとトゲのある態度で接してきた。あれは父親からの容赦ない虐待を通じて、男性という存在そのものに、強い警戒心……もしかしたら、恐怖心を抱いていたからかも知れない。

 

「ナツキの身体が同級生と比べてあんなに小さくて華奢なのはね……恐らく、成長期に満足に食べさせてもらえなかったことによる栄養失調と、それによる身体の未成熟のせいじゃないかって、私は思ってるの」

 

「そんな……あいつ、そこまで深刻な状態だったのか……」

 

 脳裏に、先日倉庫の中で、たまたま彼女を両腕でお姫様抱っこした時の感覚が鮮明に蘇ってきた。あの時の、中身が詰まっていない木箱のような、尋常じゃない軽さ。女の子だから華奢だなんて、俺の認識は甘すぎた。あれは、日々の食事すら満足に摂れていない人間の、命の軽さだったんだ。

 

「でも……暴力まで振るわれているっていう割には、部室で見るナツキの顔や手足に、目立つような傷やアザはなさそうだったけどな」

 

「それがね……外から見える範囲には、絶対に痕を作らないみたいなの」

 

「見える範囲、って……」

 

「制服で隠れるお腹とか、背中とか……パッと見じゃ他人に分からないような場所を選んで、お父さんは、ね……」

 

 モニカの言葉の先を想像して、俺は奥歯をギリッと噛み締めた。いつもツンツンと気丈に振る舞い、自分の大好きな漫画のことを熱く語っていたあの小さな少女が、そんな地獄のような日々を送っていたなんて。

 

「それでね、私が部長として、ナツキにティータイムで食べるカップケーキ作りを依頼したの」

 

「どういう意味だ? それが何に繋がるんだ?」

 

「文芸部の正式な活動となれば、材料費も部費から出せるし、学校のお金なら、さすがにお父さんにも取られずに済むしね。それにどうやらナツキのお父さん、外面(そとづら)だけは異常にいいみたいでね。娘が『学校の部活でみんなに配るためのお菓子を作る』っていう大義名分なら、家での作業も認めてくれているの。だから私は、お菓子作りという名目を通して、少しでもナツキに食べさせてあげたいなと思って」

 

 俺は二重の驚愕に襲われた。

 毎日のようにナツキが持ってくる、あのハイクオリティなカップケーキ。てっきり、ただの可愛いお菓子作りの趣味だと思っていたティータイムの存在が、まさかナツキにとって、ダイレクトに飢えを凌ぐための『生きる糧』そのものになっていたなんて。

 

「……それじゃあさ、毎回ナツキ一人に作らせるのも大変だろうし、これからは俺やサヨリたちも含めて、みんなでローテーションして差し入れを持ち寄るようにしないか? その方がナツキの負担も減るし」

 

 少しでも力になりたくて咄嗟に提案したが、モニカは静かに首を横に振った。

 

「ううん、それはナツキにやらせてあげてほしいの。自分で作ればね、『味見』とか『試食』っていう名目で、お父さんに隠れてその場で少しはお腹を満たすことができるから。それに……お菓子を作っている間だけは、お父さんから離れて、誰にも邪魔されない自分の自由な時間でいられるんだって、あの子嬉しそうに言ってたのよ」

 

 そこまでの事を見越して、モニカはあのティータイムを企画していたのか。

 俺は目の前に立つモニカの、全てを見通しているかのような計算高さと、そして何より、傷ついた部員を陰から必死に守ろうとする底知れない優しさに、ただただ驚嘆するしかなかった。

 

 

 

  【ユリを蝕む闇】

 

 一呼吸置いて、モニカが静かに言葉を継いだ。

 

「それじゃあ、ライトくん……次はユリの話も聞いてもらえる?」

 

「あの大人しくて優等生なユリに、一体どんな問題があるんだ?」

 

 ナツキの件だけでも頭が痛いというのに、ユリにはどんな問題があるのだろうか。俺が身構えると、モニカは悲痛に満ちた声でその事実を口にした。

 

「うん。ユリにはね、自傷癖があるの」

 

「……っ!」

 

 思わず叫びそうになった声を、俺は喉の奥で必死に噛み殺した。自分の胸を強く押さえ、跳ね上がる鼓動を落ち着かせる。

 

「自傷癖って……あの、手首を切ったり、するっていうアレか?」

 

「ええ。彼女、感情が高ぶると、どうしても自分を抑えられなくなっちゃうの。そうして興奮を鎮めるために、自分の腕や肩を刃物で傷つけてしまうのよ。制服の長袖の下は、自分でつけた傷跡でいっぱいよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、つい数日前の部室での光景がフラッシュバックした。

 

 いつもの男友達やサヨリにやるのと同じような軽いノリで、挨拶代わりにユリの肩をポンと叩いたことがあったのだ。その時、ユリは言葉を失うほど大きく身体をビクつかせていた。当時は「ちょっと距離感が近すぎて引かれちまったか」と少し反省したものだったが、違う。あれは引かれたからじゃない。制服の下に隠された、生々しい傷口に触れてしまった激痛のせいだったんだ。

 

「……あいつ、そんなに派手にやってるんだな」

 

「しかもね、彼女の趣味はナイフの収集なの。そして、そのコレクションしている本物のナイフで自傷行為に及んでいるのよ」

 

「ナイフで……?」

 

「カッターナイフと違って、本物のナイフは重量があるでしょ? だから、本人が思っている以上に刃が深く入っちゃうことがあるの。だから、本当に、いつ取り返しのつかないことになるか分からなくて、とっても危ないのよ」

 

「一歩間違えたら、死んじゃう危険だってあるってことか……」

 

 目眩がしそうだった。俺は今まで、ユリはナツキに比べて落ち着いているし、ずっと大人の精神を持っているのだと思い込んでいた。だから、あの二人が言い争いをした時も、どこか子供っぽく我儘に見えるナツキの方を優先して、ナツキ寄りの位置に立っていたような気がする。

 

 だが、ユリはその度に、人知れず深く心を痛めていたのかもしれない。そして、言葉にできないその苦しみを、ナイフで自分の肉体を傷つけるという歪んだ方法でしか慰めることができなかったのだとしたら――。

 

 自分の無神経さと、彼女たちが背負う闇の深さに対する申し訳なさが胸の奥から溢れ出してきて、何だか視界が急に熱く、涙で滲んできた。

 すると、そんな俺の様子に、モニカがすかさず気がついた。

 

「ライトくん……二人のために、泣いてくれているの?」

 

「いや、違う! 別に泣いてる訳じゃなくて……これはあれだ、急に目にゴミが入ったっていうか、これくらいすぐ引っ込むし! 目から零れ落ちなきゃノーカンだから!」

 

 本当に泣きたいのはモニカの方だろう。彼女の前で俺が泣いてどうする。俺は慌てて目をゴシゴシと擦り、必死になって取り繕う。

 だが、廊下に出てからずっと深刻で暗い表情をしていたモニカが、ここで初めて、フッと小さく、どこか愛おしそうな笑顔を見せた。

 

「ううん、ありがとうね、ライトくん。あなたのその涙を見ていたら、何だか私まで救われたような気がしたわ」

 

「……そ、そっか」

 

 考えてみれば、家庭内虐待に、深刻な自傷行為。どちらも普通の女子高生が一人で抱え込むには、あまりにも重すぎる問題だ。部長としてそれらをすべて打ち明けられ、一人で受け止めていたモニカは、これまでどれほど孤独に思い悩んでいたのだろう。

 

 はっきり言って、今の俺には、あの二人のためにできることなんて何一つ思い浮かばない。だけど、モニカと二人で秘密を共有したことで、せめて少しでも彼女の心の支えになれればと、俺は強く願った。

 

 

  続く

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。